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砂海に鳴る、骨の鈴  作者: 百花繚乱


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1/1

タイトル未定2026/03/02 11:52

舞台(世界遺産):ナミビア「ナミブ砂海」

主人公:相沢 つむぎ(29)


職業:出版社の編集者(旅エッセイ担当)


長所:相手の言葉を丁寧に拾える


短所:自分の本音を“編集して”消してしまう


矛盾ペア:優しい/残酷(優しさで相手を黙らせることがある)


主要人物:ハイル(26)


砂漠の調査隊に同行する青年。現地ガイド兼、言語学の研究者。


長所:観察眼が鋭い


短所:誰も信じないふりをして、一番信じたい


背景:砂海で“音”を失った家族の話を抱えている


故人:高槻 恒一(30)


つむぎの恋人。写真家。


彼の遺した写真が“時間の層”を開く鍵になる。

目次


第一章 幸福の招待状

第二章 砂の国境線

第三章 白い町、音のない家

第四章 骨でできた鍵

第五章 潮のない海に、波の記憶

第六章 嘘をつく星図

第七章 喉の奥で割れる祈り

第八章 世界が沈む前の写真

第九章 あなたの名前を埋めないで

第十章 鈴が鳴る場所へ

ーー

第一章 幸福の招待状


春の匂いは、いつも少しだけ嘘をつく。

駅前の花壇のチューリップは、昨日までの雨を忘れたふりをして、濡れた茎を真っ直ぐに伸ばしていた。


わたしはその横を、紙袋を抱えて歩いていた。中身は校了したばかりの旅エッセイの見本誌と、今夜のための小さなケーキ。

「帰ったら、ちゃんと祝おう」

そう言って笑った顔が、まぶたの裏に浮かぶ。


玄関の鍵を回す。

靴が二足、揃っているのが見えた。わたしのと、彼の。

それだけで、胸がほどける。

幸福って、こんなふうに、生活の細部に紛れている。


「ただいま」

返事はない。

いつもなら、奥の部屋からシャッター音がして、次に「おかえり」と言いながら、彼が現れる。カメラを首から下げたまま。


今日は、音がない。

部屋の空気が、薄い氷でできているみたいに、呼吸が引っかかった。


寝室のドアが半分開いている。

そこから見えたのは、床に落ちた一枚の写真だった。

砂丘。風紋。海のように波打つ影。

知らない場所なのに、潮の匂いがした。


彼――高槻恒一は、ベッドの脇に倒れていた。

手は胸元を掴むように曲がり、唇は開きかけたまま。

叫ぼうとして、声が出ない。

喉が砂で埋まる。


救急車。病院。医師の口が動く。

「突然死の可能性が高い」

言葉の意味が、うまくわたしに届かなかった。

届く前に、世界の方が先に崩れた。


葬儀のあと、わたしは言葉を編集しなくなった。

必要最低限の返事。必要最低限の仕事。

原稿の行間が、すべて砂漠に見えた。

白い余白だけが、無限に続く。


そして一週間後、郵便受けに一通の封筒が入っていた。

薄い灰色の紙。宛名は手書きで、わたしの名前だけが書いてある。


封を切ると、カードが一枚。

黒いインクで短い文。


――砂の海で、あなたの失ったものを返す。

――ナミブ砂海。三月二日。

――鈴が鳴る場所へ。


息を吸うと、喉の奥が痛んだ。

三月二日。今日。

偶然のはずがない。

でも、誰が?


