竜の塒と追走劇 その4
本日の予定としては、まずウィンガートに話を訊き、それから公都エリンニースへと行く予定だった。
人の足で山を降りるとなれば半日掛かりで、麓から馬を飛ばそうにも、調達だけで余計に時間が掛かるだろう。
そこから冬道の移動、道中で起こり得るトラブルを考えれば、想定を遥かに越える時間が掛かってもおかしくない。
しかし、それら一切の問題を解決するのが、我らの卵駕籠だ。
ここからならば、公都エリンニースまで、一時間ほどで到着する。
その間に、十分な暖気を取る事も出来るはずだ。
そう思って卵駕籠まで戻ったのだが――。
そこには踏み荒らされた足跡と、雪中を身体で掻き分けた跡が残るばかりで、駕籠のかの字すら見つけられなかった。
「あれ、お母さん? ないよ?」
「……そうだな、ないな。……持ち去られた?」
周囲の痕跡を見たものを考えれば、余りにも明らかだ。
洞窟を出る前、ウィンガートが言っていた言葉を思い出す。
「複数の人間……しかし、洞穴に近付くことなく引き返して行った、か……。そいつらが持ち帰ったんだろうな」
「リルたち、かえれないの?」
不安そうに見上げて来るリルに、大丈夫、と微笑んで頭を撫でる。
――そう。実際、問題にはならない。
卵駕籠にはマーキングがしてあって、内部にはしっかりと陣があるので、調べれば直ぐに位置が判明する。
また、その距離次第では、直接内部に転移する事も出来た。
遠方の転移に陣を用いるのは、その方が簡単で消耗が少ないからだ。
陣と陣同士を転移するのに消費する魔力は、陣を起動するのに使う量だけ……。
どこへ飛ぶのか、そこまでの距離は、座標は……という計算から解放されるので、よほど手間が少ない、という理由もある。
この場に陣はないが、卵駕籠は未だそう遠くまで行っていないだろう。
ここからでも陣に向けて、転移することはできる。
とはいえ、どういう人間が、どういった目的で持ち帰ったのか……。
それが分からない状況で、逸って内部に転移するのは危険だった。
自ら敵に包囲され行くも同然で、下手をすれば反撃もままならなくなる。
取り返すのは確定だが、近付くには慎重さが必要だった。
――リルを一度、家に送り返すべきだろうか。
だが、陣への転移が可能とはいえ、流石に我が家へまで転移するには距離があり過ぎた。
当初はリルを家に置いて行くつもりだったし、日帰りを実現する為にも、卵駕籠に用意した陣を起点として、色々調査するつもりだったのだ。
「いっそ、フンダウグルを呼んで、後を追わせてみるか……?」
いや、と直ぐに自分の考えを思い直す。
私達を運ぶだけでも最大限、譲歩した形だ。
これ以上の頼み事は聞いてくれないだろう。
それに彼が持ち去った人間に遠慮するとは思えない。
自分の力だけで解決する必要がある。
「これで貸しにされるのも癪だしな……」
「お母さん……?」
リルは未だに不安そうな顔をさせたままだ。
一人で思案している事が、余計な不安を煽ってしまったのかもしれない。
「大丈夫って、言ったろう? あれの場所なら、もう分かったから」
「ほんとうっ!?」
実際は、いま初めて調べたばかりだ。
しかし、リルはそう見えないよう裏で魔術を行使し、そして話している間に位置の特定を完了させた。
問題は、どうやって追い付くかだ。
あちら側は、時間にして恐らく、一時間程は先行している。
卵駕籠は大きさの割に軽く、四人も入れば十分、持ち運べる重さだ。
頑丈だから多少ぶつけても平気だし、雪の上を引っ張っているなら、更に簡単だろう。
「見てみる限り……」
何者かが持ち去った形跡では、実際そうして運んでいるようだ。
雪を掻き分け、踏み鳴らした上には、何かを引き摺った跡が見える。
恐らく、前方と後方とで分かれ、それぞれ押しては曳いているのだろう。
「さて……」
期待に目を輝かせるリルへと目を移す。
私達は雪に足を取られないから、追い付くのに難しい、という事はない。
ただし、慣れない雪の斜面で、転倒する危険は多かった。
人が通る為に整備された道でもないので、それなりに警戒して降りねばならないだろう。
リルの歩幅を考慮すれば、案外、追い付くに追いつけない状況が続くかもしれない。
「どうしたものかな……」
他にも、体力の問題もある。
普段から走り回り、飛び回って遊ぶリルだが、雪の斜面は初体験だ。
慣れない動きは、余計に体力を消耗する。
そこも加味すれば、いよいよ追い付けるかどうか、疑問に思えてきた。
「……ならば、やるべき事は最初から一つだったな」
