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混沌の魔女と獣人の子  作者: 海雀
第三章
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母の回顧 その8

 ニコレーナの決意は固く、そして揺るぎないものだった。

 ともすれば、自棄になっていたようにも見えたが、体調は目覚ましく快復していった。


 スープを無理にでも飲むようになったし、仮に戻す事があっても、再びスープを口にした程だ。


 悪阻が最も辛いのは妊娠十週目くらいで、大体十二から十四週ほどまで続く。

 実際に彼女の体調も、その程度には治まる様になっていた。


 体調が快復してからは、固形物もしっかり食べるようになったし、少し歩く程度の運動も始めた。


 寝てばかりは逆に不健康、という話をしたからだが、私の助言は積極的に受けて、実現しようとする。


 そこからも、本気で出産する気概が伺えた。


 そうした熱意に絆された訳ではなかったが、私もより積極的に介入するようになり、いつしか名前も愛称で呼ぶようになる。


 彼女もまた、そう呼ばれるのを喜んでいた。


「あまり無理すなよ、ニコ……」


 彼女は一度として弱音を吐かなかった。

 少しずつ膨らんでいくお腹を撫でては、愛おしげな視線を送るだけだ。


 不安そうな雰囲気はあるものの、それは健康な妊婦であっても当然の発露なので、弱気になっている訳ではない。


 私が大丈夫だと言い聞かせるまでもなく、産みたいという熱意だけは、どこまでも頑強だった。


 宿も結局、変える事なく最初のままだ。


 時期を見て……折を見て、騒がしい宿場町ではなく、もっと良い環境へ移ろうとしたのだが、ニコの身体は長旅に耐えられない。


 体調を優先した結果、逗留するままとなった。


 隊商が多く立ち寄るだけあって、人の往来は激しく、何かと騒がしい場所だが、ニコは気に入っていた。


「だって、活気があるでしょう? その元気を、分けて貰える気がするの」


 そう言って、ニコは笑った。

 最近のニコは、よく笑う。


 時に無理やり笑っているのではないか、と思うほど、よく笑っていた。

 不安を吹き飛ばす為でも、あるかもしれない。


 空元気だとしても、それがニコの気持ちを支えているならば……。

 そう思って、私もニコに合わせて笑うようにしていた。


 腹の膨らみが目立ち、最早ただ歩くことさえ大変な頃になると、ニコは更に笑うようになる。


「この子ったら、本当に元気……。ほら、またお腹叩いた」


 時に触らせて貰ったお腹には、確かに内部から反発するような衝撃があった。


「きっと外の活気が、この子にも伝わっているのよ。私に似なくて良かった……」


 それは二重の意味で、言っているのだと思った。

 内気な自分、病弱な自分――。


 特に病弱な部分は、遺伝する可能性も大きい。

 ただ健康に育って欲しい――それがニコの願いだったから、その点については大丈夫そうだ。


「もうすぐ産まれる……。もうすぐ会えるのね……」


 安定期に入り、ニコ自身も体調的、精神的に持ち直すことが多くなった。

 私が魔術によるサポートをしているからだが、これがまた悩ましい。


 何しろマナは、万物に宿る。

 宿るとされている。だが、人の身には時に有害となるのが、このマナというものだ。


 特に幼い子供には顕著で、強いマナを晒すだけで、心身に悪影響を与えるから、胎児ともなれば輪にかけた慎重さが必要だった。


 とある地方では、魔女は子どもを喰らう、と言う。


 そんな悪評があるのは、マナの強い地方で影響を勝手に受けて、子どもがバタバタと倒れたりしたからだ。


 ニコの体調を気遣って魔術を使いたくとも、それでお腹の子に悪影響を与えては、本末転倒だった。


 だからごく少量、ごく短時間に限り、魔術でのサポートに留めていた。

 そしてどうやら、それは功を成していた、と見て良いだろう。


 ――そして、ある冷える日。

 この冬初めて、雪が降った日の事だった。


 ニコが激しい痛みを訴えて、苦しそうに身体をくの字に折り曲げた。


 その日までの経過から、出産が近い、とは予想していたから、とうとうその日がやって来たのだと分かった。


 だが、雪のせいで外は混乱の只中にあった。


