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第五十五話:泥まみれの握手と陽気な救助


外は予想通り、もうすっかり暗くなっているようだった。吸血鬼の返り血でドロドロになった指先が、外の冷たい空気に触れた。

フローラは崩れ落ちるようにして、空き家の腐った床板の上に這い出した。背後では、つい数秒前まで自分たちがいた空間が、断続的な崩落音と共に地中の奥深くへと埋まっていく。


「ハァ、ハァ……ッ、ゲホッ!」


肺に溜まった煤を吐き出し、フローラは力なく横たわった。

隣には、まだ意識を失っている聖職者が転がっている。静寂が、重く降り積もる。


――来ない。


「……約束、破りやがって。クソ、ネジ外れ野郎が……」


絞り出した声が、悔しさと共に地面に落ちる。あんなに格好つけて送り出しておいて、結局これか。

だが、その時。


「……酷い言い様ですね。……かなり、頑張ったつもり、なんですが」


聞き慣れた、けれど酷く掠れた声が聞こえた。

フローラが弾かれたように顔を上げると、幽霊のようにふらりと一人の男が姿を現した。煤で真っ黒になり、服の所々が焼け焦げさせたエヴァンズが、一歩、また一歩と、覚束ない足取りで光の下へ歩み寄ってくる。


「……! なんで……生きて……」


フローラが目を見開いて絶句する中、エヴァンズは彼女の前で立ち止まった。

そして、かすかに口角を上げると、――右手を、ゆっくりと差し出した。


フローラは、言葉にならない思いを飲み込み、その手を強く、折れんばかりに握り締めた。


「どうにか、生還いたしましたよ」


エヴァンズはそう呟くと、緊張の糸が切れたようにその場へドサリと倒れ込んだ。フローラが慌てて支えようとしたが、彼は荒い息をつきながら、弱々しく笑った。


「流石に……厳しかったですね。初めては……」


「初めて……? 何がだよ」


「昔、騎士時代の仲間に……今の爆発みたいな無茶をやって生還した人が、誇らしげに自慢していて。……少し、真似してみようかと。分裂した吸血鬼には必ず核となる個体がいて、そいつは本能的に、最も安全な場所――瓦礫が崩れる寸前のわずかな隙間へ逃げようとするらしいんです。それを捕まえて、盾にしながら一緒に……」


「そんな、死ぬかもしれない無茶を……!」


「そうですね……無茶でした。もう二度としたくありません。掴んだ奴が暴れたせいで、酷く身体を打つことになりましたし……」


「当たり前ですよ……!」


エヴァンズは瞳を閉じ、深く呼吸をした。それから、ふと思い出したように目を開け、フローラの顔を覗き込んだ。


「……ああ、そうだ。どうでしょう。……今の、格好良かったでしょうか?」


フローラは鼻を鳴らし、あえて冷たく言い放った。


「いいえ。無茶は格好良くありません。大馬鹿者のすることです」



「そんな……メイさんも、比較的無茶を許容して、自分でも突っ込んでいくタイプに見えますが」


「私はいいんです。私は根っこから格好良いので、何をやっても様になるんです」


「……それでは私は根っこからは格好良い訳ではないということになるのですが。くふふ、しかし、ということは……せっかく格好悪いと思った事はないと言って下さったのに、初めて格好悪い所をみせてしまった事になりますね」


エヴァンズがからかうように言うと、フローラはにっこりと、けれど底知れない笑みを浮かべて返した。


「何のことでしょうか? 頭のネジが外れていると言った記憶はありますが、それは、聞き間違いじゃないですか?」



「……そうなのですか? それにしてもおかしいですね。戦闘中は、口調もかなり……その、砕けていた気がするのですが。もしかしてあれが、貴方の本来の……」


「…………っ! ……先生は、極限状態だったので、聞き間違いをしたのではないでしょうか、いえ絶対にそうですね」


フローラはギクリとして視線を逸らした。


その時。


横に転がっていた聖職者の男が、ガバッと跳ね起きた。彼は周囲を見回すと、自分が生きていることに気づき、なりふり構わず空き家の出口へと逃げようとする。彼は、戦闘時は蹲っていた為、体力が有り余っているようだ。


「おい、待て!」


フローラが呼びかけるが、身体が重い。隣のエヴァンズに目を向けると、彼の視線は虚空を泳ぎ、意識が急速に混濁し始めていた。


「……おい、先生! 怪我、やっぱり酷いのではないですか?」


「大丈夫ですよ……。折れはしたでしょうが……神経をいじられるか、時間が経って壊死でもしない限り……神殿に行けば、元に戻ります。私は……私の左腕みたいには、なりませんから……。ああ、そうだ、言い忘れていました。メイさん……怪我は、ないですか?」


「急に怖いこと言わないでください……。というか、私より、先生でしょう!」


フローラは焦った。意識を失いかけている手負いの元騎士と、逃げようとする聖職者。誰か、助けを――そう思った、その時だった。


パンパカパーン!!!


突如として、沈鬱な空き家に不釣り合いな、あまりに陽気で賑やかな音が鳴り響いた。


「……な、なんだこの音」


フローラはエヴァンズを庇うように膝立ちになり、音のした扉へと視線を射抜く。

すぐに、逃げようとした聖職者の「放せ! 離してくれ!」という無様な悲鳴が夜の闇に吸い込まれ、代わって数十のランプの光が、煤けた室内に躍り込んだ。


現れた影。それは燕尾服姿の老齢な執事、ハンスだった。


「……執事、長?」


フローラの呆然とした声が漏れる。執事長ハンスは、手に持った陽気な音の鳴る魔道具を傍らの従者に預けると、煤と返り血でボロボロになった二人を見て、その目を驚いた様に見開いた。


「これは……メイさん、それにエヴァンズ殿。一体、何故このような場所に?」


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