母の回顧 その8
ニコレーナの決意は固く、そして揺るぎないものだった。
ともすれば、自棄になっていたようにも見えたが、体調は目覚ましく快復していった。
スープを無理にでも飲むようになったし、仮に戻す事があっても、再びスープを口にした程だ。
悪阻が最も辛いのは妊娠十週目くらいで、大体十二から十四週ほどまで続く。
実際に彼女の体調も、その程度には治まる様になっていた。
体調が快復してからは、固形物もしっかり食べるようになったし、少し歩く程度の運動も始めた。
寝てばかりは逆に不健康、という話をしたからだが、私の助言は積極的に受けて、実現しようとする。
そこからも、本気で出産する気概が伺えた。
そうした熱意に絆された訳ではなかったが、私もより積極的に介入するようになり、いつしか名前も愛称で呼ぶようになる。
彼女もまた、そう呼ばれるのを喜んでいた。
「あまり無理すなよ、ニコ……」
彼女は一度として弱音を吐かなかった。
少しずつ膨らんでいくお腹を撫でては、愛おしげな視線を送るだけだ。
不安そうな雰囲気はあるものの、それは健康な妊婦であっても当然の発露なので、弱気になっている訳ではない。
私が大丈夫だと言い聞かせるまでもなく、産みたいという熱意だけは、どこまでも頑強だった。
宿も結局、変える事なく最初のままだ。
時期を見て……折を見て、騒がしい宿場町ではなく、もっと良い環境へ移ろうとしたのだが、ニコの身体は長旅に耐えられない。
体調を優先した結果、逗留するままとなった。
隊商が多く立ち寄るだけあって、人の往来は激しく、何かと騒がしい場所だが、ニコは気に入っていた。
「だって、活気があるでしょう? その元気を、分けて貰える気がするの」
そう言って、ニコは笑った。
最近のニコは、よく笑う。
時に無理やり笑っているのではないか、と思うほど、よく笑っていた。
不安を吹き飛ばす為でも、あるかもしれない。
空元気だとしても、それがニコの気持ちを支えているならば……。
そう思って、私もニコに合わせて笑うようにしていた。
腹の膨らみが目立ち、最早ただ歩くことさえ大変な頃になると、ニコは更に笑うようになる。
「この子ったら、本当に元気……。ほら、またお腹叩いた」
時に触らせて貰ったお腹には、確かに内部から反発するような衝撃があった。
「きっと外の活気が、この子にも伝わっているのよ。私に似なくて良かった……」
それは二重の意味で、言っているのだと思った。
内気な自分、病弱な自分――。
特に病弱な部分は、遺伝する可能性も大きい。
ただ健康に育って欲しい――それがニコの願いだったから、その点については大丈夫そうだ。
「もうすぐ産まれる……。もうすぐ会えるのね……」
安定期に入り、ニコ自身も体調的、精神的に持ち直すことが多くなった。
私が魔術によるサポートをしているからだが、これがまた悩ましい。
何しろマナは、万物に宿る。
宿るとされている。だが、人の身には時に有害となるのが、このマナというものだ。
特に幼い子供には顕著で、強いマナを晒すだけで、心身に悪影響を与えるから、胎児ともなれば輪にかけた慎重さが必要だった。
とある地方では、魔女は子どもを喰らう、と言う。
そんな悪評があるのは、マナの強い地方で影響を勝手に受けて、子どもがバタバタと倒れたりしたからだ。
ニコの体調を気遣って魔術を使いたくとも、それでお腹の子に悪影響を与えては、本末転倒だった。
だからごく少量、ごく短時間に限り、魔術でのサポートに留めていた。
そしてどうやら、それは功を成していた、と見て良いだろう。
――そして、ある冷える日。
この冬初めて、雪が降った日の事だった。
ニコが激しい痛みを訴えて、苦しそうに身体をくの字に折り曲げた。
その日までの経過から、出産が近い、とは予想していたから、とうとうその日がやって来たのだと分かった。
だが、雪のせいで外は混乱の只中にあった。
例年に比べて早い雪で、しかも初雪とは思えぬ降雪量だった。
道行く道全て、馬車で埋め尽くされ、重大な渋滞が起きていた。
