第十七話:ペタペタの変態さん
「――ひゃっ!? な、なな、なんでいるのっ!」
鼓膜を突き刺すような悲鳴と、容赦なく体を叩く小さな掌の衝撃。
フローラの意識は一気に引きずり戻された。
「……っ、痛ってぇな。朝っぱらからなんだよ……」
重い瞼をこじ開けると、至近距離に宝石のような瞳があった。目が合った瞬間、少女は弾かれたように後退し、部屋の隅で小さな体をさらに縮めてフローラを指差した。
「あっ、待て…」
「ま、待たない! なんでここにいるのよ! メイのへんたい! ふしんしゃ! お母さんに言いつけてやるんだからね!」
「……はあ? 誰が変態だ。言いがかりも大概にしろよ」
バキバキと音を立てる体を無理やり起こす。いくら魔法で温度管理されているとはいえ、石の床は非情なほど硬い。節々の痛みに顔を顰めるフローラに対し、少女の警戒心は最高潮に達していた。
「ほんとに? じゃあ……夜中に、メイ、私のこと少しも触ったりしてない?」
「……っ」
フローラは言葉に詰まった。昨夜、そっと少女の髪を撫でている。嘘をつくのは容易いが、今のこの真っ直ぐな瞳を前に、舌がうまく回らなかった。
「……いや。それは、その……」
「やっぱり! やっぱりメイ、へんたいなんだ! あのね、おじょうさん知ってるもん! 夜中にこっそり忍び込んでくるのは、体をペタペタ触る変態さんと、痛いことするのが大好きな変態さんだけだって! メイは痛くしないけどペタペタの変態さんだったんだ!」
「……ちげえよ! 誰がペタペタの変態さんだ! 少なくともそんな風には触ってねえ。つーか、お前、そんな知識どこで仕入れた……」
「お母さんが言ってた!」
堂々と胸を張る少女に、フローラは深く天を仰いだ。一体その母親は、この純真なガキの脳内にどんな知識を叩き込んでいるのか。
「……あのな。昨日の夜は、お前に『夕飯』を持ってきてやったんだよ。お前が泥のようにぐっすり寝てたから、ちょっと私も休むつもりが同じように寝ちまっただけだ」
「……ゆうはん?」
「ああ。夜に食べる飯のことだ。お嬢さんには、一日一回じゃ足りねえんだよ。夜もちゃんと食わなきゃ、元気に大きくはなれねえ」
「よるにも……? そんなの、はじめて聞いた。……お嬢さん、もっと大きくなれる?」
「ああ、保証してやるよ」
『大きくなる』という魔法の言葉に、少女はぱあっと顔を輝かせた。その現金な反応に毒気を抜かれ、フローラは苦笑しながら包みを取り出した。
昨夜、運搬機で運び込んだあの「ふやかしたパン」と、自分の夕食の残り、そして昼時に残した、やはりパンだ。
そして約束通り、昨日よりも少し量を増やして自分の分を一片をちぎって添えるのも忘れずに、差し出す。
「やったぁ……! メイ、約束守ったね! お嬢さん、しかたないからこれ食べてあげる!」
少女は嬉々としてパンを受け取り、小さな口いっぱいに頬張り始めた。
窓の外を窺えば、空はまだ白み始めたばかりの群青色だ。どうやらこの「お嬢さん」は、ありがたいことに相当な早起きらしい。朝ご飯の時間がいつもはやいからだろう。
――さて、今のうちにずらからねえと、仕事に穴を開けちまうし、バレちまうな。
フローラは凝って重い体をピキピキと言わせながら立ち上がった。そしてふと昨日のマリアとの会話を思い出して少女に声をかける。
「なあ。お前、風呂に入る気はねえか? お嬢さんの髪、ベタベタだったぞ。私が洗ってやろうか」
「……おふろ? ……や! あと、ベタベタじゃないもん! お嬢さんの髪はテュルンテュルンなんだもん! 毎日きちんと拭いてるし!それに、乙女にそんなこと言うメイは、『めっ!』なんだからね!」
