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『笛吹き女など誰でも代われる』と花笛祭の主笛を降ろされましたが、風の順路は三十七年分わたくしの頭の中ですので、どうぞご自由にお吹きくださいませ

作者: uta
掲載日:2026/09/30

「セリア・ノスフィール。今年の主笛は、ミレーヌが務める。君は降りてくれ」


大聖堂前の広場。祭の三日前。

春の風が、まだ冷たい石畳の上を滑っていきました。


宣告したのは、わたくしの婚約者──風司祭長の嫡男、アルヴィン・グレイド様。

艶のある栗色の髪。祭礼装束の裾を、話しながら二度も直す人。


その隣で、蜂蜜色の巻き毛の少女が、申し訳なさそうに小首を傾げます。


「だってセリア様、笛はお上手ですけど……地味ですもの。祭は華やかでなくては」


ミレーヌ・カレンド男爵令嬢。十七歳。

半年前、聖堂で歌ったひと節が『風の寵愛を受けた声』と評判になり、一夜で神殿の寵児になった娘。

ギフトは【美音】。聞く者の心を陶然とさせる音を出す。


──ただ、それだけの。


「笛吹き女など、正直、誰でも代われる」


アルヴィン様が、悪びれもせず続けます。


「順番通りに吹けばいいだけだろう」


『誰でも代われる』


……なるほど。

十二年間、毎朝四時半に丘へ登った人間の前で、よくもまあ。


わたくしの前世は、現代日本の気象観測所職員でした。

野々宮聖良、二十九歳。十年間、毎日同じ時刻に風向・風速・気温・湿度を記録し続けた、誰にも褒められない仕事人です。

台風接近中の観測塔で、飛ばされかけた風速計を回収しようとして死にました。


最期に思ったことを、今でも覚えております。

『これ、記録欠測になるな』


そういう人間だったのです、わたくしは。


ですから、ここで喚いたりはいたしません。

怒鳴ったところで、風は渡りませんもの。


わたくしは髪を耳の後ろへ流しました。

耳を塞がないこと。風の音を聞くための、ただそれだけの習慣です。


「では、ひとつだけ伺ってもよろしいですか」


「なんだ」


「第十四笛座の『吹き送り』は、今年は何刻に入れますか」


アルヴィン様が、一瞬、止まりました。


「……当日、風が来た時に吹けばいいだろう」


「そうですか」


それ以上は、何も申しません。

答えられない人を、答えられないまま立たせておく。それが一番静かで、一番残酷なのだと知っておりますので。


わたくしは懐から、一枚の書面を取り出しました。


『主笛役辞任届』


署名済み。日付は、三日前。


アルヴィン様が眉を寄せます。


「……なんだ、その紙は。なぜ、もう書いてある」


「風より先に来るものは、だいたい決まっておりますので」


そう申し上げて、差し出します。


「花笛祭主笛の任、返上いたします。受理の印をどうぞ」


「……いいだろう。押した。これで君は、自分から降りたことになる」


祭礼用の、風の紋章が入った赤い印。


「ええ」


わたくしは書面を受け取り、丁寧に折りました。


「そして同時に、あなたが祭の三日前に主笛を替えた証拠にもなりました」


「……は?」


ミレーヌ様が、嬉しそうに笑っておりました。右頬にだけ、小さな笑窪。

意味は、まだお分かりにならないようです。


わたくしは軽く礼をして、背を向けました。


「どうぞご自由に、お吹きくださいませ」


風が、広場を横切っていきます。

南南西、弱。

──例年より、二日早い立ち上がり方でした。


*


「姉上、なんで怒らないの!」


屋敷に戻るなり、末弟のテオが飛んできました。十四歳。そばかす、寝癖、泥だらけの膝。

冒険者ギルドの見習い受付に登録したばかりで、まだ剣も魔法も使えない少年です。


「もう聞いたのですか。早いこと」


「ギルドの掲示板に貼り出されてた! 『花笛祭主笛、ミレーヌ・カレンド嬢に変更』って! 三日前だよ!? そんなの──」


「規約違反ですね」


「……え」


「神殿規約第四条。『主笛の変更は祭の三十日前までに神殿会議の承認を要す』。三日前の変更は、承認のしようがございません」


テオが口を開けたまま固まりました。


「じゃあ、告発しようよ!」


「いたします。ですが、順番がございます」