「産婆は! 産婆はいつ来るんだ!?」
「この渋滞です。呼んでも、すぐには来られません!」
私は怒鳴る様に問い質してしまい、直後自省した。
下働きの女中に当たっても仕方ない。それは分かっている。
産婆は良い年だから、自ら歩いて来られないし、無理して歩くには遠い距離に住んでいた。
「あの産婆じゃなくてもいい。他に赤子を取り上げられる……、もしくはその経験のあるものは……!?」
「……思い当たりません。オーナーにも訊いてみますが、望みは薄いと思います。この辺で取り上げているのは、いつもあの産婆さんなんです」
舌打ち一つして、ニコの傍へと戻る。
赤く顔を紅潮させて息も絶え絶え、汗が顔を濡らし、前髪が額に張り付いていた。
「アァァ……ッ!」
その汗を拭おうとした時、悲鳴と共に身体を仰け反らせる。
それだけならまだしも、下半身を覆うシーツが、それで大きく濡れてしまった。
――破水したのだ。
今すぐ取り上げなければ、赤子は死んでしまう。
意を決し、私はニコの手を握って、顔を近付けて言った。
「ニコ、分かるだろう? 破水した。すぐにでも出産準備をしなければ、お腹の子が危ぶまれる。……でも、この雪で産婆はやって来れないそうだ」
「わたし……わたし、どうしたら……っ」
「他にお産を手助けした事のある人とか、そういうのを探して貰うつもりだが……。そう上手く行かないと思う」
「うっ、うぅ……っ!」
「――だから、私が取り上げる。勿論、私にだって経験はない。精々、聞き齧った知識があるだけで、実践した事もない」
「……おねがい。おねがい……っ!」
ニコは痛いほど強く手を握り返しながら、強く懇願する。
目すらろくに開けていられていない状況で、発する言葉もごく僅か……。
声を発する……ただそれだけの事が、今のニコには負担なのだ。
だが、その強い思いだけは伝わっていた。
「私がやる。……それで良いんだな?」
「おね、がい……っ!」
ニコはうわ言の様に、同じ言葉を繰り返す。
一つ頷いて離れようとしたが、ニコは手を離してくれなかった。
それだけ切羽詰まっていて、余裕がないのだろう。
無理にでも振り解こうとすると、ニコは目を見開いて、射抜く視線で言ってきた。
「おねがい……! この子だけでも……! 私はどうなってもいいから……! ひと目、ひと目だけ逢えたら、それで十分だから……!」
「分かった、任せろ。必ず、お前の子に逢わせてやる」
力強く断言して、部屋の外に怒鳴るような声を放った。
「お湯を! 清潔な布も!」
そこからが大変な作業だった。
破水したなら、もう余裕はそれ程ない。
慎重さも大事だが、それ以上に大胆さも必要になる。
そして何より、ニコの頑張りが必要だった。
「ニコ、頑張れ……! 息を吸って……、吐く……。吸って、吐く……。いいぞ、いきめ!」
「ふぅぅぅぅ……!」
ニコが努力しているのは分かる。
しかし、既に彼女の体力は尽きかけていた。
元より病弱な身体で、安定期に入ってからは体力づくりに努めていたが、それでも十分とは程遠かった。
元より少ないものを埋め合わすには、到底時間が足りず、結局平均的な体力すら付いていない。
最初こそ荒々しかったニコの息は、既に風前の灯火にも似て、今にも力尽きそうだった。
私はニコの足から魔術を送り、強制的に体力を割増してやる。
「ニコ、もう少しだ! 頭が見えてる! もう少しで会えるぞ……!」
「ひっ、ひっ……、ふぅぅぅぅ。ひっ、ふぅぅ……!」
「いいぞ、ニコ。その調子だ。その調子で……!」
赤子への影響などと言っていられない。
ニコが生と死の狭間にあって、手段は選んでいられなかった。
魔術の出力を強めて、ニコの体力を無理やりにでも増強させる。
だが、これで良いのか、と使いながらも思った。
身体強化、あるいは増強……これらの術は、効果が終わった後に、必ず反動生じる。
術が切れたその時、割増した分の体力が残っていなければ、なけなしの体力を奪われる事と同義になる。
昏倒するだけならまだマシな方で、今の消耗具合ならば、最悪の事態もあり得た。
