竜の塒と追走劇 その3
「いずれにしても、これ以上は……か」
訊きたい話は聞けたと思う。
竜と人の倫理観は相容れない。
……いや、人というより、国家というべきかもしれない。
どこまでも実利を希求するのが国家であるならば、裏切りとも取れる行動を、人間は平気で取れる。
しかし、最大多数の最大幸福を追求した結果だとしても、それで国を傾けてしまえば意味がないのだ。
利益の追求の背景に、危険を回避できるだけの担保があるはずだ。
……そう思うのは、期待からだろうか。
国は時として、王権が絶大な力を持つからこそ、目を覆うしかない愚かしさも見せる。
しかし、全てを計算づくで行動しているのなら、むしろ安心と言えるのだが……。
今回もそうとは限らない。
それを心に留めておかねばならなかった。
私はリルに一言断りを入れてから、出現させていた炎塊を消す。
残念そうな顔をしたリルの手を取って立ち上がらせ、まだ残る僅かな暖気を空気の層へと取り込んだ。
二人を包む空気の中が、それでグッと暖かくなる。
リルの顔が綻んだ所で、ウィンガートへと身体ごと向ければ、その一挙手一投足を、彼女は興味深そうに見つめていた。
「……子とは、それほど良いものかぇ?」
「勿論、言うまでもない」
「……そうか。……そうよな」
謎めいた台詞に訝しげなものを感じ、疑問を言葉にしようとしたのだが、そこへ被せるようにウィンガートが更に言う。
「お主の反応を伺う限り、どうやら私が迂闊だったらしい、と分かった。……しかし、商人と交わした約定が、実は国家に対してのものだった、と言われても承服しかねる。その点については?」
「予め、商人側から内容を確認してくれと、そういう動きがあったろう。だから、それをしなかったウィンガートの落ち度……という事になってしまうな。何より、写しすら受け取らなかったのは、非常に拙かった」
「……やはり、そうなるか」
「証文や証拠など、それは人の世の理で意味するものだが……。この場合、どちらに言い掛かりがあるか、という話だから、証拠がある方を優先されてしまう」
「うむ……」
ウィンガートは重苦しい息を吐く。
表情は変わりないように見えるが、忸怩たる思いを抱いているのは確かだった。
「裁定者としては、そういう判断になってしまうか……」
「だが、安心しろ。人間側の取り調べは、竜ほど簡単には終わらせない。徹底的に洗い出す」
「ふむ?」
「……この件、どうにもキナ臭い。ウィンガートが言う事も尤もで、商人の通行と偽って許可を取ったとしたら、その手口は悪辣だ」
しかも、納得できない点は、他にも数多くある。
初めから竜を討伐ないし、排除するのが目的だったのか、そこから始まる欺瞞だとしたら、相当手の込んだ計画だ。
その場合、二カ国を通じて行った討伐計画かも知れず、他竜の介入を妨げる所までが、計画の内だった可能性がある。
ただし、時期を冬に定めた理由が、やはり疑問だ。
商人もまた、冬に合わせて登ってきたのは蛮勇と言えるが、そもそも竜と対面しようと考える時点で、蛮勇を通り越した無謀な行いなのだ。
果たして、そこまで国家に尽くせるものだろうか。
無論、そうした商人がいる事は否定しない。
しかし、多くの場合、商人が信奉するのは金であり、国家を利用する強かさを持つ者が、一流の商人というものだと思っていた。
その部分を考えても、小さなトゲが残る。
このボーリスについては、特に深く調べ上げる必要があるだろう。
「頼むぞ、裁定者……。最悪、通行許可をもぎ取られて良い。しかし、どうあっても山には……この塒には、近付けさせる事がないように願いたい……」
「今となっては、人嫌いになったのも当然だろうが……。そこまでか」
「嫌うから遠ざけるのではない。お主も言っておったろう、キナ臭いと……。そこには他に、理由があるかもしれぬのだろう?」
「そうだな。そうかもしれない、という段階でしかないが……」
国王の為人や、国が竜をどう思っているかさえ、未だ判明していないので、確かな事は何一つ言えない。
しかし、違和を感じるからには、特殊な理由があるのかも、と思う。
その正体を確かめるまでは、安易に決定を下すつもりはなかった。
「先程も、ここへ侵入しようとした人間がいたようだ」
「何……? 先程? ついさっき、という意味か?」
「うむ……」
訝しげに問い返し、洞穴の入口近くへと気配を探る。
しかし、人間どころか、何か獣の気配すら、感じ取る事は出来なかった。
