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第十八話:領主の息子

屋敷に戻ったフローラの体は、非情なほどに悲鳴を上げていた。


石床での雑魚寝の代償は、全身の節々に走る鈍痛。ほうきを動かすたびに背筋にピキリと鋭い痛みが走り、彼女は思わず、奈落の底から漏れ出すような深い溜め息をついた。


――ったく、散々だな。夜通し重機を引っ張り回した挙げ句、変態呼ばわりだ。入浴介助なんて、いつになることやらだし……。


薄暗い廊下の隅で、フローラはほうきを杖代わりに、遠い目で黄昏れていた。その時である。


「……メイ? どうしたの、そんなに暗い顔をして」


不意に届いた声。フローラは反射的に背筋を伸ばした。


視線の先には、ヴォルフラム家の嫡男、アルバがいた。柔らかな金髪を揺らし、小さな首を傾げて彼女を見上げている。


「っ……、失礼いたしました、アルバ様! 掃除に集中しておりまして、お姿に気づかず……」


――い、いっっっっっっでぇ……!


慌てて深々とお辞儀をした瞬間、首の付け根に「グギッ」という不吉な音とともに激痛が走った。目を剥きそうな衝撃だったが、フローラは無理やり押し殺すことがギリギリできた。

「それで、どうしたの? 溜め息なんてついて」


「……いえ。お恥ずかしながら、大したことではないのです。本日、少々『寝違え』てしまいまして。それで身体が動かしにくいのです」


――そもそも寝た場所が悪かったんだが


「ねちがえ?」


アルバは不思議そうに目を丸くした。まだ幼い彼にとって、首が物理的に曲がらなくなるという大人の受難は、未知の領域なのだろう。


「それは、いたいの?」


「まあ、丸一日きちんと休めば問題ありません。お気になさらないでください」


「…そうなんだ?でもよかった! じゃあちゃんと休んでね。お母様も、メイが具合悪いと心配しちゃうよ」


花が咲くような無邪気な笑み。フローラは思わず毒気を抜かれたが、ふと、疑問に思う。こんな場所に、嫡男であるアルバ様が一人でいるのは不自然だ。


「ところでアルバ様、失礼ながらこのような場所で何をなさっていたのかお聞きしてもよろしいでしょうか? この先には使用人達のスペースしかないはずですが……」


「えっ…!今は……えっと、そう!『かくれんぼ』中なんだ!」


アルバは分かりやすく視線を泳がせ、慌てたように答えた。


「……左様でございますか。そういえば、今の時間はエヴァンズ先生による、歴史の講義の時間ではありませんでしたでしょうか?」


「えっ……!」


これ以上ないほど見事な硬直。アルバは顔を真っ赤にして、精一杯の強がりを絞り出した。


「ち、ちがうもん! お勉強の時間は、もう……えっと、はやく終わったっていうか、お休みっていうか……!」


――なるほどな。坊ちゃん、エヴァンズ先生から逃げ隠れてるわけか


溜め息が出そうになるのを飲み込み、フローラは口元に微かな笑みを浮かべた。


「……成る程。では、私はアルバ様をお見かけしておりません。今日はずっと、掃除に必死に向き合っていたことにいたしましょう」


「……! メイ、ありがとう!」


アルバの顔がぱあっと輝く。しかし、フローラは静かに、釘を刺すように問いかけた。もしこれが家庭教師が不当に厳しかったり、何か不穏な真似をしているのが理由ならば放置はできない。


「……これはただのメイドの個人的な質問なので答えたくなければ答えなくても構いません。アルバ様は、エヴァンズ先生がお嫌なのでしょうか?エヴァンズ先生は酷い教え方をなさる方なのですか?」


――メイド長や執事長も目を光らせてるから、変な教育者が入り込むとは思えねぇが、念の為に確認しとくべきだよな


アルバはそれを聞いて、エヴァンズ先生が悪く思われると思い否定しなければと思ったのか、少し躊躇い、小さな指先をいじりながら答えた。


「……嫌いじゃないよ。でもね、難しいし、課題がとっても多いの」


「課題、ですか」


「うん……まだ、先週出されたやつが全部終わってないの。だから、終わらせないと、先生に合わせる顔がないなって……」


「……?」


フローラの思考が一時停止した。


嫌いだから逃げたのではない。宿題が終わっていない申し訳なさから、先生の前に出られずに隠れているのだ。


――なんだそりゃ。


フローラはそれを真剣に考えている様子に思わず吹き出しそうになった。それを見たアルバは、馬鹿にされたと思ったのか、ムッとして顔を赤くする。


「本当に難しいんだよ!」


「……失礼いたしました。しかし、微笑ましい理由で安心致しました。アルバ様、どうか許してくださいませんか?」


アルバは悩んだようにしてから、何か思いついたような顔をする。


「うーん、じゃあ、メイも宿題手伝ってよ!そしたら許してあげる」


「…私がですか?」


「うん、メイ、お母様についてたし、分かることあるかもだし…?」


「確かに私は、専属メイドの際に主人の傍に仕える身として、相応の教養は叩き込まれております。……ですが、私がお教えできるのは、あくまでグレンデル領周辺の情勢や、ヴォルフラム家と交流のある諸家の食文化、宗教、歴史といった程度ですよ?」


――――夜会で恥をかかせないための知識。それがどこまで学問として通用するかは怪しいんだが。


実際、フローラはセリーヌの盾となり、恥をかいたときの身代わりとして失礼のないよう、最低限の教育を受けている。それがどこまで通用するかは知らないが。


「いいの!じゃあ 宿題持ってくる!」


「はあ、アルバ様がそう望みなされるなら」


アルバは弾かれたようにタッタッタッと走っていき、花瓶台の下から、紙の束を抱えて戻ってきた。


「……随分な量ですね」


「う、うん……でも、あともう少しだから頑張る!」


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