母の回顧 その1
――今日、何者かがリルの傍に居た。
侵入者が私に気付かせる事なく、この森に――この森の深部まで入り込むなど、全く予想外の事だった。
ここまで入ってくるルートは複数あるが、どれも全て簡単ではなく、しかも探知の魔術や数多の罠まで仕掛けられている。
仮にそれら全てをすり抜けられる技術があろうと、他にもまだ問題があった。
道中、魔獣や魔物の縄張りを幾つも通過せねばならないのだ。
そこで戦闘が一つでも起こっていたら、やはり私は勘付けただろう。
どれほど上手く気配を隠せる達人であろうと、魔獣の鼻まで誤魔化せるものではない。
特に森の狩人と呼ばれる剣虎狼は、広く森に分布しており、これを躱して家まで侵入するなど、不可能と断言して良かった。
「しかし……」
リルが寝静まった後、私は眠れる気がせず、一人居間で空中を睨み思案に耽っていた。
椅子に座り、片腕をテーブルに立てて肘を乗せ、もう片方の指で、コツコツ……とテーブルを叩く。
「しかし、何者かはやって来た」
この平和が長く続くと思うな、という警告とも取れる言葉と共に。
一体、何者なのだろう……。
私を表舞台に引きずり出したい何者か、だろうか。
だとすれば、その場でリルを誘拐してしまえば、それで話は済んでいた。
否が応でも外に出て、リルを見つけ出そうと躍起になるだろう。
その上、相手が転移の魔術を有していたのも間違いない。
リルを抱えて逃げるのは、そう難しくなかったはずだ。
「だが、しなかった。いや、それよりも問題は……」
転移自体、非常に高度で扱いの難しい技術だ、
しかも、見ず知らずの位置に飛べるほど、便利で万能な代物ではない。
短距離転移の技術は目に見える範囲に限られるし、鬱蒼と茂る森の中では、遠くまで視線は通らない。
何度も転移を繰り返そうと限度があり、それを以ってしても、森と我が家の境界を踏めば探知魔術に引っ掛かる。
偶然どうにかなった、という論法は通用しない。
ならば、どうやってここまで来て、そして去ったのか――。
侵入する時と同様、去る時にだって、探知には引っ掛かるのだ。
それなのに、私が感じ取れたのは、唐突に現れた人の気配のみだった。
「そもそも、害するのが目的ではなかったんだろうが……」
それをするつもりがあるのなら、とうにやれただろうし、気掛かりなのはリルの態度だ。
アロガすら、侵入者に敵対するどころか、擦り寄ったらしい。
敵と見たら噛みつけと、教えていたアロガだ。
しかし、リルと私以外のヒトを知らないから、同じように接してしまった可能性はある。
だが、それだけとも思えなかった。
何かしらのカラクリがある。
侵入できたこと、敵対されなかったこと、そこに納得できるだけの理由が、きっとあったに違いない。
「まったく、気持ち悪いな……」
敵だとハッキリ分かった方が、まだやり易い。
だが、何者かにこの場所が知られたというなら、考えておくべきかもしれない。
「この場から逃げ出すか、それとも……」
迎え撃つか、だ。
いよいよとなれば、逃げ出す覚悟も必要だろう。
しかし、ここはリルを健やかに育てるには最良の地で、何より迎え撃てるだけの準備がある。
誰を相手にしても自力で勝る、という傲慢で言いたいのではなく、この地は天然の要塞でもあるのだ。
軍を率いて乗り込める場所ではないから、必然的に精鋭を複数用いて強襲する、という形になるだろう。
「……まぁ、軍が相手でも負ける気はしないが」
所謂S級冒険者や、それに類する実力者を送り込む程度……。
それが一番、現実的な方法のはずだ。
「ただ、それだけでは足りない。他にも何か用意するだろう……」
それが何かまでは想像できないが、きっとあるに違いない。
忠告めいた言葉を残した何者かが、その場には確かにいたのだ。
似たような形で急襲できるのだとすれば、その為の防御手段を講じておくべきだろう。
その為の準備をする時間が、どれだけ残されていることか……。
十分、注意しなくてはならない。
「私は魔女だ……。いつかこうなる日が来ると分かっていた。ずっと一人でいるつもりだったのに……」
しかし、私はあの温もりを知ってしまった。
もう手放せないし、健やかに育つ姿を見守るのは、何ものに勝る喜びだ。
――あの子を守る。
――私が育てる。
その約束を、決して違えるつもりはなかった。