わたくしは机の抽斗から、革表紙の帳面を七冊、積み上げました。

七歳から十九歳まで。毎朝四時半と、毎夕六時。丘の風の記録です。


ギフト【風の記録】。

効果は『自分が一度耳で聞いた風の流れを、日付・時刻・風向・風速まで正確に記憶し、照合できる』。

発動条件は、自分の耳で風の音を聞いていること。

限界は──未来を予測できないこと。できるのは、過去との照合のみ。


つまりわたくしは予言者ではなく、人間気象台です。自覚はございます。


ですが、帳面は嘘をつきません。


「テオ。三月十二日から十六日まで、毎朝の谷風が何刻に立ち上がったか、読み上げてください」


「え、えっと……十二日、寅の下刻。十三日、寅の下刻。十四、十五、十六……全部、寅の下刻だ」


「例年は?」


わたくしは別の頁を開きます。


「卯の上刻。──一刻、早い」


テオの顔から、血の気が引いていきました。この子は馬鹿ではないのです。


「……姉上。同じことが起きた年、ある?」


「二度。八年前と、十九年前」


「その年の風花は」


「祭の当日ではなく、前日の夕刻に到達しています。二度とも」


部屋が静かになりました。

窓の外で、遅い鳥が鳴いております。


「……間に合わないじゃん」


「ええ。祭が始まる前に、風花が来ます」


わたくしは三冊目の帳面を閉じ、立ち上がりました。


「テオ。写しを取ってください。八年前、十九年前、そして今年の三月。三枚一組で、冒険者ギルドと神殿に」


「わかった。……どこ行くの、姉上は」


「王都へは参りません」


灰青の外套を羽織ります。踵の低い、履き潰した革靴。


「山の麓の、避難村へ」


「なんで避難村」


「避難させる必要が出るからです」


テオが息を呑みました。


「……オレは怒るよ。姉上が怒らなくても、オレは怒る」


「どうぞ。怒りは人を走らせますから、役に立ちます」


わたくしは弟の頭を、一度だけ撫でました。


「ただ、怒っても風は渡りません。走ってくださいね」


「──走る!」


少年は飛び出していきました。


その足が、四百十二人を救うことになるのですが。

それも、まだ後の話です。


*


天幕の中で、いきなり爆発音がしました。


「──っくしゅん!! くしゅんっ!! ぐしゅっ!!」


三連発。

卓上の書類が一斉に舞い上がり、副官らしき男が慌てて両手で押さえ込みます。


天幕の奥。麻布で顔の下半分をぐるぐる巻きにした大男が、目を真っ赤にして座っておりました。

黒髪、灰狼のような目、肩幅は扉ほど。


辺境伯ライハルト・ヴェルン。二十七歳。魔素嵐討伐で名を上げた『風斬り』の剣士。

社交界では『女に興味のない氷の狼』と呼ばれ、舞踏会に三度招かれて三度とも欠席した男。


……重度の花粉症だったのですね。


「笑うな」


「笑っておりません」


「目が笑っている」


「風花は蜜のような甘い匂いがいたしますものね。お辛いでしょう」


「甘いか。俺には殺意の匂いがする」


布の下から低い声。彼は目をこすりながら、わたくしを上から下まで見ました。

装飾のない外套、日焼けした頬、一本に結んだ亜麻色の髪。


「ノスフィール子爵家の三女。主笛を降ろされたそうだな。三日前に」


「早耳でいらっしゃいます」


「で、令嬢」


彼は書類を一枚、指で押さえて止めました。


「君は何ができる?」


──ああ。


この世界に来て十九年、はじめて、そう聞かれました。

『君は何者だ』でも『君は誰の娘だ』でもなく。


「風の記録なら、三十七年分あります」


「……ならやってみろ」


わたくしは机の上に、三枚の写しを並べました。


「一件目。今年の南風の到達は、例年より二日早い。三月十二日から十六日まで、毎朝の谷風が例年比で一刻早く立ち上がっています。同じ前兆が起きたのは八年前と十九年前。二度とも、風花は祭の当日ではなく、前日夕刻に到達しました」


ライハルト様は、写しを目で追いました。速い。数字の読める人の目の動きです。


「二件目。主笛の交代は、神殿規約第四条違反です。変更は三十日前までに神殿会議の承認が必要。交代通告は三日前。つまりミレーヌ様は、規約上そもそも主笛ではございません。風司祭長が父権で押し通したものです」


