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第33節~苦くて甘くて

 夜が終わっても、

 隠し本堂の空気は、すぐには動かなかった。


 灯りを落としたまま、誰も立ち上がらない。


 終わった、と宣言されたのに、

 終わった感じがしなかった。


 畳の冷たさだけが、じわじわと身体に戻ってくる。


 伊武が、あくびを噛み殺す。


「……なぁ」


 誰に向けたわけでもない声。


「今日さ。なにもしなかったのに、疲れてね?」


 晴花が、少し考えてから頷いた。


「うん。でも……嫌な疲れじゃない」


「それ、一番よく分かんねーやつ」


 伊武が肩をすくめる。


 八雲は、ゆっくり目を開けた。


「集中してた、ってことだろ」


「集中?」


「音に、じゃない」


 一拍。


「自分に、だ」


 天音は、その言葉をノートに書こうとして、やめた。


 ——まだ、言葉にすると壊れる。


 真冬は、柱から少し離れた場所に立っていた。


 歌わなかった。

 声も、出さなかった。


 それでも、

 今日一日で、いちばん動いていたのは、彼女だった気がする。


「……ねえ」


 真冬が、小さく言う。


 皆が、そちらを見る。


「今日さ。“歌わなきゃ”って思わなかった」


 一拍。


「怖くなかったわけじゃないけど」


 指先を、軽く握る。


「歌えない私を、置いていかれないって……初めて、思えた」


 誰も、すぐには返事をしなかった。


 沈黙は、否定じゃなかった。


 ピアスが、ゆっくり言う。


「それで、いい」


 肯定でも、励ましでもない。


 ただの確認。


 その言葉に、真冬は小さく息を吐いた。


 張っていた何かが、少しだけ緩む。


 伊武が、思い出したように立ち上がる。


「腹減った」


 場の空気が、わずかに動いた。


「……今?」


 晴花が聞く。


「今。今だから」


「何もしてないのに?」


「何もしてねーからだろ」


 伊武は、笑った。


 誰かが持ってきていたコンビニ袋が、畳の上に置かれる。


 潰れかけの菓子パン。

 溶けかけのチョコ。

 ぬるくなったペットボトル。


 合宿にしては、あまりに貧相で、

 それでも妙に、ちょうどよかった。


「これ、昼に食うつもりだったやつじゃん」


 晴花が言う。


「忘れてた」


「雑すぎ」


 伊武は気にせず、パンをちぎった。


 真冬は、少し迷ってから、受け取る。


 一口かじって、首を傾げた。


「……甘い」


「そりゃ菓子パンだし」


 真冬の指についた砂糖の粒が、夜の闇で少しだけ光って見えた


「でも、ちゃんと甘い」



 その言い方が、少しだけおかしくて。


 八雲が、呆れたように鼻を鳴らしたあと、口元を緩めた


 天音は、その光景を、黙って見ていた。


 ——これだ。


 音じゃない。

 答えでもない。


 でも、確かに「一緒にいた」という時間。


 霧島先生は、少し離れた場所で、その様子を見ていた。


 教師としては、機能していない時間。


 指示も、評価も、答えもない。


 それでも。


 この合宿で、初めて

「大人が何もしないことで守られている時間」を見た気がした。


「……明日は」


 霧島先生が、口を開く。


 全員が、少しだけ姿勢を正す。


「合宿は、終わりね」


 事実だけの言葉。


「でも、発表までは、まだ時間がある」


 真冬を見る。


「戻す必要は、ない」


 一拍。


「ただ、進む責任は、残る」


 ピアスが、静かに頷く。


「はい」


「それを、独りで背負わないこと」


 霧島先生の声は、少しだけ柔らかかった。


「大人の先輩として、そこだけは言わせて」


 ピアスは、一瞬だけ目を伏せてから、答えた。


「……耳が痛いですね」


 夜は、完全には終わらなかった。


 でも、


 菓子パンの袋と、

 笑いきれない会話と、

 壊れたまま立つ覚悟だけが、


 確かに、合宿三日目の終わりとして残った。



 天音は、その光景を見ながら思った。

 ——きっと、思い出すのはこの夜だ。

 何かを成し遂げた日じゃない。

 うまくいかなかったまま、笑っていた夜だ。

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