母の回顧 その4
五人の獣人達が陽動を買って出てくれたお陰で、本来は手厚な西側に綻びが出来た。
全ては目論見通りだ。
兵の多くがそちらの警戒に回ったが、しかし当然ながら、監視の目全員が応援に向かった訳ではない。
それでも目が緩めば、通れる隙間は多くなる。
魔術を駆使して潜伏すれば、それらを回避して進むのは簡単だった。
「申し訳ありません、こんな事まで……」
「最初から分かっていた事さ。一人で移動なんて、最初から無茶だったんだ」
背中に背負ったニコレーナに、軽い調子で声を返す。
獣人は人間よりも筋肉が多く、引き締まって凝縮されている構造上、見た目よりも相当重い。
単に背負うだけなら、私も早々に音を上げていただろう。
しかし、軽量化の魔術を掛けてやれば、ニコレーナの重量を一割にまで減らしてやれた。
僅か数キロの重さを運ぶ事くらい、険しい山林を抜けようとも、難しい事ではないのだ。
「す、すみません、一度……」
ニコレーナが蒼白な顔で、今にも吐き出しそうな声を出す。
私は素直に彼女を降ろし、木の幹を背にして座らせた。
竹筒に入れた水を取り出し、口元に持って行くと、ニコレーナは有り難く感謝を述べて飲み干した。
「っ……、はぁ……。ありがとうございます。だいぶ……、楽になりました……」
「よくもまぁ、そんな体調で山を越えようと思ったもんだな。水を欲して、川の通っている場所にでも近付いてみろ。即座に捕まって、拘束されていたぞ」
「はい、申し訳ありません……」
「無鉄砲というより、これは……」
言葉を続けようとしたが、途中で止める。
ニコレーナもそれについては、重々承知の事だろう。
それは今も見せる表情から察せられた。
ただ、ニコレーナは一縷の望みに賭けるしかなかったのだ。
このまま連れ戻され、子どもまで流されるくらいなら、死すら望んでいたに違いない。
だからこその無謀な賭けだった訳だが、どちらにせよ、勝つ見通しのない自殺に等しかった。
また病弱な身で、家からもろくに出て来れなかった事から、自分の限界がどこにあるか、分からなかったせいもあるだろう。
――あるいは、箱入り娘らしい見通しの悪さ、と言った方が良いのかもしれないが。
「今日は何か食べたか? 水ばかりじゃ保たないぞ」
「いえ……、吐いてしまう、ので……」
「酸っぱいものなら食べられるか? 何か果実でも……」
「大丈夫です、そこまでご厄介にはなれません……」
ただでさえ要らぬ苦労をさせている、その負い目があるのだとは分かる。
しかし、ニコレーナにしろ、ただ背負われているだけでも、体力は消耗するのだ。
何より――。
「お前が体調を崩せば、腹の子が流れるぞ。それが嫌で逃げて来たんだろう。ここは強情になるところじゃない」
「はい……。はい、そうなのですが……私に返せるものなど、何もありません……」
「今は難しい事など考えるな。子を産みたいんだろう。今はそれだけ、考えていればいい」
「はい……、はい……」
ニコレーナは感じ入った様子で何度も頷く。
その声は涙と共に震えていた。
「少しでも何か食べるんだ。干した果物なら丁度持ってるから。少しずつ、口に含んでおけ」
「はい……、ありがとうございます……」
今はまだ春には遠い冬の頃、暖かくなり始める時期とはいえ、寒風が吹こうものなら即座に身体を冷やしてしまう。
山林の間は風が通りにくいとはいえ、山の天気はどうとでも転ぶ。
安定している今の内に、素早く通り抜けたい所ではあった。
「休みは勿論取るが、なるべく急いで移動する。監視の目は抜けたと思うが、足跡ばかりはどうしようもない。もしも気付かれたら、相当面倒なことになるだろう」
「はい、私もなるべく……」
「我慢はしなくていい。無理と思ったら、すぐに声を出すんだ。お腹の子の事だけ考えろ」
「はい、ありがとうございます……」
ニコレーナは今日何度目かになる、感謝と謝罪を口にして、深く頭を下げた。
しかし、前途は多難で、先行きは見えない。
見事、通り抜けたとしても、その先はどうする……という問題もあった。
それでも、ニコレーナが考えるほど大きな問題ではない。
