新たな一年、新たな一歩 その4
翌日からの、リルのやる気は相当なものだった。
美味しい物、好きな物を食べられて気力充実、体力十分……そういった心境もあるのだろう。
だが、それより何より、より一層リルを駆り立てているのは、魔法を習得できるようになる――その一点に尽きた。
午前中のお勉強にも熱が入り、食後のお昼寝も中々寝付けずにいて……そしていざ、魔法勉強の時間となったのだが――。
家の外、いつも朝の訓練に使う裏庭にて、私の説明を聞いたリルは、げんなりとした顔で息を吐いた。
「めいそー……? まほーのおべんきょう、じゃないの?」
「魔法はすぐ使えるようにはならないよ。まず、使う為の準備がいるんだ」
そう説明したが、リルには納得して貰えない。
それもそのはず、私が提案したのは身体を動かすこと――筋トレみたいなものだったからだ。
「お母さん……。これ、きょうのあさもやった」
「似たような事はね。でも、実際は全然違う。あれは剣術を学ぶ為の前段階――『型』を教える為のもの。そしてこれは、魔法にも通ずる、また別のものだよ」
朝食前から始まる体力作りは、全ての基礎となるものを育てる為に行っている。
そして、朝食後には剣の基礎となるものを身体に覚えさせ、それが終われば書き取りや計算などの、勉強時間へと移る。
リルはきっと、魔法について、より専門性の高い、特別な勉強や特訓があるのだと思っていたのだろう。
勿論、そうした訓練はそのうち行うが、土台すら出来ていないリルに、それらを教えるのはまだ早過ぎるのだった。
そして、これから教えるものは、剣術にも通ずる基礎になる。
剣よりも先に教えるか迷ったし、こちらは全てに通じる基礎でもあった。
だから、剣術よりも先に教えるべきかとも思ったのだが、結局あと回しにした。
まずは物事に取り掛かるモチベーションを大事にしたいと思ったし、リルは明らかに剣を握れることに興奮していたからだ。
あまり効率ばかり重視しても意味はない。
言う事、教える事に、ある程度順番を定めた方が良いのは間違いないが、何でも言うことを聞く人形を相手にしているのではないのだ。
ムラッ気の多い子どもに対しては、尚更のことだ。
だから、これから教えるものが、どれだけ重要なのか、まずはそれを教える事にした。
「リル、魔法を使うには、どうしたらいいと思う?」
「んぅ……? えぇ〜と、なんか……んと……、えいってやる!」
首を左右に傾けて、目一杯悩んで出た言葉に、忍び笑いが漏れる。
だが、そうした答え――ふんわりとした答えになってしまうのは、むしろ当然だ。
突然、背中に腕が生えたらどうやった動かすか、と問うようなものだ。
上手く言葉に出来ないのが、むしろ自然だった。
「魔法はね、最初にマナを感じる所から始まる。これを使えないと、魔法は形にならないからだ。でも、今までは、お母さんがわざと感じさせないようにしていたんだよ。幼い身体には、毒にしかならないからね」
「そうなの?」
「魔法を使わずとも、マナはそこら中にある。薄い場所も、濃い場所も……色々とね。何処にでもあるけど、場所によって左右されるものでもある」
「んぅ……」
リルは難しそうに顔を歪めて硬直した後、こてんと首を横に傾けた。
「かわとか、みずうみ……みたいに?」
「その表現は、非常に正しい」
理解力の高さに満足し、私は大いに頷いてリルの頭を撫でた。
水分は何処にでもある。
どれほど希薄であろうとそこにあるものだし、例えば朝露程度なら、見渡せばすぐに見つかるものだ。
しかし、まとまった量となれば、そう簡単な事ではない。
飲めるほど大量となれば、朝露をどれほど集めても全く足りない。
水を飲みたいと思った時、それらを掻き集めようとしないのは当然で、普通はより簡単に手に入るところから、集めようとするだろう。
だが、もしも朝露しかないのだとすれば――。
そこから得る方法を、捻出しようとするはずだ。
そして、それらを利用する、利用できるのが魔法使いであり、それを可能にならなければならない。
それこそが、魔法を使う為の第一歩だった。
「ここの森は、特別マナが濃い。さっきリルが言ったみたいにね、マナの湖みたいなものさ。だから特別感じ易いだろうし、リルにもすぐ分かる様になるよ」
「ほんと?」
