第34節~終わりと変化
隠し本堂を出るとき、誰も振り返らなかった。
音を置いていくような、あるいは体内の密度が書き換えられたような、奇妙な重みだけが足元に残っていた。
最後尾を歩いていた真冬だけが、ふと立ち止まる。
そこには、もう何も見えない。
屋根も、柱も、静けささえも。
それでも、確かに「在った」と分かる場所。
真冬は、掠れた喉を震わせることなく、胸の奥だけを動かした。
(——ありがとう)
それは人に向けた言葉ではなかった。
壊れたまま立つことを許し、何も返さず、それでも観測し続けてくれた無機質な空間への、静かな決別だった。
再び歩き出したとき、
山道の砂利を踏む音は、もう合宿前のような「無意味な音」には聞こえなかった。
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学校
夏休み中だというのに、校舎の廊下はやけにうるさかった。
チャイムのブザー。
生徒たちの無責任な談笑。
無造作なドアの開閉音。
天音は、それらがひどく薄っぺらく感じられる自分に、戸惑っていた。
(密度が、足りない)
以前なら、この軽い音の群れに紛れ、透明になれることに安堵していた。
けれど今は違う。
誰の覚悟も乗っていない音やテーマが、皮膚の表面を撫でるだけで、何も残さない。
天音は歩きながら、ノートにペン先を強く押し当てた。
インクが滲み、黒い点が生まれる。
——あの場所で、全員が引き受けた重さを、忘れないために。
部室のドアを開けると、微かな埃と熱気が鼻を突いた。
増幅器で覆われた壁。
以前は、どこか檻のようだった空間。
けれど今は、この四角い部屋が、新しい音を待つ共鳴箱に見えた。
「……こんなに音、あったっけ」
伊武がカホンの縁をなぞり、その摩擦音に小さく肩をすくめる。
「ずっとあったんじゃない?
私たちが、聞いてなかっただけで」
晴花は笑い、自然な動作でノートを開く。
真冬を監視する視線は、もうなかった。
彼女が壊れたまま、ここにいることは、全員にとって前提になっている。
八雲が無言で鍵盤の蓋を開ける。
ピアスが、ギターを一掻きした。
低く、鈍い。
石を穿つような一音。
その音が空気を震わせた瞬間、天音の腕に微かな鳥肌が立った。
日常の騒音が押しのけられ、部屋が塗り替えられていく。
真冬は、ゆっくりと息を吸う。
喉は、まだ重い。
逃げ場のない圧が、胸の奥に残っている。
それでも。
部室を満たした新しい密度が、
彼女の沈黙を、優しく、そして確かに拘束していた。
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教室には、まだ午前の熱が残っていた。
窓を少しだけ開けると、校庭の掛け声が遠くで揺れている。
合宿の余韻が、騒がしい世界から切り取られたように、教室の隅に沈んでいた。
天音と晴花は、歌詞を完成させるため、部室を離れ、教室にこもっていた。
机に向かったまま、天音はノートを閉じている。
ペンを握る指先が、脈を拾って跳ねる。
書いた瞬間に、あの場所にあった「言葉にならないもの」を、自分の語彙で壊してしまう気がして怖かった。
「……まだ?」
背後から、晴花の声。
「うん」
乾いた返事。
「書けない。書くと……薄くなりそうで」
それ以上は言わなかった。
晴花は、隣の椅子を静かに引いた。
「完成させなくていいんじゃない?」
天音は顔を上げる。
「完成って、終わらせることだから。
私たち、まだ終わってないでしょ」
晴花は、ノートの端にそっと指を置いた。
「一行でいいよ。意味が足りないやつ」
天音は、ノートを開く。
滲んだ黒い点の隣に、ペン先を置く。
——正解にしない。
ゆっくり、書く。
『音がなかったのに、私たちは確かに、そこにいた。』
書き終えても、満たされた感じはなかった。
ただ、あの空気を少しだけ、紙の上に留められた気がした。
晴花は覗き込まない。
「……書けた?」
「うん」
「それでいい」
これは歌詞じゃない。
誰かに見せるための言葉でもない。
けれど、隠し本堂から持ち帰った、確かな痕跡だった。
天音は、その一行に名前をつけなかった。
ノートを閉じる。
今は、まだしまっておく。
音になる前のまま、誰にも触れられない場所に。
廊下の向こうで、伊武の声が大きくなる。
日常が、確実に戻ってきている。
天音はノートをリュックの奥に仕舞った。
——必要になるときが来たら、
この一行はきっと勝手に壊れて、
別の形で外に出てくる。
それまでは。
これは、彼女ひとりの合宿だった。




