第五十三話:銀の軌跡
地下の崩落は加速していた。
頭上の暗闇からは絶え間なく土砂が降り注ぎ、地下を支える石柱が限界を告げるような悲鳴を上げている。背後では、すべての元凶である聖職者が鼻を鳴らし、赤子のようにガタガタと震えていた。
――こいつを守る意味なんて、あるのか?
一瞬、フローラの心に黒い感情がよぎる。こいつを見捨てれば、今すぐにでもエヴァンズの助けに入れる。男が浄化の力さえ出せれば戦力になっただろうが、そもそも今回の惨劇を招いた理由が「浄化の練習」という身勝手なものであり、ましてや腰を抜かした今の現状では期待するだけ無駄だ。
だが、すぐに気持ちを切り替える。この惨劇の根源たる男を死なせてはならない。生きて連れ帰り、その口からすべての真実を引き出さねば、主への、そしてヴォルフラム家に仕えるものとしての義務を果たしたことにはならないのだ。
――フローラは唇を噛み締め、怒りの舌打ちを一つした。
フローラは、その情けない存在を、フローラはキメラの死角へと蹴り転がした。
「そこにいろ。一歩でも動いたら、死ぬと思え!」
怒号を飛ばし、フローラは移動した。
視線の先では、エヴァンズが死線に立っている。彼の左腕は力なく垂れ、右手の剣一本でキメラの猛攻を凌いでいた。キメラは知性と残虐性を増し、あざ笑うようにエヴァンズの死角を突こうとしている。
――クソッ、あたしの拳じゃあそこまで届かねえ!
近づこうと足を踏み出すたび、キメラの首が礫を吐き出し、フローラを釘付けにする。至近距離での打撃に特化したナックルダスターでは、空を舞う巨獣にはあまりにリーチが足りない。
焦燥の中、フローラはエヴァンズが以前勧めた「投擲」を思い出し、足元の石塊を掴んで投げつけた。だが、渾身の力を込めた投擲も、巨獣の分厚い毛皮に当たって虚しく弾け飛ぶ。キメラの肝心の鼠の部分はそれを一瞥もしない。
「こっちを向けよ、化け物……!」
――当たんねえ……! リーチが絶望的に足りない!
投げ、避け、また投げる。だが、拳と同じ「打撃」の投擲では、巨大化した吸血鬼を止めるにはあまりに質量が足りなかった。
――何か、何かないのか……!
それでも、フローラは諦めない。一欠片でも、何かを。
その時だった。
カキン!投擲された瓦礫の一つが、鴉が吐き出した石礫に弾き飛ばされ、壁に当たった。無心だったため、何を投げたのかすら覚えていない。だが、その一瞬、フローラの脳裏に電光が走った。
――あの鴉、今、何を弾き飛ばした?
弾かれたのは、ただの瓦礫ではなかった。それは、朽ちた足輪の一部、壊れた拘束具の欠片。微かに銀の輝きを宿した、あの鎖の一部だ。
『聖なるの鎖で繋がれていたはずだろう!?』
聖職者の喚き声が脳裏に蘇る。拘束が外れ、ちぎれた時点で使えなくなったのだと思い込んでいた。錆びたのだと。だが、もし、錆びていたとしても、その中に「聖性」がまだ僅かでも残っているとしたら。いや、そうでなくとも――この知性を持ち始めた怪物が、かつて自分を縛っていたものを本能的に「忌むべきもの」と認識しているのだとしたら!
視界の端。瓦礫に埋まり始めている、引きちぎられた「聖なる鎖」。
「――一か八かだ、このクソキメラ!」
フローラは降り注ぐ礫を掻いくぐり、床を滑るようにしてその鎖を掴み取った。ずっしりと重い。だが、今の彼女にはこれしかない。
渾身の力を込め、鎖の端を掴んで大きく旋回させる。遠心力を乗せ、獲物を仕留める投げ縄のように、異形へと投げ付けた。
「死ねッ!!」
キメラの口から放たれた石礫が、飛来する鎖を捉えた。だが、簡単に弾き飛ばされる石とは違い、鎖はしなり、軌道を歪めながらもその勢いを殺さない。
銀の鎖が、蛇のようにキメラの巨大な翼へと巻き付いた。
「ギィィイアアアアアアアアッ!!!」
地下が揺れるほどの、悍ましい咆哮が炸裂した。
キメラの巨体が、のたうち回る。銀の鎖が触れた翼の付け根から、まるで毒に焼かれるように黒煙が立ち上り、皮膚がジュウ、と音を立てて焦げた。
「効いた……!?」
それはとうに力を失った残骸のはずだった。だが、吸血鬼となり、更に高い知性を得たがゆえに、「自分を傷つけるもの」という知性についてきた慣れない恐怖が身体を支配したのだ。キメラの「思い込み」が、拒絶反応を引き起こしていた。
隙が生まれた。エヴァンズを仕留めようとしていた死神のようなキメラの爪が、苦痛によって大きく流れる。
「――先生ッ!!」
フローラの叫びが、地下の闇を切り裂いた。




