第三十話:メイド長の孤独と祝宴の予感
「メイ、少しよろしいですか」
背後からかけられた、一切の湿り気を含まない硬質な声。フローラはバケツの中で雑巾を絞る手を止め、一拍置いてからゆっくりと振り返った。
「はい、メイド長。何か不手際でもございましたでしょうか」
薄暗い廊下に立つマリアは、感情の読めない瞳で淡々と事実を突きつけた。
「貴女、備品の毛布を勝手に持ち出しましたね。それも数枚」
ギクリ、と心臓が鳴る。塔への物資搬入は細心の注意を払っていたつもりだったが、この女の目を盗むのは容易ではないと思い知らされる。
「……少々、必要になりまして。予備は十分にありましたので、事後報告で構わないと判断いたしました」
「数なら、ええ、問題ありません」
マリアは一度言葉を切ると、眼をさらに細めた。
「ですが……代わりに洗濯場へ放り込まれた『あれ』は何ですか? 私のところまで、悲鳴の混じった報告が届きましたよ」
言い逃れはできなかった。少女が窓から落とした毛布は、塔の裏側で放置されたことで雨風に晒され、泥がこびりつき、凄まじい代物に変貌していた。それを下洗いもせずに放り込めば、洗濯担当のメイドたちが震え上がるのも無理はない。あまりの汚さに自分ですすぐのが億劫になり、「このまま出してもバレないのでは」と魔が差したのだ。
「泥がカピカピになった汚れ物。まえ貴女らしくもない短慮ですね。事前の下洗いもなしに合流させるなど、隠し通せるとでも思ったのですか?」
マリアの溜息は、怒りというよりは呆れに近かった。フローラは素直に頭を下げた。
「以後、気をつけます。……それで、洗濯場の方々には?」
「古い備品の整理中に出た汚れ物だと説明しておきました。……次からは、私の目が届く範囲で処理なさい」
「……配慮に感謝いたします。」
フローラが冷や汗を拭って引き下がろうとしたその時、マリアが言葉を重ねた。
「それと、もうじきご当主ヴィクトール様が遠征からお戻りになられます」
不意に投げられた名に、フローラの意識が研ぎ澄まされる。ヴォルフラム家の主、ヴィクトール。
「帰還の祝宴を催すことになっています。屋敷全体が多忙を極めるでしょう。貴女も持ち場以外の仕事を手伝いなさい。貴女なら、要領は分かっているはずです」
「かしこまりました。万全を期します」
かつては遠征からの帰還は、「凱旋」として領地総出でお祭り騒ぎが行われていたこともあったが、今では事情が異なる。帰還兵が吸血鬼ではないかと疑う者たちによる襲撃事件が多発したためだ。現在は神殿での厳格な検査を経て静かに帰還する形をとっているのだ。そしてその分、内々で行われる祝宴は、騎士たちの士気を高めるために以前にも増して盛大に行われる。
「ええ。……祝宴ともなれば、それなりの余剰が出るものです」
マリアは表情を変えず、淡々とした口調のまま続けた。
「余り物は例の通りメイドたちに分配されます。……貴女が個人的に『持っていける分』も、普段より増えるでしょう。せいぜい、無駄にしないことです」
フローラは思わず目を見開いた。
「持っていける分が増える」――それは暗に、その日は、塔の少女へ運べる食糧が、より豪華に、より豊富になることを示唆していた。
「……配慮に感謝いたします、メイド長」
「私は事実をただ述べているだけです。引き留めて悪かったですね。仕事に戻りなさい」
踵を返そうとするマリアの背に、フローラはエマからの伝言を思い出し、声をかけた。
「すみません、一点。エマ先輩からの伝言です。客室のベランダの装飾の隙間に鳥の巣ができている可能性があると。放置すれば衛生に関わりますので、対処をお願いしますとのことでした」
マリアは事務的に頷いた。だが、ふと窓の外へ向けた視線を戻すと、静かに問いを重ねた。
「報告の手順は彼女も知っているはずです。どうしてエマは直接、私のところへ来ないのですか?」
フローラは一瞬、言葉を濁そうとした。だが、今のエマの「空っぽになった心」が抱いている感情を隠すことに、何の意味もない。
「……正直に申し上げても?」
「構いません。事実を述べなさい」
「エマ先輩は……今の貴女が、ひどく『怖い』のだそうです」
その言葉が出た瞬間、廊下の空気がわずかに震えた。
「……怖い?」
マリアの眉が、ほんの数ミリだけ動く。
「はい。威圧感があって、近寄りがたいと。自分のような者が直接話しかけるのは気後れすると言って、私に代理を頼んできたのです」
かつてのエマは、マリアに厳しく叱られながらも、その背を必死に追っていた。厳しさの裏にある慈愛を知っていたからだ。そして「秘密」を知ってしまった時、マリアによって命を助けられたからだ。しかし、薬によって「共有した時間」を奪われた今の彼女にとって、マリアはただの冷徹な上司――得体の知れない恐怖の対象に過ぎない。
マリアは少しだけ目を見開いた。驚きというよりは、予期していた痛みが想像以上に鋭かった、というような表情だった。
「……そうですか」
絞り出すような呟き。マリアは視線を自らの足元に落とした。
「……いえ、それで正解なのですね。彼女にはもう、私に親しみを覚える理由はありませんから。このほうが、彼女にとっては安全です」
その声はいつも通り冷静だった。しかし、伏せられた長い睫毛の影に隠れた瞳は、夕暮れ時の湖面のように静かで、救いようのない寂しさを湛えていた。あの時は気づかなかったが、もしかしたら、「秘密」を抱えていた頃のエマと一番深く関わっていたのは、メイド長なのかもしれない。