「本当だとも。今から、リルの身体を纏う膜を剥がす。……最初はびっくりするかもしれない。突然、気分が悪くなったりするかもしれない。その時は素直に言いなさい、いいね?」
「わかった!」
「アロガも、そこにいて近付かないこと。倒れたとしても、騒ぎ立てないように」
お目付け役兼護衛のアロガは、こうした時でも付かず離れずの距離で、リルを見守っている。
その場に前足を枕に顎を乗せて待機しているのだが、泣いたりすると、すぐに駆け付けて来るのが常だ。
ある時、リルが木剣の振りを誤った事があった。
自分のスネを強かに打ち、痛みで泣き始めた時さえ即座に駆け付けて来たので、まるで子煩悩な親の如しだ。
だがそれも、私がしっかり言い含めれば、顔を上げて注視するだけで済む。
リルとアロガに言い含めた終えたら、いよいよ『膜』を解除する時だ。
この森にリルを連れて来てから、一度足りとも解除する事のなかったものだ。
マナの濃度が濃ければ濃い頬、影響が大きくなる可能性が高まる。
私は細心の注意を配りながら、リルの肩に触れない距離で、慎重にその膜を解除していった。
完全に取り除くるまで、要した時間は五秒ほど。
そうして全てが終わると、リルは何も起きないと不思議そうに、顔を傾けた。
手を見つめたり、肩やお腹に目を向けるのだが、その変化を感じ取れないようだ。
「べつに、なんとも……」
そう言い掛けて、一歩こちらに近付こうとした、その時だった。
かくん、と膝が落ちて、その場に崩れそうになる。
私が咄嗟に受け止めて、アロガはその場に立ち上がった。
大丈夫、と掌を向けると、再びその場に座り込む。
私はリルを腕に抱き留めたまま、その顔色を窺った。
――特別、悪くない。発汗もなし。
更にしばらく待っても、やはり不測の症状は表れなかった。
異常事態ではない、と判断して、私は安堵の息を吐く。
瞬きすらしないリルに、顔面近くで手を振ってやると、ピクリと動いて、すぐに調子を取り戻した。
「リル、大丈夫か?」
「んぅ……、なんか……へん……」
「そうだろうな。変な気持ちがするはずだ。気分は? 吐きそうとか、目眩がするとか……」
「だいじょぶ。そういうの、ないよ」
「そうか……。自分で立てる?」
これには素直に頷いて、たどたどしさがありつつも、しっかりと自分の足で立った。
「なんか……ふわふわしてる。へん……なんか、へん……」
「それはリルが、始めてマナに触れたからだよ。さっきリルは、湖と表現したように、普通はずっとは浮いていられない。いずれ溺れてしまう」
「リル、おぼれちゃう?」
泣きそうな顔をして見つめるリルに、私は元気付けるように笑いかけた。
「大丈夫、ボートを作れば良いんだよ。ボートじゃなくてもいい。溺れない為に、自分を守る何かを用意すれば。お母さんの場合、シャボン玉だ。その中に入っていれば安全で、息ができる。そういうやつをね」
「どうやったらいいの? リル、おぼれたくない……」
「いきなりは難しい。ちょっとずつ、少しずつやれるように頑張ろう。それが出来るまでは……」
これまでずっとそうして来たように、リルに『膜』を作ってマナから遮断する。
すると、リルは安堵する息を吐いて、私の胸に飛び込んで来た。
「こわかったぁ……!」
「うん、普通とはちょっと違う方法だ。驚いたね、ごめんね」
水に慣れさせようとして、湖の真ん中に放り出したようなものだ。
広い桶でも用意して、その中で遊ばせる程度にするべきなのだろうが、残念ながらこの森でそうした訓練は望めない。
良くも悪くもマナが濃すぎるので、環境自体がそれを許してくれないのだ。
リルはこの森で生きる為、まず自分で湖を好きに移動出来るよう、その為の力を養わなければならない。
大変なのは間違いないが、これをクリア出来たら、間違いなくマナ運用について一級品になる。
それは今後、リルを助ける力になるし、誰もが羨む財産ともなるだろう。
「まぁ、ゆっくりやって行こう。これが終わらないと、魔法が使えるようにはなれないからね」
リルが胸の中で、今にも泣き出しそうな声を上げた。
しかし、こればっかりは甘やかす訳にいかない。
私はリルを抱き締めてながら立ち上がり、今日の訓練を終えて、アロガを引き連れ家の中へと帰って行った。