亡き母の代わりに、立派にこの子を育てようと誓ったのだ。
そして、その為にはこの場所以上に適した土地など存在しなかった。
コツコツと、テーブルを叩いていた指を止め、代わりに掌を見つめる。
初めてリルをこの手に抱いた日の事は、今でも鮮明に思い出せた。
柔らかく、温かく、そして確かに感じられる命の鼓動……。
「あぁ、あの子の寝顔が恋しい……」
今はどうせ眠れる気がしないが、であるのならば、尚更心穏やかになれるものを、見つめていたかった。
私は席から立ち上がり、二階の寝室へと戻る。
一度寝かしつけてからベッドを出たので、私が抜けた分、布団がへこんでしまっていた。
そこへするりと戻って、静かな寝息を立てるリルの顔を覗き見る。
布団が少し開けてしまっているので、首元が隠れるまでしっかりと被せた。
幸せそうな寝顔を見ながら肘を立て、その頭をゆっくりと撫でる。
「リルは元気に育ってる。安心してくれ、ニコ……」
※※※
当時の私は、今と大きく変わらない暮らしをしていた。
既にボーダナン大森林の奥地に居を構え、そこで自家栽培を中心として暮らしていて長い。
私は世界の何処か一箇所に、留まる事が出来ない身の上……。
魔女であることは、秘して生きていなければならなかった。
とはいえ、本当に全く誰とも接触せず生きて行くのは難しい。
何処の土地であろうと、必要なもの全てが手に入る場所など、まずないものだ。
それに、文明的な暮らしや食生活を捨てたい、と思った事もない。
本当の世捨て人になれないのは、その文明に焦がれる部分があるからこそだろう。
そして、何より竜や精霊といった、人間よりも貴意の高い存在がいるのが原因だった。
彼らを一度制した人間として、彼らの間に仲介人として立つのは、むしろ当然の事だった。
彼らと来たら、まず実力で全てを押し流そうとする。
それが簡単に出来てしまう故の暴挙だし、対話を面倒臭がるからこその行動とも言える。
その日もまた、一つの精霊の暴走を食い止めるのに、遠出して解決した所だった。
人間と接するより、人間以外と接する時間の方が余程多い。
そして、それに違和感を覚えなくなって久しかった。
その日は公国の東、獣人国家であるステンゲルを通って帰路に着いている時だ。
見るべき物もない、木が疎らに生えた広い草原に、長い道が一本通っていて、その道を呑気に歩いていた。
そうして暫く進んで行くと、木陰に蹲り、苦しそうに喘ぐ一人の獣人を見つけた。
私は人と距離を取るよう気を付けていると言っても、病人を蔑ろにするほど落ちぶれてもいない。
私はすぐさま駆け寄って、その肩に手を置いた。
「……大丈夫か? 怪我、それとも病気で……?」
「あぁ、旅の御方……」
栗色の髪と同じ毛並みの耳を持った、犬型の女性獣人だった。
青白い顔をして、今にも吐き出しそうな顔をしている。
その獣人が、縋るように手を伸ばしてきた。
「必ずお礼を致します。どうか、すぐにここから連れ出してください……」
「いや、安静にしておいた方が良いだろう。すごい顔色だぞ」
「分かっています。ですが、このままでは……」
「気分が落ち着いてから、それから移動しよう。それまで離れず、色々と手を尽くしやるから……」
場所は街道沿いとはいえ、人通りの少ない道だった。
私自身、人目を避ける目的で、そうした道を選んで歩いてのだ。
だから、通り掛かる旅人は滅多にいないし、ここは獣人国と公国の境と近い。
獣人は人間を嫌う者が多く、だから彼女の味方も通り掛かったりしないだろう。
もしもそうした幸運があるのなら、人手を借りて近くの村か街まで付き合ってやっても良かった。
だが、獣人は必死で首を横に振る。
「いえ、いいえ……! そういう訳にはいかないのです。すぐにここを離れなければ……」
「離れると言っても、ここから先は公国だぞ。それともその手前、どこかの獣人の宿に知り合いでもいるのか? そこまでなら連れてってやっても良いが……」
「違います、そういう事でもなく……。追われているのです、この国から逃げなければ……。どうかお願いします。国境までで結構です。そこまでどうか、連れて行っては下さいませんか……!」
獣人の顔は、どこまでも必死だ。
この場限りの、虚偽を言っているようにも見えなかった。
また面倒な事に巻き込まれたな……。
私は嘆息する思いで、必死に懇願してくる獣人の肩を叩いた。
 




