母の回顧 その7
ニコレーナはその日、食事の時間になっても覚まさず、深い眠りについた。
そして結局、目を覚ましたのは翌日の、昼前の時間になった。
ほぼ丸一日眠っていた訳で、相当無理していた事が伺える。
睡眠は体力を回復させるのに重要だが、同時に栄養の摂取も蔑ろには出来ない。
悪阻が酷くとも食べねばならず、ニコレーナには私手製のスープを飲ませた。
「固形が無理なら、せめてスープだけでも。栄養を凝縮させたスープだから、病人食としても有効な料理だ。是非、飲んでみてくれ」
「何から何まで……」
ニコレーナは恐縮してスープを口に運び、そしてゆっくりと嚥下する。
自分の身体と相談している素振りで、途中途中で動きを止めつつ、スープにスプーンを差し込んだ。
一度口にして、動きを止めては、また口にする。
最初は緩やかだったペースも、半分を飲んだ辺りで、常人と変わらないペースにまで上がった。
何だかんだと言っても、身体が飢餓状態だったのは変わらず、身体に染みるような料理は、それだけで有り難かったに違いない。
「……どうやら、大丈夫そうだな」
「はい、とても美味しいです。まろやかで、コクがあって……。飲み物なのに、料理を食べているような満足感があります」
旅の道中でこれが作れていたら、と悔やまずにはいられない。
しかし、道中だからこそ食材は持ち合わせておらず、どうしても干し果実などの保存食がメインになってしまっていた。
食材だけでなく、調味料や香辛料なども全く足りず、ろくな料理を作れないのが現実だった。
だがともかく、今は心身ともに満足できる料理を提供できる。
悪阻にしても、そう長く続くことではない。
個人差はあるが、すぐに固形も食べられるようになるし、そうしたら精の付く料理を食わせてやれる。
だが、問題は――。
思考が横滑りしようとしたその瞬間、ドアが不躾にノックされた。
中に誰がいるか、寝ている者がいようと問答無用で起こす様な、乱暴なドアの叩き方だった。
気分を害しつつドアを開けると、そこには腰を曲げた老婆がいる。
突き出た鼻と細い目、不機嫌そうな見た目をした彼女は、どうやら人間ではない。
その特徴から、イノシシ辺りの獣人だろう、と当たりを付けた。
その老婆が、私を押し退けて入室しようとし、それを抑えて入口前で押し留める。
「ちょっと待て。名乗りもせず、勝手に入ろうとするな」
「何だい、呼ばれたから来てやったってのに、随分な言い様だね」
「じゃあ、癒士……なのか?」
「そんな上等なモンじゃない。アタシゃ、産婆だよ」
口調通りの偏屈そうな老婆は、細い目を更に細めて、鼻息荒くそう言った。
そして、同時に納得もする。
癒士はいつだって多忙で、空き時間を捻出するのは難しい。
普通に待てば、下手をするとひと月掛かる事もある程だ。
そこでオーナーが気を利かせて、別のルートから体調を診られる者を捜してくれた、という訳だろう。
大きめの隊商宿を持つ街は、只の宿だけでなく、売春宿も多く連なる。
商売女の体調を確認したり、妊娠の有無、実際の出産など、そうした事に産婆は重宝される。
そして、こと出産に関する知見ならば、下手な癒士より頼りになるのも間違いなかった。
「あぁ、それはすまなかった。診て欲しいのは、今ベッドで寝ている獣人だ。よろしく頼む」
「ヘン……」
不満そうに息を吐いて、産婆は私の横を通り過ぎ、ベッドの横に立った。
ニコレーナからの挨拶もそこそこに、首筋や手首に手を当て、脈を取ったりと触診を始める。
そうして二言、三言質問を交わし、最後に下瞼や口内を確認して、傍を離れた。
産婆は大きく息を吐き、やるせなく首を振る。
その只事でない仕草に、ニコレーナは恐る恐る声を掛けた。
「何か……、悪い所でもあったのでしょうか」
「悪いかどうかなんて、自分が一番分かってるんじゃないかね? そんな身体でよくもまぁ……」
「無理をしたのは承知しています。でも……」
「でもも何もあるもんか。――堕ろしな。アンタの身体が保たないよ」
ニコレーナは返事をしなかった。
唇をぎゅっと引き締め、俯きながらシーツを固く握っている。
「強情になっても、仕方ないだろう。出産を軽く見てるんじゃないだろうね。アンタよりずっと身体が丈夫で、風邪すら引かないような母体だろうと、誰もが安全に産めるものじゃないんだ」
「でも……」
「言ったろう。でも、じゃないんだよ。無理だ、諦めな」
産婆の言葉に容赦はなく、最初から結論を押し付ける口調だった。
