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第四十五話:淀みの底に潜む影


市場の喧騒は、陽が傾くにつれてその熱を帯びたまま、どこか粘りつくような湿り気を帯び始めていた。

人々の話し声、荷車の軋む音、家畜の鳴き声。それらが混ざり合い、逃げ場のない熱気となって停滞している。


「……駄目ですね。収穫なし、です」


フローラは市場の隅で、吐き出すように溜め息をついた。

二人はエヴァンズの提案通り、市場の屋台をしらみつぶしに回った。果物売り、荷運びの男、井戸端会議に興じる主婦たち――。だが、返ってくるのは「最近物騒だよね」「騎士様たちが早く帰ってきてくれれば、こんな不安も消えるのに」といった愚痴ばかりだ。


つながりそうな具体的で不穏な噂は、驚くほど表には出てこなかった。


フローラはがっくりと肩を落とし、額の汗を拭った。自分の力不足だろうか。セリーヌ様に胸を張って報告できる成果が何一つ得られていない。焦りがじりじりと胸を焼く。


「メイさん、少し落ち着きましょう。そんなに眉間に皺を寄せていては、周囲に警戒されるだけですよ」


傍らで涼しい顔をしているエヴァンズに、フローラは苛立ち混じりの視線を向けた。


「……落ち着いていられませんよ。まだ何も掴めていないんです」


「これだけ情報が回っていないことは、むしろ良いことですよ。大規模な反乱の兆しがあまりない、ということですから」


「し、しかし……! そっそれでは……。次、あそこの広場の水汲み場に行ってみましょう。あそこなら……!」


フローラがくるりと踵を返し、再び人混みに飛び込もうとした、その時だった。


「――おっと。少し、待ちなさい」


ぐい、と。

強い力でエヴァンズがフローラの肩を引き寄せた。


「ちょっと! なんですか、急に引っ張らないでください! まだ時間は……」


「しっ」


再開しようと踏み出したフローラの肩を、エヴァンズの手がガシリと掴んで離さない。

その声は、先程までの柔和な響きを脱ぎ捨て、底冷えのするような鋭さを帯びていた。エヴァンズはフローラの抗議を無視し、彼女の体を自分の影に隠すようにして、ある一点をじっと見据えている。


その瞳は、まるで獲物を追い詰めた猛禽のように細められていた。


「……? 何を……」


フローラが不審に思い、彼の視線を追おうとした瞬間。エヴァンズが、満足げに口角をわずかに上げた。


「……いい感じに、丁度、獲物が引っかかってくれたようです」


「はあっ? 引っかかったって、何がですか」


フローラが困惑して問い返すが、エヴァンズは答えない。ただ静かに、顎で一方向を示した。

そこには、市場の華やかな通りから外れ、足早に細い路地へと消えていく一人の男の背中があった。


身なりの良い、聖職者然とした白い法衣。だが、その歩調はあまりに落ち着きがなく、時折周囲を過剰に警戒するように振り返る仕草は、とても神に仕える者のそれとは思えない。


「……あの男、見覚えはありますか?」


「いえ、あんな立派な格好の人は……あ」


フローラの脳裏に、以前アンナと買い出しに来た時の記憶がフラッシュバックした。広場の隅で、熱心に「救い」を説いていた説教者だ。


「あの方、見たことがあります。広場で『騎士団の帰還こそが唯一の希望だ』って叫んでた方です。……あんな徳の高そうな方が、不穏な噂を主導しているとは思えませんが」


そう――あの時襲ってきた平民たちは、騎士団の帰還に否定的だったはずだ。説教者の男が説いていた内容とは、むしろ正反対である。


「そうなのですか。しかし、聖職者がもしも裏で何かを握っているのだとしたら、それは大変なことですよ。それにメイさん。今は、どんな小さな情報も大切なのでしょう?」


フローラは言葉に詰まる。

エヴァンズは、まるですべてを見透かしたように、楽しげに目を細めた。


「後をつけましょう。もしかしたら本命に辿り着けるかもしれません」


「……っ、そもそも何に引っ掛かったとか教えてくれても…!…まあ、わかりました」


――やっぱりこいつが何考えてるのか、私にはさっぱりわかんねえ


仲良くなりたい、警戒を解いてくれと言いながら、肝心な説明を省く。この男の「不親切」は意図的なのか、それとも性格なのか。


フローラは内心で毒づきながらも、踏み出したエヴァンズのあとに続いた。


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