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第四話 落日



 笑顔のニヤーマは、垂直に切り立つ玄武岩の分厚い壁の前で看板を担いでいる。

 一郎は周りを見たが、彼女の後ろの洞穴以外は何も見当たらない。

 遠くに目をやれば石窟寺院の中庭が見えた。

 あっちの寺院の中央には、巨大な異国めいた神様の立像がいくつも並んでいる。

 よそ見をしてしまった一郎に、ニヤーマが言った。

 

「ご立派な神様ですよね」


 目線を戻すと、彼女も同じ方向を見ていた。


「も、申し訳ございません」

「いえいえ、うちも遠い昔はなかなかのモノだったんですよ」

 

 ――何もないじゃんか

 

 そんな失礼な内心を見透かされた気持ちになり、一郎は恐縮して頭を下げた。

 ニヤーマは気にした素振りもなく岩壁に向き、手をかざして上を見上げる。

 

「頂上まで登れば、瞑想のための小さな祠堂がございますよ」

 

 一郎が見上げても、頂上は確認できない。

 目が眩むような高さだ。

 祠堂が何かは知らないが、お堂みたいなものだろう。

 だとすれば。


 ――こんな場所で、何ができるんだ?


「ここがジョード教の聖地なんですか?」

 

 一郎は頭に浮かんだ言葉を飲み込んだ。

 変に期待した分、すぐに文句が湧いてくる。

 頭でっかちで形から入りたがりの、自分の悪いところだった。

 女性が一生懸命に掘り抜いた洞穴にそんなことを思う。

 だから自分は課長になれないのかもしれない、と胸に自己嫌悪が滲んだ。

 

「お気遣い痛み入ります。この洞穴が聖地だなんて、お恥ずかしい限りですが、これがジョード教団の現実でございます」


 ニヤーマは一郎の下手くそな気遣いを神妙に受け取ると、小さくマントラのようなものを唱えて、目を瞑った。

 その姿はまるで、瞼の裏の神さまに、赦しを求めているかのようだった。


 

 今から十年ほど前のこと。

 少女ニヤーマはいつものように、石窟寺院の広間の、硬い床の上で目を覚ました。

 真っ暗な広間に、採光窓から月の光が降り注ぎ、本尊の石像をてらてらと照らしている。

 ニヤーマは像に礼拝すると、広い中庭に出てから寺院の裏手に向かい、そのまま大岩壁の前に立った。

 夜露に濡れた冷たい岩肌に取り付くと、壁をなぞるようにするすると登っていく。

 ジョード教徒の行の一つ、登攀行。

 日の出前に大岩壁の頂上に辿り着き、祠堂の前で瞑想し、ご来光を迎える。

 駆け出しの修行僧であれば半日かかる登攀を、ニヤーマは三時間ほどで終わらせた。

 出家して以来この行を怠ったことはない。

 彼女の密やかな自慢であった。

 

 だが頂上に着いたニヤーマが祠堂の前に行くと、すでに十数人の修行者たちが座り込んでいた。

 

 ――また一番になれなかった

 

 ハッとしたニヤーマは、頭によぎった言葉を恥じ入った。

 偉大なる尊者ジョードはここで日の光を浴びながら悟りを得たと言う。

 この神聖な場所で、勝ちだの負けだの言ってはいけない。

 首を振って気合いを入れ直す。

 

 ――わたしもここで、みんなみたいな立派な僧になる

 

 鼻息荒く座り込み瞑想を始める。

 やがて誰ともなく立ち上がり、それぞれ東に向いた。

 太陽が登ろうとしている。


 修行僧たちのはるか眼下には街の西側、ジョード宗教区が広がっている。

 総本山の大寺院、そびえ立つ仏塔、水路と絡んだ広大な庭園。

 大僧正は座学の時に仰った。

 

 『すべてこの世界が始まった時に、ジョードから教団に与えられたものだ』

 『来光への礼拝は一にも二にも、ジョードへの感謝を念ずるべし』

 

 僧たちがマントラを唱えていると、街の方から眩い光の柱が立ち上がった。

 来光ではない。

 兄弟子が叫んだ。

 

「奇跡だ!見ろ!」

 

 修行不足で立ったまま舟を漕いでいたニヤーマは、慌てて崖に駆け寄り、皆が指差す方向を見た。

 なんと、我らが総本山が光り輝いている。

 

「ジョード様!」


 優しくも仏頂面のあの兄弟子たちが、お菓子をもらった子供のように歯を見せている。

 みんなが嬉しいなら自分も嬉しい。

 ニヤーマも自分の得度式の時のように胸が浮き立った。

 みな尊者の名を讃えながら崖を降りていく。

 無論、ニヤーマもその歓喜の列に続いた。


 

「総本山の前に着いた時、寺院はあの建物に変わっていました」

「え?」


 ニヤーマの目線の先には、夕陽を受けて黄金に輝くモスクが存在している。

 一郎の素っ頓狂な声は、誰も引き取らず場に溶けていった。

 

「一週間後、そのまた一週間後。仏塔も、庭園も、マレビトの方たちのものに変わっていきました」


 ニヤーマはかつての家を一つ一つ指差しながら、淡々と語った。

 一郎は彼女の琥珀色の瞳を見る。

 今あの瞳には、いつかの日常が映っているんだろうか。


「なあ、何があったんだよ」

「初期にあった大型アップデートだよ。ハリボテを追加した煽りがこいつらに来たってことじゃないの?」

 

 一郎の問いかけに、クリスが世間話のように喋り出した。

 その声にはどこか苦味が混じっている。

 

「リソースの問題だろ。NPCの満足度なんてあってもないようなもんだ」

 

 鼻息一つしてクリスは押し黙った。

 意見はクールだが本人の顔はスカしきれていない。

 

「一年前に、とうとう毎日寝床にしていた石窟寺院が消えました。兄弟たる教団の仲間たちも、みんなどこかに消えてしまった。まるで初めからいなかったみたいに」

 

 一郎はそう語るニヤーマの顔に見覚えがあった。

 妻が亡くなってから、毎日鏡で見ている。

 

「恨んだことがない、とは申し上げられません」


 自分はまだ未熟者なのだと、そう言ってニヤーマはカラカラと笑った。

 一郎と彼女は違う。

 悲しみに晒され続けてもなお、彼女の瞳はキラキラと輝いている。

 

「ですが今思えば、寝床を失ったあの日、わたくしが何もかもを失ったあの日こそが、わたくしの得度式だったのです」


 一郎の知りたい癖が鎌首をもたげる。

 

 ――なぜこの人はこんな顔ができるんだろう?

 

「今はただ、尊者ジョードにお聞きしたい」

 

 一郎には彼女の悲しみの深さは分からない。

 

「わたくしの世界がどこに行ったのか?その行方を」


 だが彼女が尊敬できる人であることは分かった。

 自分もこんな顔をして笑ってみたい。

 

「ニヤーマさん、お願いがございます」

「どうされました?」

「私、一郎を教団の末席に加えていただけないでしょうか?」

 

 俗世の全てを投げ出します、そう言って一郎は見よう見まねの五体投地をした。

 ニヤーマはマレビトの奇行に、戸惑いながらクリスを見た。

 クリスは一郎から飛び出したダメージエフェクトを見て、肩をすくめて、苦笑いをした。



 

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