竜の依頼と空の旅 その8
「しかし、寒いな……」
「ねっ、お母さん、ねっ!」
雪原に僅かな足音を残しつつ、歩き続けて十分ほどが過ぎた。
空気の層も万全ではなく、冷気は幾らでも貫通して来る。
しかし元来、寒さに強いリルは、そんな事はお構いなしだ。
私の手を引いては、興味に映るものを手当たり次第に訊いて来ていた。
「あのいわ、へんなかたち! なんで?」
「あぁ、何でだろうな……。多分、竜が身体を擦るのに使ったんだろう」
石柱の中には、大きく抉れて横倒しになったものが、幾つか見えた。
竜はその習性として、古くなった鱗を剥がすのに、身体を擦り付ける事がある。
長年そうして使った結果、そのうち岩の方が削れ続け、次第に細まり……そして折れてしまったのだろう。
ここにある石柱は、元は一つの大岩であったかもしれず、そして幾度も繰り返えされた結果、こうした不可思議な光景が生まれたのかもしれない。
「とはいえ、ここまで極端なのは珍しい……。余り巣から遠ざからない性格だから、こういう事になっているんだろうか」
だとしたら、竜の塒は既に近い、という事になる。
「もうすぐ? もうすぐ、つく?」
「……かもしれないな。怖いなら、最初から抱き着いておきなさい」
「だいじょうぶっ!」
ふんすっ、と鼻から息を吐いて、リルは前のめりになって歩き出した。
「みててっ! ぜったい、こわがらないからっ!」
「おや、今日は随分元気だな」
「お母さんといっしょがいいから! おいてかれたくないもん!」
「そうか……」
私はふっ、と笑って相好を崩した。
恐怖を感じているのは、その尻尾を見れば分かる。
リルは感情と尻尾が連動しているから、嘘を言えばすぐに分かってしまうのだ。
だから、今の強がりはただ一緒に居たい、その一心から出たものと分かる。
その心意気だけは、汲んでやりたかった。
「それは良いけど、先行しようとするのは止めなさい。足元は滑り易いからね」
「んぅ……、うん!」
自分の勇気を誇示したいのだろう。
一瞬、迷う素振りはしたものの、母の言い付けを守る方が大事、と分かってくれた。
「私も、ここまで歩くなんて、考えてなかったからなぁ……」
冬靴を用意しているものの、登山に適した靴とは言えない。
場所も殆ど斜面がなく、平地と似た形だから、今は何とかなっている。
しかし、例えば急な突風で足元を疎かにした時、この氷雪は簡単に足を奪っていくだろう。
「それに、ほら……。温かいお茶を飲みなさい」
空間内に仕舞っていた水筒を取り出し、同じく取り出したカップに注ぐ。
未だ湯気を上げるお茶を見て、リルは怪訝に首を振った。
「でも、のど、かわいてない」
「自分じゃ気付き難いけど、渇いたと思ってからでは遅い。小まめに飲んでおくのが大事なんだ」
寒い中で汗が掻き難いせいもあり、自覚しない事は大人でも多い。
しかし、乾燥した空気のなか歩くのは、予想以上に身体に渇きを与えるものだ。
冬山の死亡事故が多いのは正にこれで、保温された飲み物でなければ、逆に体を冷やして余計、死に近づく。
高い魔力を持つか、多くの物を収納できる鞄でもなければ、こうした準備は行えない。
冬の雪山に昇るのは、それゆえ一般的に死の行軍とされる。
――それを思うから、竜に許可を願い得たという話にも、重みと誠意が見て取れるのだが……。
「ほら、少しだけでも、飲める分だけ飲んでおきなさい」
重ねて勧めると、リルも素直に口を付ける。
しかし、やはり全部は飲めず、三割程を残してしまった。
その残りを私が飲み、足りない分を加えて飲み干してから、水筒を空間へと仕舞った。
