第5節~響千学苑
響千学苑は、見た目だけならピアスのいた世界と何ら変わらない、どこにでもある高校だった。
三階建ての校舎、グラウンド、体育館。
彼はその“普通”の輪郭を、初めて外側から眺めていた。
校門をくぐると、グラウンドから掛け声が飛び交っていた。朝練だろう。声は張り合うように混ざり合い、彼の背を押すようにぶつかってくる。
ジャケットの襟を指先で整えながら、ゆっくりと歩を進める。
耳元の黒いピアスは、場違いだとわかっていた。けれど、外すことはできなかった。
触れるたびに、何かが繋がる感覚が戻ってくる。それは記憶ではなく、奥底に残った感触。誰かだった自分の、唯一の証のように思えた。
職員玄関を抜けて、階段を上がる。
まだ開いていない購買部の前を通り過ぎた。
昼にはきっと列ができるのだろう。
そのとき――ブザーが鳴った。
甲高い単音。
思わず身構える。
すぐに警報ではないと気づき、息を吐いた。
これが、チャイムの音らしい。
この世界の人々は、誰もが「テーマ」を持っている。
それぞれ旋律が空気に馴染み、感情に滲む。
それが、この場所の“当たり前”だった。
だから学苑の建物は、音を吸い込むように設計されていた。壁材には吸音繊維が混ぜられ、床は踏み音を拡散する。天井梁は振動を抑える加工がされ、教室ごとの空気が混ざらないように細工が施されている。
こうして誰かのテーマが過剰に響かないようにする――それが、この場所の“当たり前”だった。
職員室の扉をノックすると、若い女性教師が顔を出した。霧島夏季。天音たちの担任で、今日からピアスの“指導担当”になる人物だった。
彼女は少し緊張した笑顔で手を差し出す。
「……あ、ピアスさんですね。霧島です。よろしくお願いします」
挨拶を交わすと、彼女の声にピアスは少し安心した様子を見せた。
理事長からの話で、特例の教育実習生として来ているらしい。前例がなく戸惑うと言いながらも、できるだけサポートします、と彼女は言った。
その言葉が、ほんの少しだけ彼の胸の冷えを和らげた。
教室の前に立つと、内側からざわめきが漏れてくる。
こんな時期にやって来る教育実習生への半信半疑な噂、さらには異世界人だ、テーマがないだというはしゃぎ声。
すぐに、天音や晴花たちが情報源なのだと察した。
霧島が扉を開けると、教室の空気が一瞬止まった。
全員の視線がピアスに向く。
彼が一歩入ったとき、空気は微かに震えた。
だがそれは“テーマ”ではない。もっと深く、もっと静かな何か。
無音が空間に触れたときの微細な震えだと、彼自身も感じ取っていた。
「はじめまして。ピアスと呼ばれています。今日から、教育実習生として皆さんと関わらせていただきます。よろしくお願いします」
声は静かだったが、言葉は丁寧に発せられた。
生徒たちは反応を分け、前列の女子が小声で囁き合う。
窓際のノートに落書きをしていた男子が顔を上げる。
天音は彼の方を何度か見て、晴花は言いたげに身を乗り出す。
八雲は無言で、ただ視線だけが鋭かった。
霧島が説明を加える。
「ピアスさんは、少し特別な事情があります。テーマを持っていません。だから皆さんとは違う感覚で世界を見ています。けれど、それは“違う”というだけで、“異質”ではありません」
その言葉は、教室の空気を少しだけ整えた。
整うと同時に、ピアスの身体のどこかが緊張を解いた。
午前の授業は静かに流れていった。
窓際の席に座り、ノートを広げるふりをしながら、彼は周囲のざわめきを聴いていた。
テーマは空気の一部だ。普段なら気にも留めない音が、今はすべて手触りとして届く。
天音は何度も彼を見て、晴花は窓の外を見ながらも目が泳ぐ。
八雲の視線はより強く、彼を測っているようだった。
昼休みになると、数人の生徒が話しかけてきた。
「その髪色って地毛なんですかー?」
「ピアスって本名なんですかー?」
「テーマがないってどんな感じ?」
「遺物をもってるって、ほんと?」
どれも誠実に答えようとするが、記憶がないことは説明できない。
質問に答えようとして、言葉が途中で途切れた。
どう言えばいいのか、思い出せない。
忘れたというより、そもそも“知っていたこと”があるのかもわからない。
その空白が、胸の奥にぽつりと残った。
午後、放課後の授業が終わると、職員室で霧島が彼を呼んだ。
「どうでしたか、初日」
彼は正直に答えた。
「……まだ、よくわかりません。でも、少しだけ“触れられた”気がします。音じゃなくて、空気に」
霧島は少し驚いたように笑った。
「それ、すごく大事なことだと思います。音って、鳴る前に空気を揺らしますから」
その言葉が、また少しだけ彼の内側に居場所を作った。
昼休みが明ける少し前、1人の男子がちらりと彼の耳元を見て、小さく訊ねた。
「それ、ずっとつけてんの?校則ギリじゃね?」
ピアスは少し苦笑いして答えた。
「…たぶん、ギリですね」
「ウケる、なんかいいねー!」
その笑顔に、男子が少しだけ肩の力を抜いたのがわかった。
彼はなんとなくピアスを外すことができないでいた。
もし外したら、どこにも属せなくなるような気がする。
だから、ぎりぎりのところで身につけている。
ピアスは記憶の断片でもなければ、完全な因果の証でもない。
ただ、この世界で彼は【ピアスくん】なのだった。
こうして、名を持たぬ彼は、響千学苑に静かに鳴り始めた。
鳴っているのは音だけではない。空気の震え、視線の重さ、そして誰かが胸に抱く小さな好奇。
それらが混ざり合って、彼の存在はゆっくりと形を取っていく。
夜、校舎を出ると、誰かのテーマが耳元を撫でた気がした。
ふと振り返る。
音にならないその揺れが、彼には確かに聴こえた。
その感触が、今日のすべてを包みこんでいた。
11/6 加筆修正