カードの隅に、小さく押された紋章があった。

骨の形をした鈴。

それを見た瞬間、机の上の写真――彼が落とした砂丘の写真が、わずかに震えた気がした。


わたしは、その震えに、負けた。


第二章 砂の国境線


空港のアナウンスは、どの国でも同じ音色をしている。

早口で、優しくて、誰の心にも触れない。


ナミビアへ向かう便は遠かった。

乗り継ぎのたびに、わたしの時間感覚は薄くなる。

恒一がいない世界が、ただ続いていることだけが、はっきりした。


ウィントフックの空は高く、乾いていた。

肌の水分が、空に吸われていく。

「砂漠は、泣くと損だよ」

そんな冗談を、恒一は言いそうだ。


迎えに来ていた車のそばで、背の高い青年が手を上げた。

日に焼けた頬。目は黒く、まつ毛が長い。

「相沢つむぎさん?」

日本語ではない。英語だ。

でも発音が丁寧で、言葉の隙間が静かだった。


「ハイルです。砂海の調査隊に同行するガイド。あなたに招待状が来たってことは……」

彼は言いかけて、口を閉じた。

その沈黙が、わたしの胸の中の穴に似ていて、少しだけ苦しくなった。


車は南へ走る。

都市の輪郭が薄れ、地平線が太くなる。

赤い土。低い灌木。空の青。

窓を開けると、乾いた風が頬を撫でた。

砂の匂い。鉄の匂い。

そして、微かに、塩の匂い。


「海から遠いのに」

わたしが呟くと、ハイルはハンドルから指を離さずに言った。

「昔ここは海だった、って説もある。砂漠は、海の亡骸だよ」


亡骸。

その言葉が、胸の中で硬い音を立てる。

恒一のことを、そんなふうに呼びたくなかった。

呼びたくないのに、世界は勝手にそうなってしまった。


夕方、砂丘の手前の小さなロッジに着いた。

女主人のナアマは、わたしの顔を見るなり、何も聞かずに水を差し出した。

冷たいグラスの表面が、指先の熱を奪う。


夜、部屋で眠ろうとしても、暗闇がざらついて眠れない。

枕元に、例のカードを置く。

紋章の骨鈴が、灯りを受けて白く浮かぶ。


耳を澄ますと、遠くで風が鳴っている。

笛みたいに。

鈴みたいに。


第三章 白い町、音のない家


翌朝、砂丘は、海よりも海だった。

波。うねり。泡の代わりに光。

足を踏み入れると、靴の中まで砂が入る。

細かい粒が、皮膚の境界を曖昧にしていく。


調査隊の車列が進む。

ハイルの背中が、陽炎の中で揺れる。

「目的地は、コールマンスコップ。幽霊都市」

彼が振り返らずに言う。

「砂に埋まった家。音のない町」


やがて、白い建物が見えた。

窓枠は剥げ、ドアは歪み、屋根は半分落ちている。

なのに、どこか“暮らし”の匂いが残っている。

かつて誰かがここで笑い、怒り、眠った。

その痕跡が、砂に保存されている。


一軒の家に入ると、床一面に砂が積もっていた。

階段の途中で砂が止まり、二階は空洞になっている。

砂が家を食べている。

静かに。ゆっくりと。


その部屋の中央に、小さな木箱があった。

鍵がかかっているはずなのに、蓋が少し浮いている。

わたしが指を伸ばすと、ハイルが止めようとした。

「待って。それは……」


でも、もう触れていた。

箱の中には、鈴がひとつ。

白い。艶がない。

骨でできているのが、見ただけでわかった。

手に取ると、冷たくて軽い。

中の玉が、微かに動いた。


カラン。

乾いた音。

それは鈴の音なのに、水の底で鳴ったみたいに遠い。


次の瞬間、わたしの視界が、砂に覆われた。

砂が舞う。風が唸る。

世界が、紙をめくるみたいに反転する。


気づくと、わたしは同じ家の入り口に立っていた。

さっき入ったはずなのに、時間が戻った?