「三件目は」


「──三件目が、最も重いのです」


わたくしは、丘の見取り図を広げました。三十七の笛座。その十四番目に、指を置きます。


「第十四笛座は、欠けています」


「欠けている?」


「三十年前の落石で、岩棚が崩れました。以来、十四番は『十三番の吹き手が二度吹き』で代行しております。これは口伝のみ。神殿の順路表には、一行も書かれておりません」


天幕の中の空気が、変わりました。


「ミレーヌ様は、順路表しかご覧になっていません」


「……二度吹きを、知らない」


「はい。十四番が抜ければ、風花は丘の東斜面で渦を巻きます。そして──山へ逆流します」


わたくしは、一番古い写しを最後に置きました。祖母の筆跡。三十年前。


「三十年前の落石の年、実際にそれが起きました。魔素嵐が発生し、麓の村が二つ、消えております」


沈黙。


ライハルト様は、十秒ほど何も言いませんでした。

布の上の赤い目が、ただ図面を見ておりました。


そして。


「──副官」


「はっ」


「避難命令を出す」


「閣下!? しかし神殿からは何の通達も──」


「俺の権限だ」彼は立ち上がりました。天幕の天井に頭が届きそうでした。「令嬢。何人動かせばいい」


「東斜面の三村。四百十二人です」


「荷は」


「捨てさせてください。半日あれば足ります」


「半日で足りるのか」


「わたくしが測りましたので」


彼は、布の下で少しだけ笑った気がしました。


「……いい返事だ」


そして、副官に告げました。


「工兵を二十、丘の東へ回せ。第十四笛座の岩棚を、仮設で組み直す」


「三十年崩れたままのものを、二日でですか!?」


「関係ない。笛が要るなら足場を作る。それが俺の仕事だ」


わたくしは、深く頭を下げました。


「──っくしゅんっ!!」


書類がまた舞いました。


「……お大事に」


「笑うな」


「笑っておりません」


*


神殿へは、一通だけ書簡を送りました。


『第十四笛座の代行につきまして、ミレーヌ様はご存じでしょうか。

十三番の吹き手による二度吹きの件、当日までにご確認くださいますよう。

セリア・ノスフィール』


嫌味も、恨み言も、一行も入れませんでした。

入れてしまえば、感情の文書になります。感情の文書は、証拠になりませんので。


返事は来ませんでした。


代わりに届いたのは、アルヴィン様からの短い叱責でした。


『役を降りた身で、祭に口を出すな。

不安を煽るな。

風読みの真似事はもうやめろ』


わたくしは、その紙を丁寧に折って、帳面に挟みました。

日付と受領時刻を、隅に書き添えて。


──お気の毒に。

あなたは今、ご自分で証拠に署名なさいました。


*


避難は、テオが走りました。


東斜面の三村。四百十二人。

『荷は捨ててください』と言われて素直に従う村人など、本来おりません。

ですが、ライハルト様の紋章と、テオの息切れした声がそれを動かしました。


「魔素嵐が来ます! 三十年前と同じです! ばあちゃん、鍋はいい! 鍋は後で買える!」


少年が泣きそうな顔で叫ぶのは、大人の命令より効くものなのだそうです。


夜、山道を下りてきたテオが、わたくしの前でぽつりと言いました。


「……姉上」


「はい」


「六歳の子の手、引いて下りたんだけど」


「ええ」


「手が、汗ばんでてさ」


彼は自分の手のひらを見ておりました。


「離せなかった。途中で、こっちが握ってんのか、握られてんのか、わかんなくなった」


わたくしは、弟の隣に座りました。


夜の風が、東から西へ渡っていきます。

風花の匂いがしました。甘い、蜜のような、それでいて金属のような匂い。


──もうすぐです。

記録の通りなら、明日の夕刻。


「テオ」


「ん」


「あなたの引いた手は、四百十二分の一ではありません」


「……なにそれ」


「一です」


弟は、しばらく黙っておりました。

それから、鼻をすすりました。


「……風花のせいだからな、これ」


「ええ。風花のせいですね」


*


丘の入口の石に、老人が腰掛けておりました。


ハルマ・ドグ。七十四歳。笛座守。

三十七の笛座を五十年掃き続けてきた人です。腰は曲がり、耳も遠い。

ですが、風の音だけは聞こえる。


わたくしが七歳で初めて丘に登った朝、一番に見つけたのがこの人でした。


『嬢ちゃん、こんな刻に何しとる』

『風を聞きに』

『……そうか』


それだけ。

それ以来十二年、この人は毎朝四時半、この石に座っておりました。

何も教えず、何も止めず、ただ座って。


「ハルマ」


「……降ろされたと」


「降りました」


「そうか」


老人は、曲がった腰のまま、箒の柄を握り直しました。


「十四番のこと、知っとるのはワシと、嬢ちゃんと、もう一人だけじゃ」


「存じております」


「そのもう一人は、三十年、黙っとる」


わたくしは、山の上を見ました。

銀糸の祭礼装束が、遠く聖堂の階に見えます。

風司祭長バルド・グレイド様。アルヴィン様の父君。


「──ええ」


覚えていて、先送りなさった方ですね。


*


風花が来たのは、祭の前日、夕刻でした。


記録の通りに。


山の裾から、金色の靄が立ち上がります。