「なになに?」
本当なら、もっと穏やかな斜面で遊ばせる為に、サプライズで用意していたものだ。
しかし、この機会に使うのも、そう悪い判断ではないだろう。
私は空間から一つの橇を取り出す。
犬橇などでも使用される、バスケット型のソリだ。
よく撓る竹を主な材料として使っており、最初から婉曲した作りは雪との接地部分で役に立つ。
また、構造的に人や物を運ぶものなので、リルは安心して背中を預けて座っていられるし、操作は私自身がするから危険を最小限に抑えられる。
接地部分であるランナーと呼ばれる部位に、私が直接足を付けて具合を確かめる。
我が家で作った時に具合は確認しているが、雪面でやるのは何気に初めてだった。
本来は平地で利用する為のものだから、これにブレーキなどないのが問題だが……。
それも魔力のゴリ押しで解決できる。
単にブレーキだけでなく、急カーブなどでも十分な応用力があり、リルを危険に曝さない自身が、私にはあった。
「わぁ〜……!」
予想以上に大きな物を取り出したからか、それとも初めて見る物だからか。
リルは期待に輝かせていた目を、更に輝かせて橇に触った。
「これ、なに?」
「橇だよ」
「そり……。これがまえに、お母さんが言っていたやつ?」
「そうとも。リルはこれに……ほら、この上に座りなさい」
指差して荷台を示してやれば、リルはいそいそと座ってこちらを向いた。
座り方が危なっかしいので、しっかり背を荷台に預けさせ、両手も橇の壁面を握らせる。
バスケット型は荷台が接地面から浮いているので、そうやっても手や指を怪我をしない。
それだけではなく、重心が上になるので、バランスが取り易いのも特徴だった。
「……さ、ちゃんと掴まった?」
「うんっ! それでそれで?」
そう口では言いつつも、何をするか薄っすらと察してはいるようだ。
卵駕籠の事など何処へやら、何か楽しい遊びが出来るのだと、期待に胸を膨らませている。
「始めはゆっくり行くよ。怖かったら言いなさい」
言うなり雪面を蹴って、橇をゆっくりと前進させた。
この場所はまだ平面なので、蹴り続けない限り、前へは進まない。
それでもリルには、初めての橇遊びに声を弾ませて喜んだ。
「わっ、すごい……!」
「凄くなるのはこれからだ」
荒れた雪の跡を追って、橇を走らせる。
蹴り続ける回数が増える度に速度が乗り、次第に肌に冷気が伝わるようになって来た。
まだまだ速い速度とは言えないが、それでも一応訊いてみる。
「リルはどう、平気?」
「へいきだよっ! もっとはやくがいい!」
普段、走り回っている速度ほどではないので、やはりそういう感想になるらしい。
そして、いよいよ斜面へと近付き、橇が傾斜に応じて傾く。
一瞬、がくりと速度が落ちたのも束の間、するすると速度が上がって行った。
頬に当たる風はいや増しに増し、速度と共に身体が引っ張られる様な錯覚さえ覚える。
チラリとリルの顔を除いてみれば、引き攣るどころか、無邪気に楽しんで笑っていた。
「おっ、余裕だな、リル」
「うん、これたのしいっ!」
斜面は今のところ、そう急なものではない。
しかし、走るより余程速度も乗っており、肌に当たる風は耳元でびゅうびゅうと過ぎ去っていった。
雪から突き出る岩を横に避け、そうして元に戻る動きで、リルはきゃっきゃと喜ぶ。
速度は更に増し、掛かる重力も増していく。
降る道は足跡を追い掛けるだけだから危険な道はなく、あちら側も徒歩でも行ける道を選んでいるからか、なだらかなものが多かった。
そうしてまた一つ、岩を避けて左に動く。
しかし、その先は盛り上がった雪があり、そのままではぶつかりそうになってしまった。
私は咄嗟に重心を後ろに掛け、橇の前半分を持ち上げる。
そうして、叫ぶように命令した。
「口を閉じて、よく掴まって!」
その直後、雪の盛り上がりにソリの足が乗っ掛かる。
それが丁度ジャンプ台の役目を果たし、橇は一瞬の浮遊感を得た。
着地と同時に衝撃が走り、操舵がほんの僅かに乱れ――。
リルが落ちていない事を確認し、私は声を掛ける。
「平気か? 怖かったろう、ごめんな」
「ううんっ! たのしかった!」
リルの声は底抜けに明るい。
強がりで言っている訳ではないと、声音から分かった。
うちの子は、どこまでも好奇心旺盛で――。
「もっと! もっとはやくして!」
そして、怖い物知らずらしい。
速く出来るかは、斜面次第だから約束できない。
だが、私は軽快に返事して、雪に残る跡を追って、橇を走らせた。




