第40節~月明かり
霧島は、伊武を椅子に座らせる前に、
湯気の立つ紙コップをそっと差し出した。
夜の職員室は、昼間とは別の世界だった。
蛍光灯の白い光が机の上の書類を平らに照らし、
校舎の奥からかすかな軋みだけが聞こえてくる。
「……落ち着いて話していいわよ」
霧島の声は静かで、急かさない。
伊武は紙コップを見たが、すぐには手を伸ばさなかった。
立ったまま、ゆっくり息を吸う。
胸の奥に溜まっていた空気を、全部入れ替えるように。
「……どこから話せばいいのかな」
言葉を探しているのが分かった。
何度も頭の中で整理してきたのだろう。
けれど、いざ口に出そうとすると、どこから始めればいいのか分からなくなる。
伊武は視線を落としたまま、少し黙り込んだ。
それから小さく笑う。
「……やっぱ座らせてもらいます」
椅子に腰を下ろす。
背中は預けない。
前かがみのまま、両手を膝の上で組んだ。
「先生、響音部に“騒音部”って落書きされた件……覚えてますよね」
霧島の表情がわずかに引き締まる。
「もちろん。まだ犯人は分かっていないけれど」
伊武は拳を握った。
「たぶん……いや、かなり確信に近いんですけど」
少し間を置く。
「それやったの、ノイズ持ちのやつらだと思う」
霧島は目を瞬かせた。
「……どうして、そう思うの?」
伊武は机の脚を見つめながら答えた。
「ノイズのやつらってさ……」
言葉を探す。
「みんな、どこか自信ないんですよね」
霧島は何も言わない。
ただ聞いている。
「嫌われてるわけじゃない。でも……やっぱり迷惑かけないようにって思うんですよ」
伊武は苦笑する。
「息を殺して生活してるっていうか」
肩をすくめた。
「やっぱ、肩身は狭いんですよ」
少し顔を上げる。
「だから俺、“応援団”って名前でさ」
「そいつらを巻き込んで、居場所を作りたかった」
霧島は静かに頷いた。
伊武の声から、軽さが消えていた。
「ノイズって……」
少し詰まる。
「誰にも言えないし、誰にも見せられないし」
「でも、抱えてると苦しくて仕方ないんすよ」
職員室の時計が、かすかに鳴った。
「だから」
伊武は続ける。
「騒いでも、音が漏れない」
「誰にも迷惑かけない」
「“ここなら大丈夫だ”って言える場所を」
「屋上につくったんです」
霧島は、胸の奥が少しだけ痛むのを感じた。
「……あなたが守ってきたのね」
伊武は笑った。
「守ってるつもりでした」
言葉が途切れる。
「でも……最近、分かんなくなってきて」
沈黙。
伊武は続けた。
「響音部に入って」
「八雲も、真冬も、俺も……」
「前よりずっと前向きになってるんですよ」
霧島はゆっくり頷く。
「ええ。見ていて分かるわ」
伊武の声がわずかに震えた。
「でも、その“前向き”が」
「他のノイズたちと、どんどんズレていってる気がして」
霧島は少し考えた。
すぐには答えなかった。
「今日、真冬の声を聞いて……」
伊武は目を閉じた。
「あいつ、もう“ノイズ”じゃないんですよ」
少し笑う。
「武器になってる」
「八雲も、天音も、晴花も……」
「みんな前に進んでる」
霧島は静かに尋ねた。
「あなたは、どう感じたの?」
伊武は初めて、霧島の目をまっすぐ見た。
「……置いていかれるのは」
小さく言う。
「屋上にいる“あいつら”なんです」
霧島の胸が締めつけられた。
伊武は続ける。
「イタズラの時も……」
「迷惑してたのかもしれない」
「俺たちの“前向き”が」
「裏切りに見えてたのかもしれない」
拳を握る。
「ノイズを肯定したかったんです」
「“ノイズがあっても大丈夫だ”って」
「証明したかった」
一拍。
「でも……」
「俺たちが変わるほど」
「距離が広がっていく気がして」
霧島は、ゆっくり立ち上がった。
「伊武くん」
その声には少し迷いがあった。
「……正直に言うわね」
伊武が顔を上げる。
「私にも、全部分かるわけじゃない」
「でも」
少し微笑む。
「あなたが誰かを守ろうとしていることだけは、分かる」
伊武の目が揺れた。
「前に進む人がいるから」
「後ろにいる人も、動き方を知ることがある」
「それがいつになるかは……」
「誰にも分からないけれど」
沈黙。
伊武はぽつりと言った。
「……だったら、いいんですけど」
霧島は頷く。
「大丈夫」
「あなたはちゃんと守ってる」
「響音部も」
「屋上の子たちも」
そして少し笑った。
「それに」
「そんなあなたを、私が守る」
伊武の喉が詰まった。
何か言おうとして、言葉にならない。
霧島はそっと手を伸ばし、
伊武の頭に触れた。
その瞬間だった。
ぽろりと、一滴涙が落ちた。
伊武は慌てて目をこする。
「……あれ、なんだろ、すんません」
霧島は首を振る。
「謝らなくていいわ」
しばらくして、伊武は深く息を吐いた。
「……ありがとうございます」
その声は、少し軽くなっていた。
伊武は冷えたお茶を一気に飲み干す。
「ごちそうさまでした」
立ち上がる。
「遅くまで、すんません」
職員室を出ようとしたとき、
霧島が声をかけた。
「先生は、いつでも生徒の味方よ」
少し笑う。
「学園祭のライブも」
「無茶しない程度に」
「思いっきりやりなさい」
伊武は深く頭を下げた。
そして職員室を出る。
夜風が頬に触れた。
いつの間にか、胸は少し軽くなっている。
校舎の外は静まり返っていた。
足音と、鼓動。
そして――
耳の奥で鳴る、微かなノイズ。
それが鼓動と重なり
小さなリズムを刻んでいた。
伊武はふと立ち止まる。
「……あれ」
さっき霧島が言った言葉を思い出す。
“ライブも、思いっきりやりなさい”
ゲリラライブのことは、
響音部しか知らないはずだった。
伊武は夜空を見上げる。
それから、苦笑した。
「……やっぱ大人ってすげぇな」
誰もいない夜道で
小さく笑う。
その背中を照らす月明かりはただただ優しく静かだった。




