第1節~月城 天音と不破 八雲
朝六時半。
淡い光が、まだ眠たげな屋根たちを撫でていた。
少し気の早い風鈴が窓辺でひとつ鳴る。
その音を合図にしたように、街がゆっくりと目を覚まし始めた。
通りを流れるのは、人々の“音”。
この世界では、誰もが生まれたときから自分だけの“テーマ”を持っている。
それは一定の長さで繰り返され、呼吸のように絶えず流れ、感情や体調の揺らぎさえも響きに変える。
人はみなそれぞれの音を持って生き、街全体がそれらの旋律で形づくられていた。
屋根の上をすり抜ける風が、月城天音のテーマを優しく撫でた。
淡く整った旋律。
跳ねすぎず、沈みすぎず、夜明け前の月のように静かな音。
それが彼女の存在そのものを表していた。
彼女は通学路の端を歩いていた。肩までの黒髪は風に揺れても乱れず、制服の襟元はきちんと整えられている。切れ長の目元は伏し目がちで、墨を溶かしたような灰色の瞳が、周囲の音を静かに見つめていた。まつ毛の影が瞳に深さを与え、表情は控えめながら、どこか芯の強さを感じさせる。
彼女のテーマは、誰かの不安に寄り添うように流れる。
周囲からは「オシャレだね」なんて良くいわれるし、彼女も自身のテーマが好きだった。
そして、その力を誰よりも信じていた。
そばにいるだけで、言葉が無くてもきっと力になると。
彼女は少なからずこの世界に愛されているのだろう。
そして、それ以上に彼女はどこかで世界を嫌っていた。
そんな思いと裏腹に天音のテーマは淡々と優しさを彷彿した中で廻り続ける。
「……いってきまーす」
向かいの家から覇気のない声が聞こえた。
出てきたのは幼なじみの不破八雲。
濃紺の髪が目を隠し、シャツは第二ボタンまで開けられ、ネクタイはポケットの中。
だらしないというより、世界の音を遮る装甲をまとっているようだった。
八雲の周囲には、かすかな不協和音が漂っていた。
それが彼の“テーマ”。
繰り返しを拒むような、連続性のない断片の連なり。
耳に引っかかるその音は、まるで世界に対する小さな抵抗のようだった。
この世界では、そうした音を持つ者を“ノイズ”と呼ぶ。
かつては疎まれ、今も偏見は根強く残っている。
身長は天音とさほど変わらないはずなのに、猫背気味の姿勢のせいで並ぶと差ができて見られてしまう。
彼女は無意識にテーマのボリュームを少し上げ、八雲の背中を追った。
「おはよー!」
思いきり肩を叩くと、八雲はわずかによろめきながら睨んだ。
「力、強いんだよな……」
「梅雨も明けたんだから、シャキッとしよ!」
天音が笑うと、八雲はため息をついて前を向く。
彼は音に敏感だった。
「……今日、風が強い。音が流れすぎて混ざってる」
そう言われ、天音も耳を澄ます。
確かに街の旋律が、風に押し流されるようにゆらいでいた。
「言われてみれば、ほんとだね」
彼女はそっと自分のボリュームを調整する。
八雲がぽつりと呟いた。
「お前のテーマ、いつもより跳ねてる」
「え、そうかな?」
天音は足を止めて耳を傾けた。
たしかに、いつもよりテンポが速い。
「……どうせ梅雨明けが嬉しいんだろ」
そっぽを向いたまま吐き出すように言う八雲に、天音は小さく笑った。
たぶん、その通りだった。
街の音が重なり合い、日常の旋律をつくっていく。
天音は小さく息を吸い、ぽつりとつぶやいた。
「晴花、来てるかな」
「昨日、静寂堂で遅くまで調整してたって。調子悪いらしい」
「また……? 最近ずっとだね」
星宮晴花。
小学校からの友人で、八雲が通う静寂堂の孫娘でもある。
明るくて、太陽のように弾ける音を持つ少女だ。
けれど最近、その旋律が少し濁ることがある。
晴花はそれを、ひどく怖がっていた。
「……ん?」
八雲が立ち止まり、前方を見つめた。
その視線の先に、晴花の姿があった。
短い茶色の髪が朝日を受けて光る。
リボンを外した襟元や手首のシュシュが、彼女らしい軽やかさを添えていた。
だが、その笑顔の端に小さな揺れがあった。
彼女の向かいには、見知らぬ男が立っていた。
くすんだ銀髪。黒いピアス。
この街では見かけない、どこか異質な空気をまとっている。
そして何より——彼の周囲には、静かなざわめきがあった。
天音の胸の奥に違和感が広がる。
無意識にテーマのボリュームを上げた。
「……誰だ、あいつ」八雲が低く呟く。
「晴花、困ってる?」天音が首を傾げる。
「かもな」
天音が八雲の袖をそっと引く。
二人は頷き合い、足早に駆け出した。
世界が、揺ら揺らとゆらぎ始めた。
11/6 加筆修正。




