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第27節~特例


 静寂堂は、夕暮れの光の中で、まるで時間そのものが薄く伸びていくような静けさに包まれていた。


 畳の香りは深く、乾いた木の呼吸がわずかに耳をくすぐる。障子の向こうでは、斜陽が最後の力を振り絞るように橙色の筋を描き、山の稜線をゆっくり沈めていた。




 晴花は、そんな空間にふさわしくないほど強く手を握りしめていた。膝の上で重なった指は細かく震え、その震えを抑え込むように深呼吸を繰り返す。


 隣ではピアスが、異様なほど静かに背筋を伸ばしている。いつも騒がしく、何かと笑って誤魔化す彼の姿とはまったく違っていた。




 対面に座る宵雨は、瞼を閉じたまま、長い沈黙に本堂を沈めていた。


 その沈黙は重くはない。ただ広く、深く、二人の呼吸を吸い込みながら、何もかもを飲み込んでいく。




 やがて、宵雨が静かに目を開けた。


 その視線は澄んでいて、底が見えない。湖面のようでもあり、刀身のようでもあった。




「……合宿、とな」




 低く落ちた言葉は、まるで水面に落ちる一滴のように、空間全体を震わせた。




「ここで“音を鳴らす”つもりなのか?」




 その問いに、ピアスは即答した。




「はい」




 短い音だった。しかしその即答の中には、強引でも軽率でもない、彼なりの覚悟が宿っていた。




「僕たちは、ただ音を出したいんじゃないんです。


 伝えるために、鳴らしたい。


 そのためには、時間と場所が必要で……どうしても静寂堂が必要なんです」




 宵雨はわずかに眉を寄せた。怒りではない。だが、二人はすぐに察した。


 その表情は「簡単ではない」と告げる沈黙のようだった。




「静寂堂は“音を鎮める場所”だ。


 心の音を沈め、磨き、沈静へと向かわせる場所。


 “鳴らす”ための場所ではない」




 その言葉は、あまりに静かであるのに、拒絶としては圧倒的だった。




 晴花の喉が小さく鳴った。


 声を出そうとして、出ない。




 ピアスが口を開きかけた──


 宵雨の声が、彼を遮った。




「一夜限りのギターも、夏休み終わりに予定している演奏も……あれはすべて例外だ」




 宵雨はゆっくり視線を上げ、二人を交互に見た。




「外から吹き込んだ風として、特例として許した。


 だが、特例は特例だ。


 ここは“鳴らす場所ではない”という原則は揺らがない」




 ピアスが言葉を失う。


 晴花は、まるで胸に冷たい刃を押し当てられたような痛みを覚えた。




 沈黙が落ちる。




 晴花は、自分の中のどこかで何かが“限界”を迎えたことを感じた。




 喉が熱くなり、声が震える。


 彼女は必死に呼吸を整え、宵雨をまっすぐ見つめた。




「……でも」




 その一言で、本堂の空気が変わった。




「私は……ここで何度も音を聴いてきました。


 誰にも届かないと思っていた、みんなの音を。


 奥の奥に沈んでいた音を、ここで初めて、ちゃんと聴けたんです」




 宵雨の目が少しだけ動いた。




「“騒音部”なんて呼ばれて、笑われて……悔しかった。


 でも、そこで言い返すだけじゃ意味がないって、気づいてしまって。


 だから……音で返したいんです。


 ちゃんと“言葉”にして」




 晴花の声は震えていたが、決して折れてはいなかった。




「その準備が……ここでしかできない。


 ここじゃなきゃ、向き合えないんです。


 私は、私たちの音と。


 そして、あの人たちの言葉と」




 言い切ると同時に、涙がひとすじ、頬を伝った。




 その涙を見ても、宵雨の表情は変わらない。


 しかし、変わらないこと自体が、深い思索の証のように見えた。




 長い沈黙。




 夕陽が障子越しに赤く滲み、本堂の影を伸ばす。




 葉擦れの音が、まるで遠くの波のように寄せては返す。




 そして──




「……貸さないとは言っていない」




 その一言で、晴花の胸が跳ねた。


 ピアスは思わず息を呑んだ音を立ててしまった。




「静寂堂ではない」




 宵雨の声音は、先ほどよりも幾分柔らかくなっていた。


 ただし、それは解放ではない。厳しさをまとった別の選択肢。




「裏山の奥に、もうひとつの本堂がある」




「……本堂?」


 ピアスが呟く。




「“隠し本堂”と呼ばれている場所だ」




 宵雨はまるで古い物語を語るように、その存在を告げた。




「昔、修行の最終段階で使われていた。


 瞑想室をそのまま拡張したような造りでな。


 人が訪れることはまずない。


 夜でも構わん」




 晴花の背に、冷たい鳥肌が走った。


 その場所の存在自体が、まるで試練の舞台のようだった。




「音がよく響く。


 逃げ場がないほどにな。


 だから……“鳴らす”なら、そこでやれ」




 宵雨はすっと背を向けた。




「ただし──」




 振り返らずに言う声は、さっきよりもずっと強かった。




「“鳴らす”とは、己を曝け出すことだ。


 飾りも言い訳も、一切通用しない。


 それを忘れるな」




 晴花とピアスは深々と頭を下げた。


 額が畳に触れるほど深く。




 その瞬間、外の風が障子を揺らし、木々の葉をざわめかせる。


 まるで静寂堂そのものが、二人の覚悟を確かめるように揺れた。




 晴花は涙を拭い、ピアスは静かに握り拳を握る。




 音を鳴らす場所は得た。


 だが、それは支度のための場所であると同時に、


 心を試す場所でもあった。




 その重さを理解しながらも、二人はどこか誇らしさのようなものを感じていた。




 静寂と沈黙に守られた場所──


 その奥にある、誰も知らない「隠し本堂」。




 そこで鳴らされる音はきっと、ただの音ではない。




 “伝えるための音”になる。




 そしてこの瞬間、静寂堂の本堂は、


 二人の背中を押すようにゆっくりと風を送った。

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