第32節~最終日
朝の隠し本堂は、静かすぎた。
音がないわけじゃない。
出していい音と、出してはいけない音の区別が、誰の中にも残っていないだけだった。
二日目に止まったものが、まだ空気の底に沈んでいる。
けれど、それは澱ではなく、沈殿だった。
真冬は、喉に触れなかった。
それだけで、天音にははっきり分かった。
彼女はもう、「戻っているか」を確認しないと決めている。
湯のみを両手で包み、湯気を見つめている。
その横顔は静かで、どこか遠い。
誰も、朝の始まりを告げなかった。
いつの間にか集まり、
そして、誰も楽器には近づかなかった。
「……で」
伊武が、耐えきれないように口を開く。
「今日、どうすんだ」
決断を求める声ではなかった。
確認に近い。
八雲は、しばらく黙ってから言った。
「昨日までで、壊すことは終わった」
晴花が、小さく息を吸う。
「……じゃあ、今日は?」
「壊れたまま、立つ日だろ」
真冬は、目を伏せたまま頷いた。
「歌わない、って意味じゃない」
ゆっくり、言葉を選ぶ。
「歌えないまま、ここにいる」
それは弱音ではなかった。
逃げでもなかった。
天音はノートを開く。
書こうとして、やめる。
言葉が出ないことを、もう責めていなかった。
ピアスは、ギターに触れずに立っていた。
「今日は、何も作らない」
低く、静かな声。
「整えもしない。
昨日までの状態を、変えない」
伊武が唸る。
「進まねぇじゃん」
「進まない」
ピアスは即答した。
「でも、誤魔化さない」
真冬が、浅く息を吸った。
音にならない呼気が、わずかに漏れる。
隠し本堂は、何も返さない。
それでも、
昨日とは違った。
音が壊れていることを、
もう誰も隠していなかった。
そのとき。
障子の向こうで、足音が止まる。
一拍。
「……入っても、いい?」
戸惑いを含んだ、女性の声。
霧島先生だった。
場の空気が、わずかに引き締まる。
先生は、ゆっくり中に入る。
音の少なさと、人の配置を見て、首を傾げた。
「……合宿、よね?」
確認するような声。
ピアスが一歩前に出る。
「はい。
今は、これが必要だと判断しました」
霧島先生は、すぐには返さなかった。
真冬を見て、
楽器に触れない手を見て、
それから、天音たちを見る。
「……正直に言うわね」
視線をピアスに戻す。
「私は、まだ状況を理解しきれてない」
責める声ではない。
取り繕いもない。
「でも、無理をさせてるかどうかは、分かる」
ピアスは、頷いた。
「無理は、してます」
霧島先生の眉が、わずかに動く。
「……それを、止めない理由は?」
「必要だからです」
即答だった。
「ここで優しくすると、
彼女は“戻れる場所”を選ぶ」
霧島先生は、すぐには肯定しなかった。
「……それ、教師としては、かなり怖い言い方ね」
「分かってます」
ピアスは、目を逸らさない。
「だから、責任は僕が持ちます」
霧島先生は、短く息を吐いた。
「あなた一人が持てる責任じゃない」
「はい」
それでも、引かなかった。
「でも、引き受けないと、誰も前に進めない」
しばらくの沈黙。
霧島先生は、真冬を見る。
「……今、つらい?」
真冬は、少し考えてから答えた。
「……怖いです」
正直な声。
「でも、止められる方が、もっと怖い」
霧島先生は、言葉を探すように視線を落とした。
「……分かった、とは言えない」
それから、静かに続ける。
「でも、無理やり止める気も、ない」
視線をピアスに戻す。
「今日は、見守る。
ただし、何かあったら即止める」
「ありがとうございます」
ピアスは、深く頭を下げた。
合宿三日目は、
理解されないまま、
それでも否定されずに進む日になった。
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昼
昼の隠し本堂は、少しだけ光が増えていた。
音は、相変わらず出ない。
けれど、誰も「出さなきゃ」と思っていなかった。
