新たな一年、新たな一歩 その1
今日は、一年の中でも特別な日だ。
外は寒く、冬に入って一番の冷え込みと思われたが、そんな憂鬱さ吹き飛ばす程の、活気ある一日にせねばならなかった。
――今日はリルの誕生日だ。
私にとっては惜しむべき人を亡くした日であり、そして、己の選択を振り返って、苦々しく思う日でもある。
己の教訓を刻んだ日でもあるが、己に誓ってリルを守ると、決意した日でもあった。
朝起きてみれば、ベッドには既にリルの姿はなく、窓の外で遊んでいる姿が目に入った。
当然アロガも一緒で、薄らと積もった雪の上で、飛び跳ねるように駆け回っている。
普段と変わらぬ光景とも思えるが、一つ違う点もある。
外で遊ぶリルは、明らかな期待感と、一抹の不安とが混在している様子だった。
私は昨日ベッドに入るまで、誕生日の事を口にしていない。
母にとって、歓迎するだけの日ではない、とリル自身が肌で感じているからだろう。
それが何故かまで、リルは知らないだろうが、母を悩ませる日だとはうっすら理解しているらしい。
獣人が持つ鋭い勘がそれを察し、リルの優しさがそれを口にさせないのだった。
「まさか、まだ幼い子に気遣われるとは……。母親失格だな」
リルの前で一度も口にした事はないし、そうと思わせる素振りをしなかったつもりだが、子は親が思う以上に、親をよく見ている。
きっと、そういう事なのだろう。
髪を梳かして階下に降りると、既に食事の準備は始まっていた。
いつものように調理器具が勝手に動き、既に行程の半分近くが消化されていた。
「あぁ、おはよう。今日は少し大変だぞ。一緒に頑張ろう」
そこに居るのに目に見えない、我が家の強力な家政婦は、サラサラと衣擦れの音を鳴らして返事をした。
我が家から精霊や妖精の類いが姿を消して久しいが、彼女はそうしていなくならない者の一人だ。
彼女もまた、妖精の一種には違いないが、他の妖精がその土地に根ざすのに対し、家という建物に付くという部分で違いがある。
リルもようやく、これで六歳。
一定の安全マージンを越えた事で、初めて挨拶の場を持てる。
彼女からしても、今日は大事な記念日なのだ。
もしかすると今日という日を、リルよりも楽しみにしていたかも知れず、それが朝食の準備にも表れていた。
朝はいつもと同じで良い、と伝えてあったのに、ジャムとバターのパンケーキが用意されていたりと、違いが著しい。
冬摘みベリーを乗せているし、今日という日の歓迎ぶりが、手に取る様に分かるほどだ。
「まぁ……、リルにとっても、今日は大きな転換となる日だ。その気持ちも、よく分かるけどな」
私が苦笑しながら言うと、返事の代わりにフライ返しをフライパンに叩き付けて音を鳴らす。
そうして次に、フライ返しが外を指し、同じ動作を幾度か行う。
どうやら早く呼んで来い、との思しらしい。
「はいはい、今日は素直に従っておくよ。料理長を怒らせたら、今日は一日、立ち行かないしな」
出来得るならば、窓の近くにでも立って、リルが気付くのを待っていたい。
家の中は暖気で満たされているが、一歩外に出たら、背筋を凍らす寒気が襲ってくるだろう。
だから待っていたいのだが、どうやらそれも、許されない空気だ。
私は一念発起して扉を開き、アロガに追われたり追い掛けたり、として遊ぶリルを呼ぶ。
「リぃぃルぅぅ……! 帰ってきなさーい!」
「あっ、お母さん!」
距離は遠く離れていたが、獣人の耳は人間より遥かに鋭い。
即座に気付いて踵を返すと、一目散にやって来た。
「お母さん、おはよー!」
「おはよう、リル。……いつから遊んでたんだ? ほっぺが真っ赤だぞ」
頬を包む様にして手を添えると、リルはくすぐったそうに笑った。
しかし嫌がる訳でもなく、むしろ掌の温かさを堪能するように、自分の手を添えてきた。
「ほら、早く入りなさい。まず暖炉で温まって」
リルには私からプレゼントした、手袋やマフラー、帽子を被って完全防備だったが、まだ朝も早い時間帯……当然、外気は非常に冷たい。
手編みの防寒具だけでは、到底その寒気から全てを守ってはくれなかった。
手袋を脱いだリルの指先は赤くなっていて、頬や鼻先同様、冷たくなっている。
私は暖炉の前へと誘導してから、その手を取って擦り、息を吐きかけた。
「遊ぶなとは言わないけどなぁ……。わざわざ寒い時間帯を選ばなくても良いだろうに」
「じっとしてられなかったの!」
「まぁ、そういう感じだな……」
今ですら、うずうずして仕方ない、という感じだ。
