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第2節~星宮 晴花と名前の無い男

男は記憶も曖昧なまま、あてもなく歩いていた。


 とりあえず、人のいる場所を探そうと思った。




 まだ日が昇って間もない朝。


 この時間帯でも空いている場所――人がいて、何かを買える場所。




 男はコンビニへと向かった。




 自動ドアが機械的な音を立てて開く。


「いらっしゃいませ」


 無機質な声が、朝の静けさを切り裂いた。




 棚の前で缶ジュースを手に取り、レジへ向かう。


 冷たい缶の感触が、現実を確かめる手がかりのように思えた。




「これ、ください」


 男はポケットから小銭を取り出す。銀色の硬貨が数枚、縁には細かい刻印。




 差し出すと、店員の手が止まった。


「……これ、使えません」




 その言葉に、男の動きが固まる。


 通貨が使えない――その意味を理解するより先に、胸の奥がひやりと冷たくなった。




 後ろに並んでいた女子学生が眉を寄せる。


 店員は申し訳なさそうに「他だとクレジットか電子マネーで」と告げたが、男は首を振るしかなかった。


 スマホもない。財布もない。


 ――自分は、ここに属していない。




 そのとき、後ろの学生が声をかけた。


「どうしたの? 困ってる?」




 柔らかな声だった。朝の空気に自然と溶け込むような声。


 男は硬貨を見せながら言う。


「これしかなくて……使えないみたいで」




 彼女は硬貨を指先で転がし、首をかしげた。


「変なの。でも、まあいいや。ジュースだけでいいんでしょ? 私、出すよ」




 彼女――晴花は店員に声をかけ、カードで決済を済ませると、男に缶ジュースを手渡した。


 指先が触れた瞬間、男の胸の奥の凍りが少しだけ溶けた気がした。




「ありがとう……えっと」


 言葉を探す男に、晴花は笑って言った。


「後ろが私でよかったね。あ、私は晴花。お兄さんは?」




 ――街の向こうでは、商業ビルの影が朝の光を切り取っていた。


 風が吹くたびに木々の葉がざわめき、制服の裾が微かに揺れる。


 通学路の石畳には夜の名残が残り、靴音が湿った響きを立てていた。




「晴花ー! おはよー!」


 遠くから声が飛んでくる。天音と八雲だ。




 晴花は振り返り、笑顔を向ける。


「お、天音ー! 八雲も!」




 声は自然だったが、天音の視線にはわずかな迷いがあった。


 彼女が誰かに対して“判断を保留している”とき、言葉の間に微かな沈黙が生まれる。


 それは彼女の直感が働くときの癖だった。




「晴花、隣のお兄さんは友達? 私、会ったことないよね」


 天音が探るように尋ねる。




「ううん、初めて会った人。コンビニで困ってたから声かけただけ」


 晴花は警戒をほぐすように明るく笑いながら続ける。


「ちょうど自己紹介してたとこなんだよね」




 晴花が男の方へ視線を向けると、彼は小さくうなずいた。


「おはようございます」




 声は柔らかく、言葉も丁寧。けれどどこかぎこちない。


 まるで自分を説明する言葉を探しているようだった。




「晴花さんに助けてもらって、お礼と自己紹介をしたかったのですが……名前が思い出せなくて」


 男は苦笑して、頭をかいた。


「実は、自分が何者だったのかも、どこから来たのかもわからないんです」




「記憶喪失……?」


 天音が問うと、男は小さく頷いた。




「ただ、なんとなく……ここじゃない場所から来た気がします。


 夢の中で見たような、でも確かに知っている風景があって。そこから、ふっと落ちてきたような……」




 その言葉に、晴花の目が輝いた。


「えっ、それって――異世界人ってこと!?」




 声が少し跳ねる。


「やば、ほんとに!? そういうの、物語の中だけだと思ってたのに!」




 男は戸惑いながら笑う。


「確証はないんです。ただ、そうとしか思えなくて……」




「うわ、すごい……」


 晴花は手を口元に当て、目を丸くした。


「初めて会った! ていうか、記憶喪失で儚げな美形って、設定完璧すぎない?」




「設定……?」


 男が小さく首をかしげると、晴花は照れたように肩をすくめた。




「ごめん、テンション上がっちゃって。でも、なんか……すごく面白いことが始まりそうな気がして」


「じゃあ、ピアスくんって呼んでもいい?」




「え?」




「仮名。名前がないなら、呼び方が必要でしょ。ピアス、似合ってるし」




 男は少し驚いたように笑った。


「……いいですよ。呼びやすいなら、それで」




「ピアスくんね……」


 八雲が小さく呟く。その声にはわずかな警戒が混じっていた。




 少しの沈黙のあと、晴花がふと思い出したように言う。


「そういえばさ、ピアスくんの“テーマ”ってどんな感じなの?」




「テーマ?」男が首を傾げる。


「うん、私さっきから探してるんだけど……なんか聴こえない気がして」




 その言葉に、天音と八雲がわずかに表情を変える。


 ピアスは一瞬だけ目を伏せ、静かに言葉を探した。


「テーマって、みなさんから出ているあの音のこと……ですよね?」




 左耳の黒いフープを指でなぞりながら、彼は続ける。


「……それが、たぶん……僕にはないんだと思う。


“ない”と断言できるほど、はっきりわかっているわけじゃないけど、異世界だと思ったのもそれだったんで……」




“テーマを持たない”。


 それはこの世界では、あり得ないはずのこと。


 誰もが生まれながらに持つ、自分だけの旋律。


 それがないということは――




「……やっぱり、異世界人じゃん」


 晴花が小さく呟いた。




 今度の声には、はしゃいだ色はなかった。




 天音はピアスの言葉を聞きながら、八雲の気配に耳を澄ませた。


 その旋律が、ほんの少しだけ揺れている。


 静けさが、誰かのテーマを揺らした。




 それは、何かが始まる予兆のようだった。

11/6 加筆修正

11/9再構成

11/22 タイトル修正

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