隊員たちの足音も、同じリズムで近づいてくる。


「いま、鳴らした?」

ハイルが、わたしの手元を見る。

わたしは答えられなかった。

喉が、砂で詰まっている。


ただ、床に落ちていたはずの古い新聞が、違う位置にあった。

ほんの数センチ。

でも確かに、世界が“ずれた”。


「……骨の鈴だ」

ハイルの声が低くなる。

「この砂海には、そういうものがあるって噂だけど……本当に」


わたしは鈴を握りしめた。

骨の感触が、掌の中で生きているみたいに脈打つ。

そして、頭の中に、恒一の笑い声が混ざった気がした。

幻聴ではなく、もっと物質的に。


――つむぎ。

呼ばれた気がして、胸が裂けた。


第四章 骨でできた鍵


夜、ロッジの外は星で満ちていた。

星が落ちてきそうなくらい近い。

地球の暗闇が、こんなに深いことを、わたしは知らなかった。


ハイルは焚き火の前に座り、鈴を見つめていた。

「これ、何の骨だと思う?」

彼が言う。


わたしは答えられない。

答えた瞬間、現実になってしまう気がした。


「昔、ここでダイヤを掘っていた人たちがいた。欲と希望で、町を作った。で、砂に負けて去った。

でも、砂漠は“去ったもの”を返さない。返すとしたら、代償がいる」


代償。

その言葉を聞くだけで、わたしの肩が固くなる。

葬儀のあの日から、わたしはずっと代償を払っている気がするのに。


「招待状は、誰が出したの?」

わたしが言うと、ハイルは首を振った。

「わからない。でも、心当たりがないわけじゃない。

砂海には、時々“届く”んだ。死んだ人からの手紙みたいなものが」


笑えない冗談みたいだった。

でも、鈴は現実にここにある。


焚き火の匂いが、髪に絡む。

乾いた木が燃える音がする。

その音の隙間に、わたしは別の音を聞いた。

波。

海の波。

ここには海がないのに。


わたしは鈴を鳴らした。

カラン。

音が夜に溶ける。


次の瞬間、焚き火が消えた。

星空の位置が変わった。

ハイルの顔が、少しだけ幼く見える。


「……戻った?」

ハイルが唇を噛む。

「どれくらい?」


わたしは、喉に手を当てた。

何かが引っかかっている。

言葉。

言いたいのに言えなかった言葉。

それが、鈴の音で、浮上しそうになっている。


わたしは気づいた。

この鈴は、過去を丸ごと変えるんじゃない。

“砂粒一つぶん”だけ、世界をずらす。

だからこそ、恐ろしい。

少しずつなら、いくらでもやり直せると思ってしまうから。


第五章 潮のない海に、波の記憶


翌日、わたしたちは砂丘の奥へ進んだ。

ナミブ砂海の核心部。

地図には、ただの空白が広がっている場所。


砂丘の尾根に立つと、風が体を押した。

目を細める。

遠くに、黒い筋のようなものが見える。

枯れた木の群れ。

死んだ森。


「デッドフレイ」

ハイルが言う。

「干上がった粘土の皿。昔は川が流れていた」


白い地面に、黒い木。

絵画みたいに不自然で、だからこそ美しい。

わたしは思った。

恒一はここを撮りたかっただろうな、と。


その瞬間、胸が痛んだ。

痛みの形が、写真の縁みたいにくっきりしている。


わたしはバッグから、恒一のカメラを取り出した。

遺品整理で、手放せずに持ってきた。

レンズを覗くと、世界が四角く切り取られる。

その四角の中では、痛みも少しだけ整理できる気がした。


シャッターを切る。

カチリ。

その音が、砂漠の静寂に小さく刺さる。


「似てる」

ハイルが言った。

「あなた、撮るときの息の止め方が」


誰に、とは言わなかった。

でも、わたしの中で恒一が揺れた。


その夜、ロッジで写真を確認していると、カメラのメモリーに見覚えのないフォルダがあった。

日付は――三月二日。

今日の日付。

でも、撮った記憶はない。


フォルダを開く。

砂丘の影。

そして、わたしの背中。

誰かがわたしを撮っている。

距離は近い。

呼吸が写るほど近い。


最後の一枚。

そこには、恒一がいた。

砂の上に立って、カメラを構えている。

生きているときの顔で。

笑っている。


血が引いた。

指が震えて、マウスの代わりにタッチパッドを叩く。

写真は消えない。

現実に、そこにある。


「……嘘」

声が漏れた。

喉の砂が、少しだけ崩れた。


わたしは鈴を鳴らした。

カラン。

音が割れる。


世界が反転する。

ロッジの灯りが揺れる。

次に目を開けたとき、机の上の写真は、まだ表示されていた。

消えていない。

でも、恒一の表情が、少しだけ違う。

笑いが浅い。

目が、わたしの背後を見ている。


背後?