助けたからには、最後まで手を差し伸べる。
最後まで面倒を見る。
私は既に、そう決めていたのだ。
※※※
歩き通す事で、公国の内部に入り込むことは出来たものの、そこで留まるのは問題だった。
追跡の手から逃れられたのは事実だが、公国は獣人をハッキリと差別している。
弾圧していると言って良かった。
まともな宿にはありつけないし、泊まれる場所を用意されても、馬小屋が精々だ。
半分獣なのだから、獣と同じ場所で寝泊まりしても良いだろう、という理屈らしい。
公国の人間は、獣人は文明を持たないと思い込んでいるし、理解を広めようという気持ちもない。
建築技術もなく、洞穴を利用して暮らしていると、本気で思っている人間も少なくなかった。
実際に赴けば、そんなものは空想にも等しい侮辱だと分かるのだが、一般人は関わる事すらないので、それ以上を知る機会もないのだった。
実際は低くない文明を持ち、公国には及ばないまでも、しっかりとしたものを持っているのだが……。
ともかく、獣人差別の酷い公国で、身重の女性を休ませられる宿は見つけられない、と考えるべきだ。
ニコレーナの為を思うのなら、さっさと公国を抜けて、別の国に抜ける方が良かった。
「それで……、ここから更に西へ進んで一国跨ぎ、共和国に行くのが良いんじゃないか、と思うんだが……」
「自分の浅はかさを、今更ながらに思い知らされています。どうか、貴女が思う良い様にして下さい」
「……うん。こんな国は、とっとと出てしまった方がいい」
関所を抜けるには旅券が必要だが、公国から出る時にも、やはり持っていないのは問題になる。
しかも、獣人ともなれば、普通はそもそも発行してくれない。
正攻法で行けば追い返されるし、下手をすると捕縛も有り得る。
かといって、関所を避けるのも難しい。
獣人国側から抜けられたのは、ろくに整備されていなかったのが理由で、普通は回避できる余地など残さないものだ。
昔から獣人側へ奴隷狩りなど行い、差別や弾圧が激しいからこそ、獣人は公国側へと近寄らないから、そうした杜撰さがあったに過ぎなかった。
「とりあえず、馬車がいるな……。ニコレーナも、いつまでも背負われていては休まらないだろう」
「すみません、ご苦労かけて……」
「別に女一人背負うくらい、何て事はないさ。でも、身体への負担は最小限じゃないと。苦しい時、横になれる場所があるだけでも、随分と違う。さっさとこの国を抜ける為にも、馬の脚はあった方がいい」
「はい……」
それで乗合馬車を利用できないかと思ったのだが、これには御者からこっぴどく断られた。
「獣を乗せられる訳ないだろ。汚されちゃ堪らない。畜産農家になら、運搬用の馬車でもあるんじゃないかね」
その御者は、嘲るように言ったものだ。
この者一人が特別酷い感性の持ち主だと仮定しても、やはり公国内での差別意識は大抵酷い。
仮に乗せても他の客が嫌がるので、一度に運べる客数が減る。
その分、儲けが少なくなる訳だから、御者にとっても煙たい客なのは間違いなかった。
「仕方ない、自力で調達しよう」
「自力……? 自力とは、どのような……」
「いや、なに……。野生の馬を捕まえようとか、そういう話じゃないぞ。馬車ごと買い取るのさ」
「でも、それではお金が掛かり過ぎるのでは……」
「馬でも馬車でも、他国で買い取る奴はいるものさ。差し引きでマイナスにはなるだろうが、大赤字って程にはならない。実際、そのアテはあるしな」
そういう事で、一つ馬車を買い上げることにした。
獣人さえ介在させなければ、そこは素直に商売の話――。
順当に買い付けて、他にも食料品などを買い込んだ。
妊婦に与えてはいけない食品や、逆に取るべき食品などを買い込み終えると、馬を並足で走らせる。
常識的な手段で模索するのではなく、最初からこうして金で解決すれば、話は早かった、と今更ながら思った。
関所を通行する段階になれば、その時はニコレーナを魔術で隠せば良い。
自分自身の旅券は正式発行された物を持っているので、通行する分には何の問題もなかった。
「後は地道に移動するだけだな。気分が悪くなったら、すぐに教えてくれ」