伊武は、床に座り、一定のリズムで指を動かす。
叩かない。
刻むだけ。
晴花は、言葉にならないメモを続けている。
八雲は、目を閉じ、呼吸の速さだけを整えていた。
天音は、ノートを閉じたまま、天井を見上げる。
——何も生まれていない。
でも、何も失ってもいない。
真冬は、柱のそばで、ただ座っていた。
音を出そうとしない。
止めようともしない。
「……あのさ」
伊武が、小さく言う。
「今日さ、
昨日より、ちゃんと“いる”感じしねぇ?」
誰も否定しなかった。
霧島先生は、その様子を離れた場所から見ていた。
理解は、まだ追いついていない。
それでも、壊れていないことだけは分かる。
——壊れているのに、壊れていない。
その矛盾を、先生は飲み込もうとしていた。
午後の隠し本堂は、昼よりもさらに静かだった。
誰かが意識して黙っているわけではない。
もう、音を足す理由がない。
霧島先生は、畳の縁に立ったまま、室内を見回していた。
楽器が鳴らされないことにも、誰も練習していないことにも、
すぐには言葉を与えなかった。
「……変な感じね」
独り言に近い声だった。
「合宿って、普通はもっと……散らかってるものだと思ってた」
ピアスは、少し離れた場所で立っていた。
ギターを持っているが、鳴らす気配はない。
「散らかす前に、壊れました」
正直な言い方だった。
霧島先生は、眉をひそめる。
「壊れた、ね……」
言葉を反芻するように、視線を落とす。
「それ、比喩じゃないわよね」
「はい」
即答だった。
「声も、関係も、判断基準も。
ちゃんと壊しました」
少しの沈黙。
霧島先生は、腕を組んだ。
「……それを、あなたが決めた?」
問いは、鋭いが責める調子ではない。
「提案はしました」
ピアスは一拍置く。
「決めたのは、本人です」
「本人、というのは」
「真冬です」
霧島先生は、隠し本堂の奥を見る。
声の出ていない場所を、測るように。
「……正直に言うわ」
そう前置きしてから、続けた。
「私は、理解できてない」
ピアスは、黙って頷いた。
「でも」
霧島先生は、言葉を探す。
「理解できないから止める、っていうのも……
違う気がしてる」
畳の上に、視線を落としたまま。
「壊した結果、何が残るの?」
「分かりません」
ピアスは、視線を逸らさなかった。
「残らないかもしれない」
「……怖くない?」
霧島先生の声は、少し低くなった。
「怖いです」
迷いなく言う。
「でも、元に戻す方が、もっと怖かった」
霧島先生は、息を吐いた。
「あなた、嫌われ役を引き受けてるつもり?」
「つもり、じゃないです」
「もう、引き受けてる?」
「はい」
霧島先生は、小さく笑った。
「……重たい役目ね」
「軽い顔でやると、もっと壊れます」
霧島先生は、その言葉を否定しなかった。
「私にできること、ある?」
「止めないでください」
即答だった。
「見て、分からなかったら、分からないって言ってください」
霧島先生は、しばらく考えたあと、ゆっくり頷く。
「それなら、できる」
一歩、踏み出す。
「ただし」
ピアスを見る。
「壊れた結果、何も残らなかった時」
一拍。
「その時は、あなたも逃げないで」
ピアスは、静かに頷いた。
「逃げません」
午後の光が、少し傾く。
音のない隠し本堂で、
二人の沈黙だけが、確かに続いていた。
夜。
灯りを落とした隠し本堂で、
真冬は、もう震えていなかった。
「……歌えない」
その声は、昨日より低い。
「でも」
一拍。
「壊れたままの私で、ここにいる」
逃げない。
直さない。
戻らない。
ただ、立つ。
天音は思った。
——これは、音を出さない選択じゃない。
——音に、嘘をつかない選択だ。
真冬は、息を吸い、
吐いた。
それだけ。
それ以上を、求めなかった。
ピアスが言う。
「今日は、終わりだ」
霧島先生は、初めて小さく息を吐いた。
「……難しい合宿ね」
それは否定でも、評価でもなかった。
ただの、実感だった。