蜜の匂い。光る粉。一年分の魔力結界と、農地の豊穣の種。


丘の上は大混乱でした。

祭は明日のはず。天幕は半分しか立っておらず、笛座には吹き手が揃っておりません。


それでもアルヴィン様は叫びました。


「構わん! 吹け! 順路表の通りだ!」


ミレーヌ様が、第一笛座に立ちました。

蜂蜜色の巻き毛が風に舞い上がります。絵のように綺麗でした。


彼女が笛を構え、【美音】が響きます。


──ああ、確かに、美しい音でした。


聞く者の胸を掴み、陶然とさせる音。

丘の下の群衆から、ため息が上がりました。


風花が、ゆるりと動きます。

第二笛座。第三。第四。

音が渡る。金色が丘を這い上がっていく。


第七。第八。


わたくしは東斜面の崩れた岩棚の上で、それを見ておりました。

ライハルト様の工兵が二日かけて組み直した、仮設の足場。

丸太と縄と、打ち込んだ楔。美しくも何ともない、ただ人が立てるだけの板。


第十一。第十二。


──そして。


第十三笛座の音が、終わりました。


次は、第十四。


順路表には『第十四笛座 短吹き一』と書かれております。

そこに笛座はありません。三十年前から。


誰も、二度吹きしません。


音が、途切れました。


一瞬の空白。

風だけが、丘を鳴らす音。


風花が、止まりました。


金色の帯が中空でよじれ、渦を巻き始めます。

東斜面。まさにわたくしの立つ、この真上で。


渦は速度を上げ、色を変えました。

金から橙へ。橙から、赤黒へ。


甘かった匂いが、焦げた鉄の匂いに変わります。

魔素嵐の前兆。


丘の上で、悲鳴が上がりました。


「なぜだ!? 音は完璧だったぞ! ミレーヌ、なぜだ!」


「わ、わたくし、順路表の通りに──十三の次は十四で、でも十四に誰も立って──ないんです! 笛座が、十四番だけ、ないんです!」


ミレーヌ様の声が、裏返りました。


初めて、彼女は理解したのでしょう。

自分が暗記していたのは、紙に書かれたことだけだったと。

紙に書かれていないことは存在しない、と思っていたのだと。


──風は、音の美しさでは動きません。

動くのは、順番と拍だけです。


「セリア!」


風の唸りの中で、その声は驚くほどよく通りました。


「セリア! セリアはどこだ!」


アルヴィン様が丘の上で叫んでおりました。

三日前、『誰でも代われる』と仰った口で。


失ってから、名を呼ぶ人。


わたくしは、笛を構えました。


歌口が冷たい。

十二年、この冷たさを唇で覚えました。

指先の胼胝が三つ、いつもの場所に収まります。


足元で、ハルマが無言で箒を差し出しました。


「お借りします」


足場の埃を、わたくしは一度だけ払いました。


褒め言葉を一度も口にしたことのない老人の、それが全肯定でした。


耳を出します。髪を後ろへ。


聞く。


十三番の音の残響。その最後の拍。

消えた、その裏。


──三十七年分の記録が、頭の中で一斉に頁をめくる音がしました。


八年前の前日夕刻。十九年前の前日夕刻。

風向、南南西。風速、中。渦の巻き始めから、逆流まで、およそ二十拍。


間に合います。


わたくしは、息を入れました。


短く。

乾いた、一音。


派手さは、何もありません。

美しくもありません。

喝采も起きません。


ただ、正しい拍に、正しい高さで、置いただけの一音。


──ですが。


風は、それを覚えておりました。


赤黒い渦が、ほどけました。


よじれていた帯が、ほどけて、伸びて。

金色に戻りながら、東斜面から丘の背へ、するりと滑っていきます。


第十五笛座の吹き手が、我に返って笛を鳴らしました。

十六。十七。


順路が、戻る。


風花が街の上空へ昇っていきます。

金の粉が、夕日の中で一斉に光りました。


結界が、張られました。


丘の下の群衆が、どよめきます。


わたくしは笛を下ろし、口元を袖で拭いました。


喉が焼けるように痛みました。

三十七年分の風を、たった一音に押し込むというのは、思いのほか、息が要るものです。


「……令嬢」


背後で、しゃがれた声がしました。

顔を布でぐるぐるに巻いた大男が、岩棚を登ってきておりました。


「渡ったか」


「渡りました」


「そうか」


彼は真っ赤な目で空を見上げ、それから、盛大に──


「っくしゅんっ!!」


足場が、少し揺れました。


「……足場が揺れておりますが」


「笑うな」


「笑っておりません」


*


神殿会議は、祭の三日後に開かれました。


わたくしが提出したのは、三通です。


一通目。『主笛役辞任届』。

受理印は、アルヴィン様ご自身のもの。日付は、祭の三日前。


「本書面により、主笛の変更が祭の三日前に行われたことが確定いたします。神殿規約第四条は『三十日前までに神殿会議の承認を要す』。承認記録は、議事録のどこにもございません」


二通目。『風読み報告書』の写し。


「祭の五日前、神殿は『南風の到達は例年通り、祭当日』と公示しております。ですが観測記録では、三月十二日以降、谷風が一刻早く立ち上がっておりました。同一前兆の年──八年前、十九年前。いずれも前日夕刻到達。虚偽ではなく、観測の不在です。つまり、誰も測っていなかった」


