第四話 落日
笑顔のニヤーマは、垂直に切り立つ玄武岩の分厚い壁の前で看板を担いでいる。
一郎は周りを見たが、彼女の後ろの洞穴以外は何も見当たらない。
遠くに目をやれば石窟寺院の中庭が見えた。
あっちの寺院の中央には、巨大な異国めいた神様の立像がいくつも並んでいる。
よそ見をしてしまった一郎に、ニヤーマが言った。
「ご立派な神様ですよね」
目線を戻すと、彼女も同じ方向を見ていた。
「も、申し訳ございません」
「いえいえ、うちも遠い昔はなかなかのモノだったんですよ」
――何もないじゃんか
そんな失礼な内心を見透かされた気持ちになり、一郎は恐縮して頭を下げた。
ニヤーマは気にした素振りもなく岩壁に向き、手をかざして上を見上げる。
「頂上まで登れば、瞑想のための小さな祠堂がございますよ」
一郎が見上げても、頂上は確認できない。
目が眩むような高さだ。
祠堂が何かは知らないが、お堂みたいなものだろう。
だとすれば。
――こんな場所で、何ができるんだ?
「ここがジョード教の聖地なんですか?」
一郎は頭に浮かんだ言葉を飲み込んだ。
変に期待した分、すぐに文句が湧いてくる。
頭でっかちで形から入りたがりの、自分の悪いところだった。
女性が一生懸命に掘り抜いた洞穴にそんなことを思う。
だから自分は課長になれないのかもしれない、と胸に自己嫌悪が滲んだ。
「お気遣い痛み入ります。この洞穴が聖地だなんて、お恥ずかしい限りですが、これがジョード教団の現実でございます」
ニヤーマは一郎の下手くそな気遣いを神妙に受け取ると、小さくマントラのようなものを唱えて、目を瞑った。
その姿はまるで、瞼の裏の神さまに、赦しを求めているかのようだった。
※
今から十年ほど前のこと。
少女ニヤーマはいつものように、石窟寺院の広間の、硬い床の上で目を覚ました。
真っ暗な広間に、採光窓から月の光が降り注ぎ、本尊の石像をてらてらと照らしている。
ニヤーマは像に礼拝すると、広い中庭に出てから寺院の裏手に向かい、そのまま大岩壁の前に立った。
夜露に濡れた冷たい岩肌に取り付くと、壁をなぞるようにするすると登っていく。
ジョード教徒の行の一つ、登攀行。
日の出前に大岩壁の頂上に辿り着き、祠堂の前で瞑想し、ご来光を迎える。
駆け出しの修行僧であれば半日かかる登攀を、ニヤーマは三時間ほどで終わらせた。
出家して以来この行を怠ったことはない。
彼女の密やかな自慢であった。
だが頂上に着いたニヤーマが祠堂の前に行くと、すでに十数人の修行者たちが座り込んでいた。
――また一番になれなかった
ハッとしたニヤーマは、頭によぎった言葉を恥じ入った。
偉大なる尊者ジョードはここで日の光を浴びながら悟りを得たと言う。
この神聖な場所で、勝ちだの負けだの言ってはいけない。
首を振って気合いを入れ直す。
――わたしもここで、みんなみたいな立派な僧になる
鼻息荒く座り込み瞑想を始める。
やがて誰ともなく立ち上がり、それぞれ東に向いた。
太陽が登ろうとしている。
修行僧たちのはるか眼下には街の西側、ジョード宗教区が広がっている。
総本山の大寺院、そびえ立つ仏塔、水路と絡んだ広大な庭園。
大僧正は座学の時に仰った。
『すべてこの世界が始まった時に、ジョードから教団に与えられたものだ』
『来光への礼拝は一にも二にも、ジョードへの感謝を念ずるべし』
僧たちがマントラを唱えていると、街の方から眩い光の柱が立ち上がった。
来光ではない。
兄弟子が叫んだ。
「奇跡だ!見ろ!」
修行不足で立ったまま舟を漕いでいたニヤーマは、慌てて崖に駆け寄り、皆が指差す方向を見た。
なんと、我らが総本山が光り輝いている。
「ジョード様!」
優しくも仏頂面のあの兄弟子たちが、お菓子をもらった子供のように歯を見せている。
みんなが嬉しいなら自分も嬉しい。
ニヤーマも自分の得度式の時のように胸が浮き立った。
みな尊者の名を讃えながら崖を降りていく。
無論、ニヤーマもその歓喜の列に続いた。
※
「総本山の前に着いた時、寺院はあの建物に変わっていました」
「え?」
ニヤーマの目線の先には、夕陽を受けて黄金に輝くモスクが存在している。
一郎の素っ頓狂な声は、誰も引き取らず場に溶けていった。
「一週間後、そのまた一週間後。仏塔も、庭園も、マレビトの方たちのものに変わっていきました」
ニヤーマはかつての家を一つ一つ指差しながら、淡々と語った。
一郎は彼女の琥珀色の瞳を見る。
今あの瞳には、いつかの日常が映っているんだろうか。
「なあ、何があったんだよ」
「初期にあった大型アップデートだよ。ハリボテを追加した煽りがこいつらに来たってことじゃないの?」
一郎の問いかけに、クリスが世間話のように喋り出した。
その声にはどこか苦味が混じっている。
「リソースの問題だろ。NPCの満足度なんてあってもないようなもんだ」
鼻息一つしてクリスは押し黙った。
意見はクールだが本人の顔はスカしきれていない。
「一年前に、とうとう毎日寝床にしていた石窟寺院が消えました。兄弟たる教団の仲間たちも、みんなどこかに消えてしまった。まるで初めからいなかったみたいに」
一郎はそう語るニヤーマの顔に見覚えがあった。
妻が亡くなってから、毎日鏡で見ている。
「恨んだことがない、とは申し上げられません」
自分はまだ未熟者なのだと、そう言ってニヤーマはカラカラと笑った。
一郎と彼女は違う。
悲しみに晒され続けてもなお、彼女の瞳はキラキラと輝いている。
「ですが今思えば、寝床を失ったあの日、わたくしが何もかもを失ったあの日こそが、わたくしの得度式だったのです」
一郎の知りたい癖が鎌首をもたげる。
――なぜこの人はこんな顔ができるんだろう?
「今はただ、尊者ジョードにお聞きしたい」
一郎には彼女の悲しみの深さは分からない。
「わたくしの世界がどこに行ったのか?その行方を」
だが彼女が尊敬できる人であることは分かった。
自分もこんな顔をして笑ってみたい。
「ニヤーマさん、お願いがございます」
「どうされました?」
「私、一郎を教団の末席に加えていただけないでしょうか?」
俗世の全てを投げ出します、そう言って一郎は見よう見まねの五体投地をした。
ニヤーマはマレビトの奇行に、戸惑いながらクリスを見た。
クリスは一郎から飛び出したダメージエフェクトを見て、肩をすくめて、苦笑いをした。




