指名
「ここは……?」
女は目を覚ますと、知らないベッドの上にいた。
周囲を見渡すと、シンプルだが美しい作りの神殿にいることがわかった。
「起きましたか」
声のした方に顔を向けると、そこには時の神がいた。
ここがどこか尋ねる前に時の神が教えてくれた。
「ここは、あなただけの神殿です」
「私の?」
何もない殺風景な場所だ。
まるで誕生したばかりで何も持たない自分のようだと女は思った。
「ええ。これから、どんな風にこの場所を変えるかはあなたの自由です。好きにしてください」
時の神の言葉に女は別にこのままでもいいと思った。
「それより、体調はどうですか。いきなり、全てを理解するのは大変だったでしょう。確認させてください。あなたは生まれる前の記憶がありますか?」
「……?」
女は時の神が何を聞きたいのか理解できなかった。
全ての言葉の意味を理解し、力の使い方も理解し使えるようになった。
でも、産まれる間の記憶とは、どういう意味なのか理解できなかった。
言葉自体の意味はもちろん理解できているが、それが自分とどんな関係にあるのかわからなかったのだ。
「記憶も何も私は人間の魂を守るために産まれてきた存在なのですよね。それ以前の記憶が存在するのですか?」
「いいえ。ただの確認ですので気になさらないでください。あなたは運命の女神。それ以上でもそれ以下でもない。それだけの存在です」
時の神は淡々と話しているが、何か大切なことを隠されている気がした。
それが何かを聞いても答えてはくれなさそうだし、今の女にはたいして必要ではないような気もしたので、あえて問い詰めるようなことはしなかった。
「はい。自分の役目はきちんと果たします」
「その言葉を絶対に忘れないでくださいね」
時の神の目が鋭くなった。
声もどこか厳しくなった。
いきなりどうしたのか思ったが、時の神はすぐに元の無表情の顔に戻った。
「それと、我らの父からあなたの名前を預かっております」
名前。
自分だけの特別なもの。
親から最初にもらう愛の贈り物。
そう理解した言葉だ。
自分にもその名前がもらえるのだと知ると、少しだけ胸が温かくなった。
これが「嬉しい」という感情なのか。
女が運命の女神として生まれて、最初に知った感情は「嬉しい」というものだった。
「ヴァイオレット。それが、あなたの名前です」
「ヴァイオレット」
自分の名前を呼ぶと、何とも言えない感情に包まれた。
「ありがとうございます。この名前に恥じない神になります」
「ええ。頑張ってください」
そう言うと、時の神は自分の役目は終わったと言わんばかりに去っていった。
自分の役割をどう行っていくべきなのかは、既に知っているので何も問題はない。
今すぐ取り掛かろうと神の力を発動しようとしたら、時の神と似たような服を自分も着ていることに気づいた。
時の神は全身を隠すような服だったが、それに加えてヴァイオレットの服は足と腕がみえるような服だった。
時の神が寝ている間に、着させてくれたのだろうか。
髪も綺麗にまとめられている。
神の力でなら簡単にまとめられるが、それを使わなかったら結構な時間がかかるような髪型だ。
可愛くて気に入った。
もっと早くに気づいていたらお礼を言えたのに。
ヴァイオレットは今気づいたことに少しだけ後悔した。
もう、どこにも姿が見当たらない時の神に心の中でお礼を言った。
そして、今度こそ神の力を使って、人間たちの魂を守る役割を実行した。
力を長く使うほど、何もなかった荒れた野原に色鮮やかな花が咲き始めた。
あたり一面に咲いた花を見て、人間たちは今現在、これほど多くの者が存在しているのかと知った。
頭で理解していたときよりも、花が咲いて実感した後では感じ方が全く違う。
どの花も美しく比べることはできない。
この全てを大切にし、守りたいと思った。
元々、そのためだけに産まれたヴァイオレットだが、今はその役割を自分に与えられたことが嬉しかった。
それから時はあっという間に過ぎていった。
どれくらいの間、運命の女神であるヴァイオレットは一人でいたのかわからないほど、その時間は長かった。
だが、ヴァイオレットは寂しくなかった。
誰とも話すことはできなくても、見たこともない人間たちを守ることができる役割をこなせていたから。
人間が産まれるとここでは芽が出る。
成長していくにつれてその芽は美しい花を咲かせていく。
いつかは枯れていくが、きっと花の輝きからいい人生を送れたのだろうと思えた。
もちろんすべての花がそうであったわけではないが、不幸な人生を送ったものにはここで来世はそうならないよう祈ってから、転生させた。
花でしか人間が生きていることを認識できないヴァイオレットは、どれだけ立派な人生を歩んだ人間でも、その生まれ変わりを見つけることはできなかった。
ただ、眩しいくらい輝いた美しい花が咲いていたことだけはずっと覚えておくことができた。
その人間がどんな人物か興味もあったから余計に忘れることができなかったのだろう。
ヴァイオレットは一生ここで、一人で過ごすことになるのだろうとわかっていた。
きっと、この先も変わることのない決められたことを果たすだけの人生を繰り返していけるのだと信じて疑わなかった。
下界の汚らわしい存在たちが、生きた人間たちの魂を食らい出すまでは。




