第十六話:深夜の塔での休息
「――っ、はあ……重い……。ずっと引っ張ってると流石にきついな」
夜の帳に包まれた森の中で、フローラの毒づく声が小さく響いた。
転移陣を抜けるまでは、まさに地獄のロードワークだった。ローブの裾を泥で汚しながら、ある時は歯を食いしばって前方の取手を牽引し、腰が悲鳴を上げれば背後に回り込んで全身の体重を預けて後ろから押す。その繰り返しだった。
光源は夜では目立つため、森の中に入ってから点灯した。安物のため、手元しか照らさない暗いランプの円ができる。金属のタイヤが湿った土を噛む音だけが執拗にフローラの鼓動と重なっていた。こんな中、せいぜいよかったと思うのは、ここが吸血鬼が出ない事が分かっていることくらいである。邸宅の敷地内には森があり見える範囲は、ほぼ敷地内の中だが、その狭間には吸血鬼が出入りできないようにきちんと柵も存在するのだ。
ついでに勿論、平地では動かないか試してもみたが、その場所でペタペタとするだけで少しも前進しないので諦めた。
そうしてようやく塔の入り口に辿り着いた頃には、フローラの額は汗でびっしょりと濡れ、呼吸は熱を帯びていた。
「……汗かいてるから、塔の中が暑く感じるな。…まあ、すぐに冷えるか。さて、ここからが本番だな」
塔の中は相変わらず温度管理がされていて温かい。しかしそれよりもフローラは目の前に聳える、一段一段が膝の高さほどもある、垂直に近いの階段を見た。
フローラはよろよろと立ち上がると、自動運搬機の前輪を必死に持ち上げ、一段目の石段へと強引に着地させた。
トーマスから教わった手順を思い出し、次にボタンを押し込む。
――沈黙。
期待していた駆動音も、動きも感じられない。
「おい、まさかここまできてダメじゃねえだろうな、ロナルド……!」
失敗の事を考え、頭を抱えそうになったその時だった。
カッカッカッカッ……!
石を穿つような硬質な音が響き、運搬機が震えた。タイヤの吸着機構が一段上の角をがっしりと掴み、目に見えるほどの力強さで機体を「引き揚げ」始めたのだ。内部の歯車が噛み合うような「カッカッカ」という独特の音が響いている。
「……っ、マジかよ」
フローラは驚愕に目を見開いた。
平地で押すしかなかったあの機械が、この地獄のような傾斜を前にした途端、まるで水を得た魚のように生き生きと登り始めたのである。
一段登るごとに踊り場で止まりはするが、フローラが軽く前輪を次の段にのせさえすれば、機械は執念深く登っていく。
三階、四階、五階……。
重力に抗う鉄の爪が、確実に塔の頂上へと距離を詰めていく。
「いける……これなら、いけるぞ!」
自動運搬機は登りきった。喜びが全身を駆け巡った。試しに下りもやってみたが、同じく異音を立てながら、階段を降りていく。
「……最高だぜ、ロナルド。お前やっぱ天才だな」
そして感激に浸る暇もなく、フローラはカゴの中に布で包んだ「ふやかしたパン」と、自分の夕食のパンと昼時の半分のパンを詰め込んだ。スープは運搬機を持つうえで流石に持ってこれなかった。そしてテストは成功し、実戦も成功した。
彼女は静かに、少女の部屋の扉を開いた。
「…………」
部屋の中は静まり返っていた。小さく丸くなって眠っていた。
フローラはふと、胸を突かれるような思いがした。
エマは「朝の仕事」だと言っていた。つまり、この少女にとって食事は一日に一度きりが当たり前。
「……ったく、夕食を時間はかかったが、持ってきてやったのによ。まあ、もう普通のガキは寝る時間か」
ランプの光に身じろぎをしたため、フローラは慌ててランプの火を消した。少女を起こさないためだ。
視界が完全な闇に包まれる。だが、ランプの絞った光に慣れていたフローラの瞳には、月明かりを吸い込んだような少女の白い肌がぼんやりと浮かんで見えた。
フローラはそっと、大きな手で少女の頭を撫でた。
「……ん……ぅ」
少女は夢うつつに、その手のひらに擦り寄ってきた。
昼間のあの生意気な態度が嘘のような、無防備で幼い仕草。
「……なんだよ。寝てる時は、ちゃんとしたガキみたいじゃねえか。……夜中にこんな無防備な姿晒してる奴が化け物なわけねえじゃねえか」
やはり、何か理由はあるが、きっと少女は化け物ではないのだろう。不敵な笑みが、暗闇の中でふわりと解ける。
そして安堵したせいか、あるいは極限の疲労のせいか。フローラの瞼が急激に重くなった。
森を通り抜け、階段を五階分、機械を連れて往復した体は、もはや一歩も動くことを拒んでいた。
――少しだけ、休憩するだけだ
フローラは温かくも硬い塔の床に身体を預け、少女の寝息を子守唄に、吸い込まれるように自分も深い眠りへと落ちていった。