わたしはゆっくり振り返った。


窓の外、闇の向こうに、誰かが立っていた。

人影。

近づいてくる。

砂を踏む音がしない。


わたしは息を止めた。

ハイルが扉を開けて入ってくる。

「つむぎ、今――」


彼の言葉が途切れた。

彼も、窓の外を見た。

顔色が変わる。


「……ナアマだ」

ハイルが呟く。

「いや、ナアマ“だった”人だ」


女主人ナアマは、昼に普通に笑っていた。

でも、窓の外の影は、笑っていない。

口が動く。

音はない。

それでも、わたしの頭の中に言葉が流れ込んだ。


――返すなら、埋めろ。

――返すなら、代わりを。


第六章 嘘をつく星図


翌朝、ナアマは何事もなかったように朝食を出した。

目の下の影は濃い。

でも、わたしが昨夜見た“影”のことを、彼女は語らない。


「砂漠は夢を増幅する」

彼女はパンをちぎりながら言った。

「悲しみも、希望も。だから、気をつけて」


わたしは頷くしかない。

口の中が乾く。

塩の匂いが、鼻の奥に残っている。


ハイルは地図を広げ、砂丘の奥の一点を指した。

「“鈴が鳴る場所”って、多分ここ。古い採掘跡。

でも、行くなら今日しかない。風向きが変わると、戻れない」


戻れない。

その言葉は、わたしの人生そのものだった。

恒一は戻らない。

戻れない。

だから、鈴が欲しくなる。


砂丘を越えて、採掘跡へ向かう。

途中で砂嵐が来た。

風が砂を叩きつけ、肌が痛い。

目を開けると、世界が白く曇る。

砂の粒が、まつ毛の間に挟まる。


そのとき、わたしは“声”を聞いた。

恒一の声。

すぐ近くで、息混じりに。


「つむぎ、止まって」

わたしは足を止めた。

ハイルがわたしの腕を掴む。

「何してる、危ない!」


でも、わたしの視線の先に、黒い穴があった。

砂に覆われた採掘坑。

一歩踏み出せば落ちる。

もし止まらなかったら、落ちていた。


「……今、誰かが」

言いかけて、口を閉じた。

言ったら、壊れる気がした。

わたしは、恒一の声に救われたと言いたい。

でも、それは希望の毒でもある。


採掘跡に着くと、地面に石で描かれた星図があった。

円。線。点。

古代のものではなく、誰かが最近置いたような新しさ。

星図の中心に、小さな穴がある。


ハイルが言う。

「ここに、鈴を置くんだと思う。

それで何かが――」


わたしは鈴を穴の上にかざした。

骨の白が、太陽に透ける。

その瞬間、鈴が自分から鳴った。

カラン。

わたしは鳴らしていないのに。


視界が反転する。

砂嵐が消える。

空が青い。

そして、目の前に恒一がいた。


生きている。

砂丘の上に立ち、カメラを首から下げている。

汗で髪が額に貼りついて、笑っている。


「やっぱり来た」

恒一が言った。

声が、耳に触れる。

温度がある。

夢じゃない。


わたしは一歩、足を出した。

砂が沈む。

膝が震える。

喉が熱い。


「恒一……」

名前を呼んだ瞬間、涙が出た。

泣くと損だ、って言ってたくせに。

砂漠でも、泣いた。


恒一は、わたしの涙を見て、少しだけ眉を寄せた。

「泣くほどのこと、したっけ」

その言い方が、あまりに彼で、胸が潰れた。


ハイルが背後で息を呑む。

でも恒一は、ハイルを見ていない。

わたしだけを見ている。

わたしだけを――見ているはずなのに、視線が一瞬、わたしの肩の向こうへ逃げた。


そこに、何がいる?


