第29節~鳴らさない
掃除は、いつの間にか無言になっていた。
天音は、ほうきを動かしながら気づいていた。
いつもなら冗談を言い合っているはずの晴花や伊武が、黙々と作業を続けている。
晴花のテーマも、どこか、ぎこちなく流れているように見えた。
ほうきが床を撫でる音。
雑巾が畳を擦る音。
そのひとつひとつが、隠し本堂では妙に大きく、そして正確に響く。
音が大きいのではない、と天音は思った。
余計なものが、ここにはないのだ。
誰も、無駄な音を立てなくなっている。
それを、誰かが決めたわけでもない。
気づけば全員が、音を選んでいた。
静寂堂は、ノイズを静める場所だ。
天音はそう教わってきた。
日常のざらつきや、感情の余韻を沈めるための空間。
その真骨頂ともいえる隠し本堂。
ここでは、音は「足されるもの」ではない。
「隠せないもの」だと、天音は感じていた。
真冬が、雑巾を置いた。
その動作ひとつで、空気が変わった気がした。
いつもより、真冬のノイズから鳴る重低音が鈍く震えている。
それが場所のせいなのか、真冬自身のものなのか、天音には判別がつかなかった。
ただ、その響きが、空気の向きを変えたのは確かだった。
「……ねえ」
真冬の声は、ひどく慎重に聞こえた。
「一回だけ、確かめてもいい?」
天音は息を止めた。
誰も問い返さない。
ピアスが真冬の方を見て、ゆっくりとうなずくのが視界の端に入る。
真冬は目を閉じた。
吸い込んだ息が、音になる直前で膨らむのがわかった。
そして──
声が、生まれた。
歌とは呼べない。
言葉にも、まだ届いていない。
喉の奥から零れ落ちた、音の“芯”。
隠し本堂は、それを拒まなかった。
同時に、逃がしもしなかった。
音は薄く広がり、
壁と天井に触れ、
やがて、真冬のもとへ戻っていく。
天音は、胸の奥が少しだけ痛むのを感じた。
理由は、わからない。
ただ、音が戻ってきた瞬間、
自分の中の何かまで、一緒に触れられた気がした。
——ここでは。
上手いか、下手か。
正しいか、間違っているか。
そんな基準は、意味を持たない。
返ってくる音が、すべてを決めている。
真冬の声が、消えた。
沈黙。
伊武が、珍しく軽口を挟まなかった。
「……これさ」
言葉を選ぶように、伊武は続ける。
そのノイズが、いつもより早く拍を刻んでいるのが、天音にもわかった。
鼓動に似ているが、落ち着きがない。
「逃げたら、音が……戻ってくるんだな」
言い切れず、語尾が沈む。
「うん」
天音は、自分の喉の奥が乾くのを感じた。
優しくない、というより——逃げ場がない。
八雲が、小さくつぶやく。
「だから、使わせてもらえたんだろ」
不協和音のような八雲のノイズが、
このときは、不思議と全員の沈黙を支えているように聞こえた。
ピアスの口元が、ほんの僅かに緩む。
「……合宿ってさ。逃げられないんだよな。
音からも、自分からも。
……だから、ここなんだと思う」
天音は思った。
ここなら、音が言葉になる。
けれど同時に、
言葉にならなかったものまで、
無理やり引きずり出される気もしていた。
隠し本堂は、何も語らない。
ただ、全員を等しく、同じ重さで受け止めているように見えた。
合宿は、まだ始まっていない。
それでも天音には、はっきりわかっていた。
この場所は、
「準備」をさせるための場所ではない。
ここで何かを得るなら、
きっと、何かを置いていかなければならない。
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夕方の光が、隠し本堂の床に斜めの線を落としていた。
掃除はひと段落し、誰からともなく腰を下ろす。
汗を拭う音すら、ここでは少しだけ躊躇われた。
「……今日さ」
真冬がぽつりと言う。
声を張らない。その選び方自体が、ここでは意味を持つのだと、天音は思った。
「音、出さなくてよかったと思う」
伊武がわずかに眉を動かす。
「え、せっかく来たのに?」
「うん。たぶん……今日は、まだ早い」
その言葉が落ちた瞬間、
天音の内側で、何かが噛み合った。
正しい、というより、嘘がない。
今、音を出したら、
まだ形になっていない部分まで、響いてしまう。
ピアスが小さく頷く。
「最初は、場所に慣れるところからだね」
「場所に、っていうか……」
晴花が周囲を見渡す。
「ここ、私たちの“中”を見てくる感じがする」
天音も、同じことを感じていた。
だから、何も言えなかった。
真冬は膝を抱え、畳の目を見つめている。
「……ここで歌うなら」
一度、喉を鳴らしてから、
「ちゃんと、覚悟がいるね」
その声は、決意というより確認に聞こえた。
誰も返さなかった。
ただ、夕暮れの光が、静かに床を染めていた。
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それから数日、部室の空気は重たかった。
練習はしている。
パートごとの合わせも、詞づくりも、止まってはいない。
それなのに、音が前に進まない。
天音はノートを開いても、言葉が出てこなかった。
鉛筆を握る指が固い。
自分のテーマだけが、
この空間に、静かに流れている気がした。
伊武のカホンは、いつもより音が浅い。
叩く手は強いのに、芯に届いていない。
八雲の鍵盤は、輪郭が曇っている。
正確なのに、音が引っ込んでいるように聞こえた。
真冬は、声を出す前に何度も喉に触れていた。
濁った空気が、声帯に引っかかっているように見える。
出せないのではない。
音を、まだ受け止めきれないだけだと、天音は思った。
「……ちげぇな」
伊武がカホンの上で手を止め、舌打ちする。
「どこが?」
天音は、思わず口にしていた。
伊武は一瞬、言葉に詰まる。
「……全部、って言うと乱暴だけどよ」
空気が張りつめる。
天音は、続きを待ちながら、何も言えなかった。
晴花が慌てて口を開く。
「ちょっと、変えてみる?」
「変えるっていうか……」
八雲が鍵盤から手を離す。
「まだ、触っちゃいけない気がする」
沈黙が落ちた。
天音のテーマだけが、やけに遠くで鳴っている。
ピアスは何も言わなかった。
ただ、真冬が声を出そうとしてやめた瞬間、目を伏せた。
「……なんか、変だよね」
天音は、小さく言う。
「うん」
晴花が苦笑する。
「……あそこ行ってからさ」
八雲が視線を落としたまま言った。
「自分の音、ちょっと怖くなった」
その言葉に、天音は何も返せなかった。
音は出ている。
けれど、どこかで止まっている。
——止めているのは、自分たちだ。
隠し本堂で突きつけられたのは、
技術でも、表現でもない。
戻ってくる音を、
自分のものとして引き受けられるかどうか。
その問いが、
まだ答えを持たないまま、燻っている。
沈黙は、逃げではない。
だが、踏み出さない沈黙は、やがて枷になる。
そのことを、天音達は理解していた。
理解しているからこそ、次の一音が出せなかった。