リルに続いて入って来たアロガは、自分で器用に扉を閉めて、暖炉近くに寝そべった、
前足に顎を乗せて、やれやれと言わんばかりの態度だ。
毛皮で覆われるアロガであっても、寒い外には進んで出ようとはしたがらない。
それでもリルを一人にさせないのは、流石の兄貴分と言ったところだろう。
リルに暖炉の前に立たせながら、上着や下履きを脱がせ、室内着へと着替えさせる。
そうして温かい飲み物も与え、のんびりすること十分ばかり。
料理が完成した合図が聞こえ、食卓へと移動した。
そうして、そこに並ぶ料理を見て、リルは歓声を上げる。
「わぁ……! すっごぉい!」
朝からパンケーキを用意されるのは、非常に珍しい。
それだけでなく、いつもよりも、少しずつ凝った内容の副菜が並んでいる。
冬では貴重な色とりどりの生野菜、その上に乗っかるポテトサラダ。
コーンを使ったポタージュに、薄くスライスしたハムまである。
これは街に住む庶民ならば、早々見掛けられないご馳走といって良い内容だ。
リルは顔を輝かせ、どれから手を付けようか迷う素振りをした。
しかし、その前に私が声を上げて窘める。
「リル、食べる前にまずは……?」
「ありがと、いただきます、だよね!」
分かってる、と頷いてから、リルは台所に顔を向け、大きく声を張った。
「ありがとー! いただきますっ!」
「はい、召し上がれ」
私がそう言って促すのと、台所で調理器具が音を鳴らすのは同時だった。
彼女からも返事があって、リルは嬉しそうにパンケーキにフォークを突き刺す。
ジャムがたっぷりと掛かり、溶けたバターが流れるパンケーキは、見ているだけで食欲が唆った。
リルが大きく頬張るのと同時に、私はナイフとフォークで切り分ける。
嬉しそうに咀嚼するのを見ながら、私も自分の口に一切れ運ぶ。
焼き加減も絶妙で、またバターの柔らかな塩味が嬉しかった。
文句なしの絶品と言える。
リルは口の周りをジャムでベタベタにしながら、あっという間に平らげてしまった。
名残惜しそうに見やるリルに、私の分を分けてやる。
「ほら、あ〜ん」
「いいのっ!?」
「今日はリルが主役だからな。たくさん食べて、たくさん遊びなさい。今日はお勉強なしだ」
「やった!」
差し出したフォークに齧り付き、幸せそうに頬張った。
それだけ嬉しそうにしてくれたら、分けて上げた方まで嬉しくなる。
パンケーキを焼いた彼女もまた、本望だろう。
ポテトサラダもよそってやれば、リルはスプーンで掬って食べ始める。
特別野菜嫌いという訳ではないが、ポテトサラダは別ジャンルと捉えているフシがあった。
周りを彩る生野菜とて贅沢だというのに、そちらには見向きもしない。
代わりに私がそちらを食べて、リルがポテトを、という役割分担になってしまっていた。
最後にスープを飲み干して、リルは満足げな息を吐く。
お腹をぽんぽん、と叩くと、幾らも食安めすることなく席から立ち上がった。
「また、おそといってくる!」
「別に良いけど、アロガが終わるのを、少しは待ってやりなさい」
アロガの誕生日は不明だが、リルだけ祝うのも可哀想という事と、リル自身がアロガにも何かしてあげたい、と以前言ったこともあって、アロガにとっても今日は誕生日だ。
だから、朝から豪華な骨付き肉を与えられており、今でもガッツリと齧り付くのに忙しかった。
カリカリ、ゴリゴリ、と首を捻るように骨にも食らい付いている。
「しかたないなぁ、アロガは。しかたないから、おねえちゃんは、ちょっとまっててあげる」
アロガは骨を齧りつつ、何を言っているんだ、と言わんばかりの表情だが、それでも抗議めいた何かは示さなかった。
リルがアロガの前で、お姉さん振るのは今更だ。
しかし、母として、注意すべきはしておかなければならなかった。
「食べてすぐ動くの止めなさい。お茶でも飲んで、少し休まないと……」
「だんろのまえで、のんでもいい?」
「あぁ、それぐらいなら」
私は私で、この後の準備があるから、リルに構っていられない。
普段なら家の中で大人しくしていて欲しいが、昼からの本格的なパーティを考えると、少し離れていて欲しいという思いもあった。
「少し休んだら、好きに遊びに出ていいから。でも……」
「わかってる。もりにはいかない、でしょ?」
「そう。今日は年で一番、最高の一日にするんだ」
「うんっ!」
リルは笑って席を離れる。
暖炉傍の椅子に座ろうとするのを、片付けの準備をしながら見送った。