 例年に比べて早い雪で、しかも初雪とは思えぬ降雪量だった。

 道行く道全て、馬車で埋め尽くされ、重大な渋滞が起きていた。


「産婆は! 産婆はいつ来るんだ!?」


「この渋滞です。呼んでも、すぐには来られません!」


 私は怒鳴る様に問い質してしまい、直後自省した。

 下働きの女中に当たっても仕方ない。それは分かっている。


 産婆は良い年だから、自ら歩いて来られないし、無理して歩くには遠い距離に住んでいた。


「あの産婆じゃなくてもいい。他に赤子を取り上げられる……、もしくはその経験のあるものは……!?」


「……思い当たりません。オーナーにも訊いてみますが、望みは薄いと思います。この辺で取り上げているのは、いつもあの産婆さんなんです」


 舌打ち一つして、ニコの傍へと戻る。

 赤く顔を紅潮させて息も絶え絶え、汗が顔を濡らし、前髪が額に張り付いていた。


「アァァ……ッ!」


 その汗を拭おうとした時、悲鳴と共に身体を仰け反らせる。

 それだけならまだしも、下半身を覆うシーツが、それで大きく濡れてしまった。


 ――破水したのだ。

 今すぐ取り上げなければ、赤子は死んでしまう。


 意を決し、私はニコの手を握って、顔を近付けて言った。


「ニコ、分かるだろう? 破水した。すぐにでも出産準備をしなければ、お腹の子が危ぶまれる。……でも、この雪で産婆はやって来れないそうだ」


「わたし……わたし、どうしたら……っ」


「他にお産を手助けした事のある人とか、そういうのを探して貰うつもりだが……。そう上手く行かないと思う」


「うっ、うぅ……っ!」


「――だから、私が取り上げる。勿論、私にだって経験はない。精々、聞き齧った知識があるだけで、実践した事もない」


「……おねがい。おねがい……っ!」


 ニコは痛いほど強く手を握り返しながら、強く懇願する。

 目すらろくに開けていられていない状況で、発する言葉もごく僅か……。


 声を発する……ただそれだけの事が、今のニコには負担なのだ。

 だが、その強い思いだけは伝わっていた。


「私がやる。……それで良いんだな?」


「おね、がい……っ!」


 ニコはうわ言の様に、同じ言葉を繰り返す。

 一つ頷いて離れようとしたが、ニコは手を離してくれなかった。


 それだけ切羽詰まっていて、余裕がないのだろう。

 無理にでも振り解こうとすると、ニコは目を見開いて、射抜く視線で言ってきた。


「おねがい……! この子だけでも……! 私はどうなってもいいから……! ひと目、ひと目だけ逢えたら、それで十分だから……!」


「分かった、任せろ。必ず、お前の子に逢わせてやる」


 力強く断言して、部屋の外に怒鳴るような声を放った。


「お湯を! 清潔な布も!」


 そこからが大変な作業だった。

 破水したなら、もう余裕はそれ程ない。


 慎重さも大事だが、それ以上に大胆さも必要になる。

 そして何より、ニコの頑張りが必要だった。


「ニコ、頑張れ……! 息を吸って……、吐く……。吸って、吐く……。いいぞ、いきめ!」


「ふぅぅぅぅ……!」


 ニコが努力しているのは分かる。

 しかし、既に彼女の体力は尽きかけていた。


 元より病弱な身体で、安定期に入ってからは体力づくりに努めていたが、それでも十分とは程遠かった。


 元より少ないものを埋め合わすには、到底時間が足りず、結局平均的な体力すら付いていない。


 最初こそ荒々しかったニコの息は、既に風前の灯火にも似て、今にも力尽きそうだった。

 私はニコの足から魔術を送り、強制的に体力を割増してやる。


「ニコ、もう少しだ! 頭が見えてる! もう少しで会えるぞ……!」


「ひっ、ひっ……、ふぅぅぅぅ。ひっ、ふぅぅ……!」


「いいぞ、ニコ。その調子だ。その調子で……!」


 赤子への影響などと言っていられない。

 ニコが生と死の狭間にあって、手段は選んでいられなかった。


 魔術の出力を強めて、ニコの体力を無理やりにでも増強させる。

 だが、これで良いのか、と使いながらも思った。


 身体強化、あるいは増強……これらの術は、効果が終わった後に、必ず反動生じる。


 術が切れたその時、割増した分の体力が残っていなければ、なけなしの体力を奪われる事と同義になる。


 昏倒するだけならまだマシな方で、今の消耗具合ならば、最悪の事態もあり得た。


