第6節~伊武 景秋
ピアスが“先生”になってから、一週間が過ぎた。
教卓の横、窓際の席。
八雲は遠目でその姿みつめる。
彼はそこに腰かけ、ノートを開いていた。
教師でも生徒でもない。けれど、空気の扱い方だけは誰より上手い。
霧島先生は時折、ピアスに授業を進行させたり、質問を振ったりするようになっていた。
彼が話すと、教室の空気が少し沈黙する。
それは緊張でも畏れでもない。
誰もが無意識に耳を澄ませてしまう、そんな静けさだった。
「ピアス先生、発音やばくない?」
「ネイティブって、ああいうこと言うんだね」
昼休み。教卓近くで女子たちが笑い声を弾けさせた。
「アイスランドは空気が澄んでて、音がよく響くんだって。詩人かよ」
軽やかな声。乾いたリズム。
八雲は窓際でパンの袋を開けながら、それをぼんやりと聞いていた。
さらにこちらでは、わざわざ自分の席近くまで来て繰り広げられる幼馴染たちの会話。
あえて八雲は加わらなかった。
けれど、彼女たちの声は否応なく耳に届く。
胸の奥からモヤモヤとしたものが溢れ、テーマが乱れるのを感じた彼は、そっとボリュームを下げた。
「八雲、今日のリスニング、ピアス先生の声でやってほしいって思わなかった?」
晴花が笑いながら言う。
「映画の吹き替えみたいにさ」
「わかるー!」と天音が頷く。
「英語なのに、ちゃんと届く感じがするよね」
晴花の目が一瞬、八雲の方を見た。
“ねえ、そう思うでしょ?”とでも言いたげに。
けれど彼は、ただパンの袋を握りしめたまま、笑い返さなかった。
胸の奥に、ノイズのようなざわめき。
テーマが乱れる。
八雲はテーマのボリュームを、無意識にさらに下げた。
月城天音と星宮晴花は、相変わらずだった。
誰にでも同じように接する。
それが彼女たちの強さであり、無自覚な残酷さでもある。
八雲が話しかけられるたび、空気が少し軋む。
彼女たちは気づかない。
いや、気づいた上で、気にしていないのだろう。
昼休みの屋上は、応援団の縄張りのようになっていた。
団旗が掲げられ、いつも数人の団員が声を張り上げている。
「団員募集中!」
「ノイズ歓迎!」
「音が濁ってても、魂は響く!」
そのテンションに、普通の生徒たちは距離を置いていた。
けれど、彼らは気にしない。むしろ、距離を詰めようとする。
その中心にいるのが、伊武景秋。応援団団長。三年。
その名を聞くだけで、空気が熱を帯びる。
実際に見れば納得だ。
180センチを超える長身に、鍛えられた腕。
学ランの袖が張って、肩のラインが動くたびに光を弾く。
団旗を背負う姿は、まるで戦場に立つ兵士のようだった。
豪快で笑えば白い歯が見え、声を張ると喉の奥まで見えるほどだった。
彼のテーマは、常にリズミカルな破裂音と地響きのような振動している。
まっすぐで、熱くて、周囲の旋律をかき乱すほどの強さを持っていた。
伊武の存在は、視覚だけでなく聴覚にも訴えかける。
彼が歩けば、足音が響く。
彼が笑えば、空気が跳ねる。
彼が叫べば、壁が震える。
そのすべてが、彼の“ノイズ”としての誇りだった。
そしてその誇りは、誰かの居場所になり得ると信じて疑わない、まっすぐな眼差しに宿っていた。
声が大きく、暑苦しく、まっすぐすぎて、逆に歪んで見える。
決して嫌いではない。
だが、八雲にとっては、どこか苦手な存在だった。
触れると焦げそうになる。
その感じた熱さが、“焦がれ”だとはわからずに八雲は、ただ息を呑んでやり過ごした。
「八雲!団旗、持ってみるだけでもいいからさ! 一緒に青春しようぜ!」
昼休みの終わり際、屋上から降りてきた伊武と鉢合わせた八雲は、何度目か数えるのもやめた勧誘を受けた。
伊武の声は、いつもまっすぐだ。
それが、逆に怖い。
まっすぐなものは、ぶつかる。
ぶつかったとき、壊れるのは、たぶん自分の方だ。
パンの袋を握ったまま、八雲は足を止め、何度か首を横に振る。
今回はワイパーのようなハンドジェスチャーも混じえて、丁重に断りを示した。
それでも伊武は、腕を組んだまま期待を残した眼差しで見据えてくる。
その背後には、ノイズの生徒たちが数人。
皆、どこか居場所を探しているようだった。
「俺たち、音が濁ってるって言われるけどさ。濁ってる音だって、響かせる場所があれば、ちゃんと届くんだよ。な?」
「……知らない」
そう言って通り過ぎたが、言葉は耳に残った。
“響かせる場所”。
そんなものがあるなら、自分だって―― いや。
考えが途中で途切れた。
伊武やピアスと話すとき、八雲の中で何かが少しだけ熱を帯びる。
それが何なのかは、まだわからない。
ただ、彼らに触れると、自分の“濁り”が、少しだけ輪郭を持つ気がする。
それは、まだ言葉にならない。
けれど、確かな何かだった。
放課後、教室に残っていたのは八雲とピアスだけだった。
霧島先生が一度ピアスを探しに来たが、二人を見て少しだけ表情を柔らかくし、資料を手渡して去っていった。
ピアスは「霧島先生は美人で優しいけど、職員室はなんとなく息が詰まるんだよね」と苦笑しながら、資料をまとめていた。
けれど、本当は気遣いなのだと、八雲にはわかっていた。
ピアスは何も言わない。
だが、視線の温度が違う。
窓の外。
伊武の声が校庭を貫いていく。
夕焼けの中で、応援団の足音がリズムを刻んだ。
「……あいつら、毎日あれだな」
八雲の言葉に、ピアスが顔を上げる。
「いい音だと思うよ」
「うるさいだけだ」
ピアスが微笑む。
「うるさいのに、ちゃんと届く音もある」
その意味は、八雲にはよくわからなかった。
けれど、胸の奥で、また何かが微かに温まった。
焦げるほどではない、ほんのわずかな熱。
こうして、名もなき音は、響千学苑の空気に混ざっていく。
誰も気づかない。
けれど、静かな距離の中で、騒がしさが少しずつ滲み始めていた。
11/6 加筆修正