どこまでも他人事だが、そうだからこそ出来る助言でもあるだろう。
産婆が言ったように、健康な母体であっても、出産は命懸けになる。
初産となれば尚更で、そこに病弱な身体が合わさると、殆ど成功の目はない。
それはどこまでも真っ当な意見で、そして無理と諦めさせるには、産婆の言うような非情とも思える伝え方が必要だった。
「それに、二度と子を望むなと言ってるわけじゃないんだ。嬢ちゃんはまだ若い。これから二年と三年かけて、じっくり身体を治して……それから子を望めばいい。そもそも、子を産むってのはそういうモンだ。一か八かで、するもんじゃない」
産婆が言うことは、どこまでも正論だった。
長く子を取り上げて来た彼女だからこそ、そうした意見に重みがある。
そして、初産というの只でさえ、流産し易いものだ。
母子ともに危険な状態に陥る状況なら、止めて当然という話でもある。
だが、逃げてきた経緯からいって、ニコレーナの夫とはもう会えないだろう。
ニコレーナ自身、帰るつもりがないに違いない。
互いの愛を貫くために逃げ出し、一縷の望みを掛けて国を出た。
子を望める可能性はあっても、二度と愛する夫との子は授かれない。
それもまた、ニコレーナにとっての現実だった。
「それでも、私には……」
「まぁ、どうするかをここで、即座に決められるモンじゃないだろう。……けど、そう言われるのも、嬢ちゃんは予想してたんじゃないのかい? 大抵の場合、もっと取り乱すモンだからね……」
ニコレーナは俯いたまま、これにも応えようとしなかった。
シーツを握る手が強くなり、関節部分が白くなっている。
表情こそ見えないが、産婆の指摘が事実なのは、その様子からも察せられた。
「……ま、いつ声が掛かっても良いように、準備だけはしておくよ。やるなら早い方が良い。痛みも少なくて済むし、傷も少ない。下手に長引かせると、堕ろすに堕ろせなくなるからね」
そう言って、返事を待たずに産婆は背を向けた。
そうして私の前まで歩いてくると、掌を前に差し出す。
何を言いたいのか察して、その手に金貨を数枚握らせた。
触診しただけにしては破格の金額だが、これからも相談に乗って貰いたいから多めの支払いだ。
気前よく応対して貰う為に、そして呼び出す毎にこれだけ貰える、と思わせる為の支払いだった。
産婆は歯並びの悪い口元をにんまりと歪め、私の腰を景気よく叩いて去って行く。
やれやれ、と息を吐きたい所だが、ニコレーナの心境を慮ると、そうした態度も憚られる。
私はベッドサイドにそっと近寄り、椅子を傍に引いて腰を下ろした。
そうして今も握り締めている強張った手を、ゆっくりと解す。
その手を片手で握り、もう片方の手で優しく撫でた。
その一連の流れの間も、やはりニコレーナは無言だった。
しかし、しばらくすると顔を上げ、泣きそうな顔でこちらを見てきた。
「貴女は……、どう思いますか? 諦めるべきだと、思いますか……?」
「身体の事だけを思えば、そうすべきだと思う。母体が耐え切れない、という見立ては確かだろう。産婆が言っていた通りだ。ニコレーナも自分で、分かっていたんじゃないか?」
「分かっています……。そして、私に二度目の機会は有り得ない、という事も……」
「確かに、引き裂かれた夫とは、もう子を望めないだろう。だが……」
いいえ、とニコレーナは首を横に振る。
か弱く、今にも崩れそうな仕草なのに、続く声だけは明瞭だった。
「自分の身体の事だから……。確かに、そうです。私は身体のことを、よく分かっています。この命が、もう長くない、という事も……」
迂闊に――また安易に、そんな事はない、と励ましを言えなかった。
それは私自身、分かっていたことだ。
ニコレーナほど明確な思いはなくとも、それだけは予想できていた。
ここで子を堕ろしても健康な身体を取り戻すことはなく、そして必然的に、――相手がどうであれ――二人目を授かる事もないだろう。
「私……産みたいです。この子を産みたいんです」
ニコレーナの目には力が宿っている。
言葉を発する度、その力が強まっているように思う。
「命を引き換えにしても、たとえ一目会えなくとも……。この子だけは、産み落としたいです」
もはや説得の余地はなく、ニコレーナの中では既に、確定した覚悟の様だ。
それならば、彼女に手を差し伸ばした魔女として、また一人の友として、出来ることをしてやるだけだ。
その意志を全うさせる事こそ、私の役目だ。
「分かった、お前の願いを叶えてやる。命懸けの覚悟に免じて」