議場がざわめきました。


アルヴィン様が立ち上がります。


「そ、それは結果論だ! 誰にも予測などできん!」


「ええ」


わたくしは頷きました。


「わたくしにも、予測はできません」


「な……」


「わたくしのギフトは【風の記録】。未来は見えません。できるのは、過去との照合だけです。つまり──誰でもできます。毎朝四時半に、十二年、丘に登れば」


アルヴィン様の顔が、白くなりました。


「そして三通目を」


わたくしは、最も厚い束を卓に置きました。


「神殿の予算決裁記録。過去三十年分でございます」


議場が、しんとしました。


「第十四笛座の復旧予算。三十年間、毎年『来年度へ繰延』。決裁者の署名は、すべて同一です」


わたくしは顔を上げました。


上座。銀糸の祭礼装束。

バルド・グレイド風司祭長。五十八歳。国内一と評判の美声の持ち主。


「第十四笛座が崩れたままであった責任は、落石にはございません」


静かに申し上げました。


「三十年前の魔素嵐で消えた二つの村の名を、猊下はご存じのはずです。──あの日、丘の上で、口の中で唱えておられましたので」


司祭長は、何も言いませんでした。


弁明も、怒号も、ありませんでした。

彼は息子と違って、叫ばない人なのです。


処断は簡潔でした。


『神殿規約第四条違反、ならびに風読み報告の職務懈怠により、風司祭長バルド・グレイドおよび祭礼補佐アルヴィン・グレイドの職を解く』


司祭長は立ち上がり、腰の印綬を外して、卓に置きました。


退室の際、彼はわたくしの前で一度だけ足を止めました。


「……君の祖母も、同じ顔で私を見た」


それだけ言って、去りました。


祖母は三十年前、十四番の二度吹きを伝えた三人のうちの一人でした。

──そういうことでしたか。


*


議場を出たところで、アルヴィン様に袖を掴まれました。


「セリア」


祭礼装束の裾が、乱れておりました。

初めて見ました。この方が、裾を気にしていないところを。


「戻ってきてくれ。君しかいないんだ」


わたくしは、袖を静かに引き抜きました。


「ええ」


窓の外で、風が鳴っています。南西、弱。


「わたくししか、おりませんでした」


彼の目を見ました。


「あなたが『誰でも代われる』と仰った、あの日に」


*


回廊の隅で、ミレーヌ様が待っておりました。


巻き毛は乱れ、目は腫れております。


「……セリア様。わたくし、知ってたんです」


彼女は俯いたまま言いました。


「自分のギフトが、ただ『美しい音』でしかないこと。風は動かせないこと。……たぶん、半年前から、薄々」


「はい」


「でも」


声が震えました。


「男爵家の三人姉妹の、真ん中で。十七年間、誰からも指名されたことがなくて。……初めて『君でなければ』って言われて」


「手放せなかったのですね」


「……はい」


わたくしは、少し考えました。


怒るべきなのかもしれません。テオなら怒るでしょう。

ですが、怒っても風は渡らないのです。


「ミレーヌ様」


「はい」


「聖堂の朝の風は、丘より半刻遅れて入ります。窓を開けておくと、よくわかりますよ」


彼女は、顔を上げました。


「……なぜ、そんなことを」


「気が向いたら、測ってごらんなさい」


数日後、ミレーヌ様は笛座を降り、聖堂の清掃係として残ることを、ご自分で選びました。


誰にも、命じられずに。


*


三年が経ちました。


花笛祭の主笛は、わたくしが務めております。

三十七の笛座は、すべて修復されました。第十四笛座の岩棚も、石を組んだ本設の足場に変わっています。