第七章 喉の奥で割れる祈り


恒一は言った。

「時間ってさ、写真みたいに現像できると思ってた。

でも現像液って、毒なんだな」


わたしは言葉を探す。

言葉が砂に埋まっている。

拾い上げようとすると、指の間からこぼれる。


「どうして……ここに」

ようやく言うと、恒一はカメラを軽く叩いた。

「これ。撮ったんだ。君の背中。

で、気づいた。

君は、俺が死ぬ前に――俺に何か言おうとしてた」


心臓が跳ねた。

胸の奥で、硬いものが割れる音がした。


あの夜。

仕事で遅くなったわたしが帰宅して、恒一は机の上に封筒を置いていた。

海外の撮影依頼。長期。

「行きたい」

恒一は言った。

わたしは笑って、「すごいね」と言った。

でも、本当は言いたかった。

行ってほしくない。

置いていかないで。

言葉が喉で固まって、飲み込んだ。


その代わり、わたしは別の言葉を言った。

「無理しないで」

編集された、正しい言葉。

その瞬間、恒一は少しだけ笑った。

そして翌日、倒れた。


「君の“言えなかった”が、ここに引っかかってる」

恒一が喉元に指を当てる。

「だから、俺は戻ってきた。

でも――」


彼は視線を逸らした。

わたしの肩の向こうを見た。

そこに、影が立っていた。

ナアマ“だった”影。

口が動く。音はない。

でも、意味だけが流れ込む。


――返すなら、埋めろ。

――返すなら、代わりを。


「代わりって、何」

わたしが言うと、恒一は苦笑した。

「君も聞こえるんだな」


ハイルが叫んだ。

「つむぎ、鈴を置け! これは取引だ。

“返す”ってのは、交換なんだ!」


交換。

代わり。

代償。


わたしの頭の中に、最悪の計算が走る。

恒一を返すなら、誰かを埋める。

誰かを砂に渡す。

それは、誰?


わたしは恒一を見た。

彼の瞳の奥に、怖れがある。

「俺は、君にそれをさせたくない」

恒一が言った。

「だから、君がここまで来る前に止めたかった。

でも、君は……来た」


わたしは頷いた。

来た。

来てしまった。

そして今、選ばなきゃいけない。


喉の奥で、祈りが割れる。

「返して」

そう言ってしまいそうになる。

でも、それは誰かの死と同義だ。


わたしは鈴を握りしめた。

骨の冷たさが、現実を突き刺す。

一瞬だけ、過去をずらすなら。

ほんの砂粒だけ。

代償が明確になる前に、逃げられるかもしれない。


わたしは鈴を鳴らした。

カラン。

音が裂けた。


第八章 世界が沈む前の写真


反転のあと、世界は少しだけ違っていた。

恒一はそこにいない。

砂丘の上に、足跡だけがある。

ハイルがわたしの腕を掴む。

「何した!」


「わからない」

わたしは息を切らした。

胸が痛い。

でも、どこかで、救われた気もする。

怖いくらい矛盾している。


採掘跡の星図。

中心の穴。

そこから、何かが覗いていた。

写真だ。

古いプリント写真。

端が黄ばんでいる。


拾い上げると、写っていたのは――わたしだった。

十歳くらいのわたし。

海辺で笑っている。

隣にいるのは、母。

でも、母は若すぎる。

こんな写真、見たことがない。


裏に、文字。

恒一の筆跡。


――つむぎへ。

――君が忘れた夜を、思い出して。

――“埋めたのは誰か”を。


埋めた。

誰かを。

わたしが?