「見えてきた……! 肩が抜ける! もう少しだ! 産まれるぞ……!」


「うぅ、うぅぅぅ……っ! うぅぅぅぅ!」


 力の限りいきみ、最後の力を振り絞った、その時――。

 大音量の泣き声が部屋を満たした。


「あんぎゃぁ! おんぎゃぁ!」


「あぁ……」


 ニコはぐったりと肩の力を抜き、荒い息をつきながら、今にも昏倒しそうなほど衰弱している。

 私は赤子を産湯に漬け、ゆっくりと割れ物を扱う様に洗ってやってから、へその緒を切る。


 適切に処置して真新しい清潔な布でくるむと、ベッドの側面からニコへ赤子を差し出した。


「ほら、お前の赤ちゃん……いや、みどりごだ。よく頑張った。お前は母親になったんだ」


「あぁ、わたしの、子……」


 ニコは涙を流して、恭しく抱き締める。


 決して圧迫しないよう、そして万が一にも落とさないよう、細心の注意を払ってその腕に抱いた。


「ひとめ……、ひと目逢えたら、満足だって思ったけど……」


「なに言ってるんだ、これからだぞ。そんな弱気でどうする。この子の為に強く生きるんだ」


「ごめん、ごめんね……。弱い、お母さんで……」


 ニコは私の声など、まるで聞こえていないかのようだ。

 みどりごは頭にニコとそっくりな耳を生やし、目を瞑ったまま顔を皺くちゃにして泣いている。


「ひと目見られたら満足だと思ってたけど、実際逢えたら……全然満足できなくて……。もっともっと、大きくなるのを見てみたい、って……。お母さんって、呼ばれたかった……」


「ニコ、弱気になるな……! この子はどうする、強く意志を持て!」


 元気付ける言葉は空虚だと、実は私にも分かっていた。

 ニコから生気が抜けて行く。


 出産時はあれほど赤くしていた顔なのに、今ではすっかり真っ青になって、活力そのものを失ってしまったかのようだ。


 無理に増強させた体力は、時間の経過と共に元へと戻り、そして今……それが抜け出そうとしているのだ。


「ねぇ、お願い……」


 その時まで我が子に釘付けだったニコは、ここで初めて私に顔を向けた。


「このこを……、このこを……どうか……」


「待て、ニコ! 駄目だ、この子にはお前が必要なんだ! お前が! 母親が!」


「なまえ……は、リ……、ル……。おね……が」


「何だって? 聞こえない! リル……リルでいいのか? 目を開けろ! この子を置いていくな!」


 弱った身体に体力増強は、逆効果にしかならない。


 だから、治癒術か、あるいは何か別の魔術を使うべきなのだが、その腕に抱く赤子が今は問題だった。


 もし使おうものなら、満五歳の子どもでも、昏倒しかねないマナがこの子を襲う。


 それはつまり、リルを助けるか、それとも生まれたばかりのリルを助けるか、という選択に他ならなかった。


 出産前、ニコが言っていた事を思い出す。

 ――この子だけでも、私はどうなってもいいから……。


 ニコの意志を尊重するなら、どちらを選ぶかなど明らかだった。

 私は魔術の使用を途中で取り止め、震える手を握り締める。


 そして、その直後だった。

 ニコから完全に力が抜ける。

 それでも腕の中にある我が子は、その中に収まったままだ。


「うっ、う、う……っ!」


 長い付き合いがある訳ではなかった。

 それでも、一年に満たない付き合いは、彼女は大事な友人となっていた。


 部屋の中には、私の押し殺した泣き声が漏れる。

 何かを察したのか、赤子また激しく泣き出し、二つの泣き声が部屋に響いた。



  ※※※



 ベッドの隣では、リルが安らかな寝顔を晒していた。

 何か食べる夢でも見ているのか、唇をムニュムニュと動かしている。


 掛け布団がズレていたので肩口まで戻し、頭を撫でては、フッと笑う。


「ニコ……、リルは元気だぞ」


 健やかに、幸せな生活をこの子に与える。 

 それが私の務めだ。


 そして、それこそが今や私の幸せとなっていた。

 飽きる事なくリルの寝顔を見つめていたが、そこでふっと欠伸が漏れる。


 唐突に覚めてしまった目も、過去に思いを寄せている内に、大分眠くなってきた。

 空中に飛ばしていた光源を消すと、布団を被って枕に頭を落とす。


 リルの幸せそうな寝顔を最後に、私も瞼を閉じて眠った。


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