第30節~壊す日
隠し本堂に行ってから数日、音が変わったわけじゃない。
変わらなかったことが、問題だった。
練習は進む。
詩はともかく、曲は、形になりつつある。
けれど天音には、どの音も一歩手前で止まっているように聞こえた。
踏み込めば壊れると、全員が知ってしまったあとの音。
その日の終わり、ピアスがギターを置いた。
「……明日の話をしたい」
立ったまま。
逃げ道を作らない姿勢だった。
「合宿一日目を、“壊す日”にする」
伊武が顔をしかめる。
「また物騒なこと言うな」
「物騒だよ」 ピアスは即答した。 「だから、先に言う」
八雲が腕を組む。
「壊すって、どこまでだ」
「完成を捨てる」 「評価も、正解も、置いてく」
晴花が息を詰める。
「……それ、真冬に一番負担かかるよね」
真冬は、黙っていた。
喉に触れる指が、何度も同じ場所をなぞる。
「……壊れたら」 やっと出た声は、掠れていた。 「戻れなくなるかもしれない」
天音は、視線を落とした。
止めるべきか、見守るべきか、その境界に立たされている気がした。
ピアスは、迷わなかった。
「その時は、僕のせいだ」
伊武が思わず立ち上がる。
「ふざけんな」 「真冬の声だぞ」
「だから」 ピアスは静かに返す。 「僕が引き受ける」
真冬が、ゆっくり顔を上げる。
「……でも」 涙が落ちそうな目で、言う。 「今のまま歌い続ける方が、私、嫌」
怖い。
壊れたくない。
それ以上に、今の自分を続けることに、耐えられない。
「変わりたい」 「ちゃんと、私の音を、掴みたい」
縋るような言葉だった。
ピアスは、それを受け止めるように頷く。
「だから壊す」 「責任は、全部僕が持つ」
天音は、その背中を見て思った。
——これは、彼が悪者になる覚悟だ。
誰も、止めなかった。
止める権利が、もうなかった。
天音はノートを閉じる。
明日、壊れるのは音だけじゃない
皆がそれぞれの想いを旨に夜は更けていった。
そして合宿当日。
隠し本堂の朝は、音が少なかった。
蝉の声すら、ここまでは届かない。
朝の光が、障子の隙間から薄く差し込んでいる。
畳に落ちた光は動かず、時間そのものが慎重に息を潜めているようだった。
誰も、楽器を手に取らない。
それが、今日の約束だった。
「……本当に、やるんだな」
伊武が、耐えきれないように言った。
声は低く、冗談の入り込む余地がない。
「“壊す日”ってやつ」
「やる」
ピアスは短く答えた。
即答だった。
迷いのない声は、かえって空気を冷やす。
八雲が腕を組む。
「なあ、それって……どこまでだ?」
問いは、全員に向けられていた。
だが、視線は真冬に集まっていた。
真冬は、静かに立っていた。
拡声器も持たず、ただ、そこに“在る”という状態で。
「……どこまででも」
彼女は言った。
その声には、決意よりも諦念が近かった。
天音は、思わず晴花を見る。
晴花もまた、唇を噛んで視線を逸らしていた。
(止める言葉が、見つからない)
それは臆病だからではない。
この場所で、この空気で、
真冬の前に立つこと自体が——
彼女の選択を否定することになると、二人とも分かっていた。
「真冬」
伊武が一歩踏み出す。
「冗談じゃねぇぞ。
壊すって……壊したら、戻んねぇこともあるだろ」
「うん」
真冬は、すぐに頷いた。
「だから、今日がいい」
その言葉で、場の温度が一段下がった。
「……待て」
八雲が、はっきりと遮る。
「それ、合宿一日目にやることじゃない。
まだ何も作ってない。
土台もないのに、壊したら——」
「土台なら、あるよ」
真冬は、初めて八雲を見た。
「“上手く歌おうとしてきた私”
“期待される声を出してきた私”
それが、土台」
言葉が、畳に落ちる。
「それを壊さないと、
たぶん……私、また同じ音を出す」
沈黙。
天音の胸が、苦しく締めつけられる。
(取り返しがつかない)
頭では、そう分かっている。
けれど同時に——
これを止めたら、真冬は一生ここまで来ない。
「……責任は、僕が持つ」
ピアスが、前に出た。
全員が、彼を見る。
「今日、ここで起きること。
真冬が壊れたとしても、
音が出なくなっても、
学校に説明が必要になっても——」
一度、息を吸う。
「全部、僕が引き受ける」
伊武が叫ぶ。
「ふざけんな!
なんで一人で決めるんだよ!」
「一人で決めてない」
ピアスは静かに返す。
「昨日から、彼女は決めてた」
真冬は、何も言わなかった。
ただ、肯定も否定もせず、そこに立っている。
「……歌って」
ピアスが言った。
「曲じゃなくていい。
言葉も要らない。
出てくる音を、そのまま」
一拍、遅れて。
真冬は、息を吸った。
最初の音は、音程を持たなかった。
喉の奥で、引っかかるだけの空気。
二音目で、声が裏返る。
三音目で、途切れた。
「……っ」
止める言葉が、誰の喉にも引っかかったまま出てこない。
真冬は、もう一度息を吸った。
今度は、抑えなかった。
整えようともしなかった。
声が割れる。
震え、潰れ、形にならないまま落ちていく。
それでも、止めなかった。
天音は、視線を逸らせなかった。
胸の奥が、ぎゅっと縮む。
(これは、見ていなきゃいけない)
晴花は目を伏せたまま、動かない。
八雲は歯を噛みしめ、
伊武は、完全に言葉を失っていた。
そして——
真冬の声が、崩れた。
歌でも、泣き声でもない。
ただ、音になりきれなかった“声”。
彼女は、その場に膝をついた。
息が乱れ、肩が上下する。
誰も、すぐには近づけなかった。
ピアスだけが、一歩前に出る。
真冬の前にしゃがみ込み、低く言った。
「……今日は、ここまでだ」
真冬は顔を上げなかった。
けれど、指先がわずかに動き、畳を掴んだ。
隠し本堂は、何も反応しない。
慰めも、拒絶もない。
ただ、起きた音を、そのまま残しているだけだった。
天音は、息を吐く。
喉が、痛かった。
自分は何もしていないのに。
今日、壊れたものの重さが、
音ではなく、空気として残っている。
合宿一日目は、
誰も戻れない場所に、静かに線を引いた。