頭痛が走った。

砂嵐の粒が、頭蓋骨の内側を叩く。

記憶の奥で、扉が軋む。


思い出した。

あの夜。

恒一の海外の話。

わたしは言葉を飲み込んだ。

でも、もう一つ、飲み込んだものがある。


わたしは、母の死を、誰かのせいにしたかった。

海で事故があった。

母は戻らなかった。

わたしは子どもだった。

「あなたのせいじゃない」と大人たちは言った。

でも、わたしの中の砂は、それを受け入れなかった。


だから、わたしは“編集”した。

母の死に、意味を与えた。

誰かを犯人にした。

自分の痛みが正しくなるように。

そして、母を失った痛みを抱えたまま、恒一に寄りかかった。


恒一は、わたしの“編集”を、全部知っていた。

それでも、隣にいた。

それが、愛だった。


「……わたし、埋めたんだ」

声が震える。

ハイルが黙っている。

否定しない。

否定できない種類の真実が、砂の上に落ちている。


影が現れた。

ナアマ“だった”影。

わたしを見ている。

音はないのに、声ははっきりする。


――埋めたものは、返ってくる。

――返すなら、埋め直せ。

――今度は、あなた自身を。


わたしは笑ってしまいそうになった。

結局、そうだ。

代償はいつも、わたしに帰ってくる。


砂丘の向こうに、恒一の姿が一瞬見えた。

蜃気楼みたいに揺れている。

手を伸ばすと、届かない。


「つむぎ」

ハイルが言った。

「君は、彼を愛してる。

でも、愛って、交換券じゃない。

君が君を差し出したら、彼は……君を取り戻せない」


その言葉が、胸に刺さる。

わたしは気づく。

恒一が望んでいたのは、復活じゃない。

わたしが“編集”をやめて、自分の言葉を取り戻すことだ。


わたしは鈴を見た。

骨の白。

わたしの手の中で、静かに待っている。

鳴らせば、またずれる。

またやり直せる。

その誘惑は甘い。

砂糖みたいに。


でも、もうやめる。

やり直しではなく、選び直しをする。


わたしは鈴を、星図の中心の穴に置いた。

骨が、石に触れて小さく鳴る。

カラン。

今度は、わたしが鳴らした音じゃない。

鈴が、自分で鳴った音。


砂が風で舞い上がる。

影が薄くなる。

ナアマ“だった”影が、最後に一言だけ流し込んだ。


――言え。

――今度は、埋めるな。


第九章 あなたの名前を埋めないで


帰り道、砂丘は変わらないのに、わたしの足取りは違った。

重いのは同じ。

でも、それを“抱える”形が少しだけ変わった。


ロッジに戻ると、ナアマはいつも通り夕食を出した。

でも、彼女の手が震えていた。

わたしは初めて、彼女の目を正面から見た。

そこに、深い疲れと、少しの赦しがあった。


「……昨夜、窓の外に」

わたしが言うと、ナアマは小さく頷いた。

「見たのね。

あれは、わたしの“残り”よ。

ここはそういう場所。

人は、捨てた言葉の分だけ、影を残す」


捨てた言葉。

わたしは何度も捨てた。

正しい文章のために。

相手を傷つけないために。

自分を守るために。


でも、捨てた言葉は、砂に埋まって、いつか返ってくる。


夜、わたしはノートを開いた。

編集者としてのノートじゃない。

自分のためのノート。

まっさらなページに、震える字で書く。


――恒一、ごめん。

――行ってほしくなかった。

――怖かった。

――置いていかれるのが。

――でも、言えなかった。

――あなたの夢を、邪魔したくなかったから。


書きながら、涙が落ちる。

紙が滲む。

滲んだ文字は、整っていない。

でも、嘘じゃない。


最後に、書く。

――ありがとう。

――愛してる。

――あなたの名前を、もう埋めない。


第十章 鈴が鳴る場所へ


帰国便の窓から、砂漠は見えなかった。

雲の下で、砂は砂のまま眠っている。

鈴も、星図の穴の中で眠っている。


東京の空は、ナミビアより低い。

湿った風が頬に触れる。

それだけで、涙が出そうになる。

ここにも、ちゃんと世界がある。


出版社に戻ると、机の上に原稿が積まれていた。

いつもなら、眺めるだけで息が詰まる。

でも、今日は一枚目を手に取った。

紙の重さが、少しだけ現実を戻してくれる。


仕事帰り、恒一とよく歩いた川沿いの道を通った。

夜の水面が光る。

砂ではなく、水。

でも、どちらも流れるものだ。

止められない。


ふと、背後で小さな音がした気がした。

カラン。

鈴の音ではない。

自転車のベルかもしれない。

でも、わたしの胸の奥で、何かが確かに鳴った。


わたしは立ち止まり、空を見上げた。

星は見えない。

都会の明かりが、空を白くする。

それでも、星はそこにある。

見えなくても、そこにある。


「恒一」

わたしは声に出した。

喉が痛い。

でも、声は出た。


「わたし、進むよ」

足元の影が、少しだけ軽くなる。

捨てた言葉は、もう捨てない。

拾って、抱えて、歩く。


砂海に置いてきた鈴は、きっともう鳴らない。

鳴らなくていい。

わたしの中の鈴が、これから鳴るから。


世界は、戻らない。

だからこそ、進める。


(了)

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