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第二十一話:沈黙と輝き


フローラはバケツの水を床にぶちまけ、使い古しの布を四つ折りにした。

ならず者時代でも、潜伏先の廃屋を掃除することなど一度もなかった。だが、セリーヌの専属メイドを務めた数年間と現在の配属先で、彼女の体には清掃の手順が叩き込まれている。


「こんな床の雑巾がけなんて、メイドになりたての頃以来だな……」


四つん這いになり、力任せに床を擦る。

数十年分の頑固な汚れは、水を含んだ布の下でじりじりと剥がれ落ちていった。それにしても汚れが取れやすくて有難いものである。そして埃の下から現れたのは、予想外に美しい石の床だ。窓から差し込む朝の光を反射し、磨けば磨くほど、まるで夜の湖面のような深みのある黒い輝きを取り戻していく。


――これ、塔に使われるには勿体ねえ石だな。まあ、貴族の隠れがとしては良いのかもしれねえが…。しかし、グレンデルって奴は、嫌がらせで建てたかもしれねえ割には金だけはかけてやがる。温度管理が行き届いてるのもこの石のおかげだったりしてな


その時、ふと手が止まった。

ある一角で、汚れを落としていた時、石の模様とは違う「何か」が刻まれているのを見つけたのだ。


フローラは確認する為にもう少し力強く擦り汚れを取った。


それは、爪でカリカリとしたような鋭利なもので刻んだ跡が浅く刻まれていた。


『おかあさん…』


それは日記のようでもあり、祈りのようでもあった。あまりに不格好で、かろうじてそれだけ読める。うろ覚えで書いたらしく若干間違っている。その『おかあさん』の文字の後にも短く何か書いてあるが、もしかしたら母親の実名かもしれない。しかしとても読めるものではない。今外で喚いている少女が書いたものだろう。フローラは胸の奥がチリりと焼けるような感覚を覚えた。随分と口の達者で小生意気な少女だが、こんなところにいるのだから少女が書ける文字は恐らく殆どないはずだ。フローラはその浅く書かれた文字が見えなくならないように、そこだけはより丁寧に掃除をした。


――文字を教える為にも、まずは環境を整えてやらねえと



ーーーーー


部屋の隅々まで磨き上げ、窓枠の汚れも落とし切ったフローラは、大きく肩を回して少女を入れるために、入り口の扉を開けた。いや、開けようとした。重い。フローラは力を込めて開ける。扉のドアノブには少女は必死にぶら下がっていた。フローラは怪訝な顔をする。


「お嬢さん、何してるんだ…?」


「…」


少女はそれには答えず、相変わらず必死にドアノブにぶら下がっている。しかし、足をばたつかせているところからして、どうやらジャンプをしてドアノブに手が届いたはいいが、地面から足が離れてしまった為、怖くておりられないらしい。フローラは呆れつつも少女の脇を掴んで地面に下ろしてあげた。少女はメイに「べ、べつにおじょうさん独りでも降りれたもん!」と強がるように言ってから、おそるおそる、部屋の中を歩き出した。

そして、一歩踏み出してみたところで、その場で石のように固まった。


窓から差し込む光が、鏡のように磨かれた床に反射し、天井にゆらゆらと光の紋様を描いている。埃っぽかった空気は澄み渡り、どこか高潔なものに感じられた。


「……きれい」


ぽつりと漏らされた呟き。少女は自分の姿が床に明瞭に映っていることに気づき、しばらくの間、無言でその光景を眺めていた。フローラは汗を拭いながら、さっさと運搬機に載せ、バケツを片付ける。


不意に、少女が自分の背丈よりも遥かに長く、床にまで引きずっていたベタベタの黒い髪の脂と埃を吸って束になっていた毛先をじっと見つめ、それから意を決したようにフローラを仰ぎ見る。