「見えてきた……! 肩が抜ける! もう少しだ! 産まれるぞ……!」
「うぅ、うぅぅぅ……っ! うぅぅぅぅ!」
力の限りいきみ、最後の力を振り絞った、その時――。
大音量の泣き声が部屋を満たした。
「あんぎゃぁ! おんぎゃぁ!」
「あぁ……」
ニコはぐったりと肩の力を抜き、荒い息をつきながら、今にも昏倒しそうなほど衰弱している。
私は赤子を産湯に漬け、ゆっくりと割れ物を扱う様に洗ってやってから、へその緒を切る。
適切に処置して真新しい清潔な布でくるむと、ベッドの側面からニコへ赤子を差し出した。
「ほら、お前の赤ちゃん……いや、みどりごだ。よく頑張った。お前は母親になったんだ」
「あぁ、わたしの、子……」
ニコは涙を流して、恭しく抱き締める。
決して圧迫しないよう、そして万が一にも落とさないよう、細心の注意を払ってその腕に抱いた。
「ひとめ……、ひと目逢えたら、満足だって思ったけど……」
「なに言ってるんだ、これからだぞ。そんな弱気でどうする。この子の為に強く生きるんだ」
「ごめん、ごめんね……。弱い、お母さんで……」
ニコは私の声など、まるで聞こえていないかのようだ。
みどりごは頭にニコとそっくりな耳を生やし、目を瞑ったまま顔を皺くちゃにして泣いている。
「ひと目見られたら満足だと思ってたけど、実際逢えたら……全然満足できなくて……。もっともっと、大きくなるのを見てみたい、って……。お母さんって、呼ばれたかった……」
「ニコ、弱気になるな……! この子はどうする、強く意志を持て!」
元気付ける言葉は空虚だと、実は私にも分かっていた。
ニコから生気が抜けて行く。
出産時はあれほど赤くしていた顔なのに、今ではすっかり真っ青になって、活力そのものを失ってしまったかのようだ。
無理に増強させた体力は、時間の経過と共に元へと戻り、そして今……それが抜け出そうとしているのだ。
「ねぇ、お願い……」
その時まで我が子に釘付けだったニコは、ここで初めて私に顔を向けた。
「このこを……、このこを……どうか……」
「待て、ニコ! 駄目だ、この子にはお前が必要なんだ! お前が! 母親が!」
「なまえ……は、リ……、ル……。おね……が」
「何だって? 聞こえない! リル……リルでいいのか? 目を開けろ! この子を置いていくな!」
弱った身体に体力増強は、逆効果にしかならない。
だから、治癒術か、あるいは何か別の魔術を使うべきなのだが、その腕に抱く赤子が今は問題だった。
もし使おうものなら、満五歳の子どもでも、昏倒しかねないマナがこの子を襲う。
それはつまり、リルを助けるか、それとも生まれたばかりのリルを助けるか、という選択に他ならなかった。
出産前、ニコが言っていた事を思い出す。
――この子だけでも、私はどうなってもいいから……。
ニコの意志を尊重するなら、どちらを選ぶかなど明らかだった。
私は魔術の使用を途中で取り止め、震える手を握り締める。
そして、その直後だった。
ニコから完全に力が抜ける。
それでも腕の中にある我が子は、その中に収まったままだ。
「うっ、う、う……っ!」
長い付き合いがある訳ではなかった。
それでも、一年に満たない付き合いは、彼女は大事な友人となっていた。
部屋の中には、私の押し殺した泣き声が漏れる。
何かを察したのか、赤子また激しく泣き出し、二つの泣き声が部屋に響いた。
※※※
ベッドの隣では、リルが安らかな寝顔を晒していた。
何か食べる夢でも見ているのか、唇をムニュムニュと動かしている。
掛け布団がズレていたので肩口まで戻し、頭を撫でては、フッと笑う。
「ニコ……、リルは元気だぞ」
健やかに、幸せな生活をこの子に与える。
それが私の務めだ。
そして、それこそが今や私の幸せとなっていた。
飽きる事なくリルの寝顔を見つめていたが、そこでふっと欠伸が漏れる。
唐突に覚めてしまった目も、過去に思いを寄せている内に、大分眠くなってきた。
空中に飛ばしていた光源を消すと、布団を被って枕に頭を落とす。
リルの幸せそうな寝顔を最後に、私も瞼を閉じて眠った。




