第1話 確率が沈黙する少年
ルーンハルトの朝は、いつも少しだけ
騒がしい。
石畳を叩く靴音。
荷馬車の軋む音。
露店商の威勢のいい声。
そのすべてが混ざり合い、
街は今日も「生きている」と
主張しているかのようだった。
冒険者ギルドの建物は、
その中心に堂々と構えている。
分厚い木製の扉。
傷だらけの壁。
無数の剣傷が刻まれた柱。
この場所が、どれほど多くの
命と夢を飲み込んできたかを、
無言で物語っていた。
その扉の前に、
ひとりの少年が立っている。
年の頃は十五。
細身で、背は平均より少し低い。
黒髪は寝癖がついたまま。
服装は質素で、
旅人というよりは
町の少年そのものだ。
少年は、扉を見上げたまま、
ごくりと喉を鳴らした。
「……ここ、だよな」
声は小さく、
どこか頼りない。
だが、その足は逃げなかった。
少年の名は――
登録用紙には、こう書かれる予定だ。
無名。
少なくとも、
この街では誰も知らない。
少年は意を決して、
扉に手を伸ばした。
ぎぃ、と重い音を立て、
扉が開く。
中から溢れ出したのは、
酒と汗と鉄の匂い。
そして、
怒号と笑い声。
「報酬が少ねぇって言ってんだ!」
「文句があるなら受けるな!」
「次の依頼は俺が先だ!」
一瞬で、
圧に飲み込まれそうになる。
少年は反射的に、
一歩後ずさった。
「……帰ろうかな」
そんな言葉が、
喉元まで出かかった。
だが。
胸の奥で、
小さな声がした。
――このままじゃ、
――何も変わらない。
少年は歯を食いしばり、
再び中へ足を踏み入れた。
カウンターの向こうに、
若い女性が立っている。
明るい青髪。
柔らかな笑顔。
「いらっしゃいませ。
冒険者登録ですか?」
少年は、
何度か瞬きをしてから、
こくりと頷いた。
「は、はい」
声が裏返った。
女性はくすっと笑い、
用紙を差し出す。
「こちらに名前と年齢を
書いてください」
少年は、
ペンを握ったまま、
しばらく固まった。
名前を書く欄を、
じっと見つめる。
「……あの」
「はい?」
「職業とか、
スキルって……」
「ある方だけで大丈夫ですよ」
少年は、
さらに黙り込む。
しばらくして、
小さく首を振った。
「……ないです」
女性は、
一瞬だけ目を丸くしたが、
すぐに微笑んだ。
「大丈夫ですよ。
最初は皆さんそうですから」
その言葉に、
少年は少しだけ
救われた気がした。
書き終えた用紙は、
すぐに奥へ運ばれる。
しばらくして、
屈強な体格の男性が
姿を現した。
短く刈った髪。
鋭い目つき。
だが、
その視線には
奇妙な温かさがあった。
「俺がギルド長だ」
低い声。
「登録希望か?」
少年は、
背筋を伸ばす。
「は、はい」
男は用紙を眺め、
眉をひそめた。
「年齢十五。
スキルなし。
経験なし」
視線が、
少年に戻る。
「正直に言う。
この世界は甘くない」
少年は、
俯いた。
「……はい」
「それでも、やるか?」
数秒の沈黙。
そして、
少年は顔を上げた。
「……やります」
声は震えていた。
だが、逃げていない。
ギルド長は、
小さく笑った。
「いいだろう。
登録を許可する」
女性が、
木札を差し出す。
「あなたのランクは
Fランクからです」
少年は、
木札を受け取り、
まじまじと見つめた。
F。
一番下。
「……妥当だよな」
思わず、
そう呟いた。
そのとき。
ギルドの扉が、
勢いよく開いた。
「薬草採取の依頼、
人手足りてるか?」
入ってきたのは、
大柄な男だった。
鎧は年季が入り、
腰の剣も使い込まれている。
ギルド長が、
ちらりと少年を見る。
「ちょうどいい。
こいつを連れて行け」
少年の目が、
大きく見開かれた。
「え、俺ですか?」
男は、
少年を一瞥する。
「……大丈夫か?」
少年は、
正直に答えた。
「戦えません」
沈黙。
次の瞬間、
男は笑った。
「薬草取るだけだ。
死にはしねぇよ」
少年は、
半ば引きずられるように、
ギルドを出ることになる。
――まだ、
この時の少年は知らない。
自分の周囲では、
世界の偶然が、
すでに歪み始めていることを。