「……メイ。私のこれ、切れる?」


「あ?」


唐突な申し出に、フローラは眉を上げた。


「なんだ。お前、ようやくその頭を洗う気になったのか?」


「違うもん! 洗わないよ、絶対に! ……ただ、その、床につかないようにするだけ。おじょうさん、ちゃんと毎日拭いてるし洗わなくても大丈夫だし!」


頬を赤らめ、精一杯の強がりを口にする少女。フローラは「ふん、殊勝なこった」と鼻で笑いながらも、内心では彼女の小さな変化を肯定していた。


――まあ、洗わなきゃ、切ったところでまたすぐに汚れるんだがな……。それでもまずは一歩前進か。


「そこへ座れ」


フローラは運搬機に運ばせていた荷物の中から、忍ばせていた裁縫用のハサミを取り出した。


シャキ、シャキ、という金属音が静かな部屋に響く。フローラは手際よく、床に引きずっていた毛先だけを切り落としていく。少女の髪は絡まっていた。


「……前髪も切ってやろうか? 目にかかって邪魔だろ」


フローラがついでに顔を覗き込みながら問いかけると、少女は即座に「ヤダ!」と首を振り、顔を隠すように前髪をぎゅっとおさえた。


「そうかよ。まあ、無理強いはしねえ」


フローラはあっさりと引き下がった。この少女にとって、この長い前髪は大切なものなのかもしれないと思ったのだ。


「よし、終わりだ。立てよ」


「……あ、すごい。ちょっとなのに、なんか軽くなった!」


――そりゃあ埃がついて絡まってたから当然だな


少女が嬉しそうにくるくると回るその無邪気な姿を見届けつつ、少女に言い聞かせる。


「これが本来のこの部屋の姿だ。いいか、これからは、毎日自分でここを掃除しろよ。勿論、厳しそうなときは、遠慮せずに言ってくれりゃあ、私がやってやるから。こまめな意識が大事。いいな?」


少女はフローラを見上げ、それからまた床を見た。

彼女はそっと、まだ少し湿り気を帯びた石の上に座り込み、自分の影を指でなぞった。


「メイ……。これ、おじょうさんがやったことにしても、いい?」


「はあ?」


「お母さんに、『私、お掃除がんばったよ』って言いたいの。そしたら、お母さん、びっくりして、いっぱいほめてくれるかもしれないから……」


少女の瞳には、打算ではなく、切実な希望が宿っていた。

フローラは一瞬、きつい言葉を返そうとしたが、結局は小さく鼻を鳴らすにとどめた。


「……勝手にしろよ。だが、明日から埃が溜まってたら、すぐに嘘だってバレるからな。なおさら、サボるんじゃねえぞ」


「うん! わたし、がんばる! ほうき、新しいの貸して!」


少女はフローラのほうきをひったくるように受け取り、まだ汚れひとつない床を、嬉しそうに、そして今度は丁寧に掃き始めた。


フローラはその間に持ってきた木製の膝丈ほどの台を、部屋の中央に置いた。フローラは少女に更に声をかける。


「お前がちゃんと、階段に近づいたりせず、大人しく?待ってたご褒美だ」


「ごほうび……?」


台の上に置かれたのは、いつものパンだけではない。

屋敷の厨房で余っていた、少し萎びてはいるが瑞々しいリンゴと、小さな瓶に入った山羊のミルク。


「わあ……っ!」


少女の宝石のような瞳が、これまでにないほど強く輝いた。彼女は吸い寄せられるように台へ歩み寄り、震える指先で真っ赤なリンゴに触れた。少女は鼻を近づけてふんふんと匂いを嗅いだ。


「なに、これ……。食べもの? ……不思議なにおいする……!」


「リンゴだ。皮ごと食えるが、歯が折れないように気をつけろよ。…いや、パッと剥いてやる。お嬢さんが芯のところ誤飲するとダメだしな」


フローラはそう言い、手を洗ってから、リンゴの芯の部分だけ取り除いてカットしてあげた。少女はぺろぺろと舐めてみてから嬉しそうに食べ始めた。



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