「テュルンテュルンじゃねえだろ。それに乙女って……」
少女はそっぽを向きつつも、もぐもぐと必死にパンを咀嚼している。
「ふん。私のこと、なんでも簡単に丸め込めると思ったら大間違いなんだからね!」
「……そういう台詞は、せめて食べる手を止めてから言え」
少女は食べる手をとめるために、手を開けようと思ったのか、慌てたように口にパンを詰め込む。
「ひゃべてにゃい。おひょうひゃん、ひゃっへひゃにひょもっへないひょふ(食べてない。だってお嬢様、何も持ってないもん)」
「食べてるだろ。口に詰め込みすぎるな、喉に詰まるぞ。……おい、よく噛めって――」
「うぐっ」
「言わんこっちゃねぇ!」
案の定、パンを喉に詰まらせた少女の背をフローラが叩く。その衝撃で、少女の口から食べてたパンの欠片が無惨にも石床へと零れ落ちた。
「……」
少女が無言でフローラを見あげる。「まだ食べるよ」とその視線が語っていた。
「……これは捨てるぞ」
しかしフローラは無慈悲に埃などがついて汚れた欠片をハンカチで包んで拾い上げ、ポケットにねじ込んだ。その瞬間少女の目に、みるみるうちに涙が溜まっていく。彼女はフローラのスカートをぎゅっと掴んで叫んだ。
「ひどい!メイの意地悪! ケチ! 返して、それ私のごはんなのに!」
「……はあ。だから言っただろ。仕方ねぇなぁ。ほら、泣くのやめて、これよく噛んで食え。次はもうないからな」
泣きじゃくる少女の前に、自分の分として取っておいたパンを差し出す。少女は「う、ううっ」と鼻を鳴らしながら、不安そうにフローラの方を見る。
「…いいの?メイの分は?」
「ダメなら言わねえよ。私の分は気にすんな」
――どうせ屋敷に戻れば朝飯だ
少女はおずおずとそのパンを受け取った。
「……う、ううっ。あっ、ありがと?……メイ、ケチだけど、すこしだけ……すこしだけ、いい人……って、お嬢さんトクベツに思ってあげなくもなくもなくもないかも(もぐもぐ)」
「なんでだよ。そこは素直に『良い人』ってことでいだろうが」
涙を拭い、少女は新しいパンをリスのように少しずつ齧り始める。
「……ったく。乙女がどうとか言う前に、その食い方と涙をどうにかしろよな。お前が嫌なら、風呂はまた今度にしてやる。…髪が『お嬢さん的にはテュルンテュルン』だか何だか知らねえが、脂ギッシュで不潔…汚えのは事実だけどな」
「きたない……!? め、メイ、やっぱりもうだいきらい!おじょうさん、 お母さんに『メイが私のテュルンテュルンの髪をバカにしました』ってちくっちゃうんだからね!」
「はいはい。じゃあ、私はそろそろ行くからな」
扉を閉める間際、振り返ると、少女はまだパンを口に含んだまま、怒ったように頬を膨らませていた。
フローラは全力で階段を駆け下りた。慣れると早く降りられるようになった。降りる要領というか、滑る要領で降りることが大切だ。共に下まで降ろした運搬機の吸着音が心地よいリズムを刻む。
朝日が森の木々の隙間から差し込み、長い影を落とし始めた。
屋敷に戻れば、またメイドとしての仕事が始まる。
だが、フローラの指先には、昨夜触れたあの少女の、ベタベタ……もとい、「テュルンテュルン(自称)」の髪の感触が、かすかに、けれど確かな温もりとして残っていた。
――さて、次は何を持ってってやるかな。
フローラは、眠気と筋肉痛と凝りによる痛みを気合でねじ伏せ、メイドの朝飯の時間に間に合うように、朝の静寂を切り裂いて屋敷へと走り出した。