そして今年、わたくしは一冊の書物を神殿に納めました。


『風渡り観測記録 ──三十七年分および補遺』


丘の風の記録。谷風の立ち上がり時刻。南風到達の前兆。

各笛座の拍と順路。そして、十四番の二度吹き代行の口伝。


すべて、書きました。

誰でも読めるように。


「もったいなくないの、姉上」


正式な冒険者になったテオが、納本の日にそう言いました。背が伸びて、もうわたくしより高い。


「せっかく姉上にしかできない仕事なのに、誰でもできるようにしちゃうなんて」


「──それが、本質なのです」


前世で十年、毎日同じ時刻に風を測り続けて、わたくしが学んだのはそれだけでした。

観測とは、自分が特別になるための仕事ではありません。

自分がいなくなった翌日も、誰かが同じ数字を取れるようにするための仕事です。


記録は、引き継げなければ記録ではないのですから。


「……ふうん」


テオは写本を一冊、旅の荷に押し込みました。


「誰でも読めるように書いたんだろ。じゃあ、オレが読む」


*


朝の聖堂で、蜂蜜色の巻き毛の娘が、埃を払いながら頁を一枚ずつ繰っている姿を、時折見かけます。


声はかけません。


彼女の机の隅に、小さな帳面が置いてあるのを、一度だけ見ました。

日付と、時刻と、窓から入る風の向きが、拙い字で書いてありました。


*


丘の入口の石には、今も老人が腰掛けております。


ハルマ・ドグ、七十七歳。

いまだに毎朝四時半、そこにいるのです。


先日、王都から来た若い書記官が、彼にこう尋ねているのを聞きました。


「──ご老人。伺いますが、本当なのですか。三十七年、あの丘の風を全部覚えている娘がいるというのは」


老人は、箒の柄で地面を一度突きました。


「馬鹿な」


「では、やはり噂でしたか」


「風は誰にも覚えられん」


書記官が頷きかけたところで、老人は空を見上げました。


「──覚えられますよ」


訛りが、抜けました。


「毎朝四時半に、十二年登れば」


*


丘を下りると、麓で男が待っておりました。


顔の下半分を麻布でぐるぐるに巻き、その上からもう一枚、目の下まで布を足しています。

今年は二枚。去年は一枚半でした。記録しております。


「令嬢」


「はい」


「風はもう渡ったか」


「ええ。東の空に上がりました。今年は例年より半刻早い立ち上がりですが、順路は問題ありません」


「そうか」


ライハルト・ヴェルン辺境伯、三十歳。

三年前と同じ場所で、三年間、同じように待っている人です。


風花が、二人の間を流れていきました。甘い、蜜の匂い。


布の上の灰狼の目が、ぎゅっと細くなりました。来ます。


「……っくしゅんっ!!」


「お見事です。今年の初発は、去年より一刻二十分遅うございますね」


「なぜ知っている」


「次は、あなたの花粉症の記録を取らせてくださいませ」


「断る」


「三年分、もう取ってあります」


沈黙。


布の上の目が、ゆっくりと逸らされました。


「……何が書いてある」


「発症時刻、くしゃみの回数、布の枚数。それから」


わたくしは帳面を閉じました。


「毎年、必ず麓で待っていらっしゃること」


「……それは、記録するようなことか」


「三年続けば、記録です」


彼は何か言いかけて、やめました。

そして、もう一枚の布を、無言で鼻の上まで引き上げました。


風が、二人の間を渡っていきました。


南南西、弱。

──覚えておきます。

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