「ただ、この洞穴まで、足を進めていない。それより遥か前の段階で引き返して行った。少数の人間が、息を殺して接近しようとしていた様だが……、その程度で誤魔化せるほど、竜の鼻は鈍くない」
ウィンガートの言う通り、竜の嗅覚は非常に鋭い。
山頂に居ながらにして、麓の獣がした欠伸すら嗅ぎ分けるとされる。
だから、人間がどれほど苦労して身体に獣脂を塗りたくり、工夫を凝らしたとしても、子供の浅知恵同然の扱いだ。
「それで、いつ頃引き返して行ったんだ……?」
「お主が洞穴に入って来て、対面するより少し前のことだったか……。そして、お主らが直接降り立ったあの地点まで、来ては良いが引き換えしたようだ」
「そこまで来たのに、ここへは近付かず、そして去って行ったのか……。何が狙いだ?」
「さて……。人間の考える事は、私には分からぬよ。……まったく分からぬ」
そう言いたい心境は、よく理解できた。
そして、人間からしても、これほど険しい山へ踏み入るのに、何の目的もなし、とは思えなかった。
竜の塒の近くに、獣は近寄らないものだ。
だから、逃げた獲物を追って来た猟師、という線も考え難かった。
何より、猟師ならば獣が逃げ込もうと、自らは近付かないようにするだろう。
ならば、その蛮勇を発揮したのは、猟師以外という事になる。
――つまり、冒険者の可能性が高い。
だがそれなら、塒の近くまで来ておいて、何をするでもなく帰ったのが理解できない。
単に、臆病風に吹かれて逃げ出した、というのなら可愛げもあるのだが……。
「とりあえず、その人間でも追ってみるか。この時期にやって来た人間だ。ボーリスと何か関係があるかもしれない」
「うむ、任せよう。先程の、私の言葉を思い出してくれれば幸いだ」
――最悪でも春までは入山させない、というアレか……。
「分かった。出来るだけ吉報を持って帰って来よう」
力強く頷いて、私はリルの手を引き、もと来た道を引き返していった。
※※※
「お母さん、もうかえるの?」
「いいや、これから少し、公国で動く事になるよ。前に行った街とは違って、今度は人間しかいない公国で」
洞窟から出て明るい陽射しに目を瞬かせながら、自分達の足跡を辿って道を戻る。
その最中の質問だったのだが、私の返答に、リルはこてん、と首を傾げた。
「ふぅ~ん。どうして?」
「うん?」
「どうして、にんげんしかいないの?」
「あぁ、そっちか……」
……しかし、そう言われても、どう返答したものか。
そもそも、本当に人間しかいないか、と言われたらそうではない。
奴隷階級身分であったり、単に市民権を持たない異種族はいる。
しかし、そうした者は公国民とは認められず、だから扱いは酷いものだ。
そして、市民権がないのだから、王国に異種族がいない、という論調でしかなかった。
路地裏のスラムを覗けば、恐らく嫌でも目にするのだろうし、野盗の類でというなら、更に出会う機会はありそうだ。
しかし、それをリルに説明するのは憚られた。
私は言葉を探して、この場では当たり障りのない返事をする。
「……何というか、基本的に誰でも、自分と身近な人と一緒にいる方が安心するだろう? だから知らない人や、自分と形の違う人より、同じ人同士で固まる。それが大体の国において、普通の事なんだ」
「……よく、わかんない」
これは私の説明も良くなかった。
幼い娘に教えるには、もっと噛み砕いて説明する必要があるのだろう。
しかし、どこをどう噛み砕けば、分かり易くなるだろうか。
「普通はね、自分と同じ格好同士の方が落ち着くんだ。違いがないっていうのはね、それだけで安心の材料になるんだよ」
「……でも、リルとお母さん、ちょっとちがう……」
リルは自分の尻尾を見て、悲しそうに目を伏せる。
私は自分が言った台詞で、リルを悲しませてしまったのを、激しく後悔した。
足を止めてリルを抱き上げると、視線を同じくして、真っ直ぐな気持ちと共に語り掛ける。
「確かに、お母さんには耳も尻尾もないけれど、リルの事を愛しているよ」
「リルもお母さん、すき……」
「私にはそれで十分なんだ。それで十分じゃない、臆病なひとが、この世には多いという話なんだよ」
「……うん。やっぱり、よくわかんない……」
「そうだな……」
私はリルを抱き留め持ち上げ、胸へ大事に仕舞って歩く。
人種の違いと軋轢など知らなくて良いし、たとえ知るのだとしても、その不条理を知るのは、もっと大きくなってからでいい。
私はリルを苦しくない程度に強く抱きしめながら、卵駕籠へと足を進めた。