今はまだ歩き疲れるに早すぎるが、だとしても、歩を休める時間は短い方が良い。
塒は近い、と当たりも付いた事だ。
私はリルの手を握り直し、それらしい洞穴がないかどうか、探しながら歩を進めた。
※※※
そうして更に十分ほど歩いた所で、それらしき洞穴を見つけた。
熊などの大型の獣、あるいはそれより巨大な魔獣であろうと、余裕で通れる横幅を持つ洞穴だった。
「お母さん、ここアヤシイよ……!」
「うん、いかにもって感じだな」
リルが興奮して指差す方向を見て、私も頷いて返した。
その興奮ぶりを見ると、まるで大冒険して来たかの様だが、卵駕籠から降りてここまで、僅か三十分しか経っていない。
リルからすれば、それでも未知の白銀と岩ばかりの世界で、十分な大冒険だったかもしれないし、子供らしい感想と言える。
「さて、それじゃあ、行ってみよう」
「う、うん……っ!」
リルの尻尾がピンと上を向き、毛は総逆立ちになっていた。
私は小さな手を握り直すと、一歩進んで顔を見る。
「大丈夫、怖い事にはならないよ」
「ち、ちがうよっ! こわがってない! ただ……ただ、おくがくらいなぁ、って……!」
それを怖がってる、と言うんじゃないのか。
そうした言葉は、喉元ギリギリで飲み込んだ。
その代わりに前方へ手を放り、ボールを投げるようにして魔力を飛ばした。
放り投げた魔力は、そのまま周囲のマナを吸い取り、代わりに光を放ち出す。
それが五メートル程の天井付近で、ランプ代わりに周囲と足元を照らしてくれた。
「……さ、これで大丈夫。行くよ、リル」
「う……、うんっ!」
身震いを一つして、リルはギクシャクと歩き出す。
恐怖を感じているが、恐怖に負けてはいない。
実際、その気概は大したものだった。
まだ幼いリルにとって、ただ巨大な相手というのは、恐れるには十分な理由だ。
暗がりも同様で、単なる倉庫の奥が、怖いと感じる年頃なのだ。
不甲斐ないと思われたくない、その一心が、リルに歩む勇気を与えていた。
「しばらく進むと、雪も入り込まなくなる。足元が滑り易くなるから、十分気を付けなさい」
「う……、うんっ!」
リルの握る力が強まる。
洞穴は軽い斜面になっていて、下へと進む形だ。
雪の代わりに凍り付いている箇所もあり、踏みしめると時折、パキリと音がなった。
凹凸の激しい部分と、そうでない部分があり、中央付近はその凹凸が殆どない。
その代わり、水が溜まり易くなっていて、歩くのならば外側の方が良さそうだった。
「何かが這いずった跡がある。竜が出入りしている証拠だろう。その辺りは歩かない様にしような」
「んっ!」
言葉短く頷いて、私が引く手に任せてリルも移動する。
獣の本能がそうさせるのか、奥へ足を踏み入れる程に、その緊張度が増しているようだ。
そして実際、竜の気配を僅かに感じ取れる様になっている。
この奥地で待ち構えているのは間違いない。
「大丈夫、取って食われやしないさ。もしもその気があるのなら、ここまで足を踏み入れさせはしないだろう」
「そ、そうなの?」
「そうとも」
私が力強く断言すると、リルは目に見えて安堵して、顔色を良くした。
フンダウグルが火を吹き、噛みつこうと顔を近付けた事は、しっかりリルの心奥深くに爪痕を残したようだ。
実際――。
ここの竜……ウィンガートがその気になれば、外の光りが届かない範囲まで足を踏み入れた時点で、息吹を吐き出していただろう。
竜の息吹とは、竜が行う基本動作であると同時に、必殺の武器だ。
不愉快と感じて、使わない道理がなかった。
「おや……」
更に歩き続ければ、途端に広い空間へと出た。
岩の柱が乱立し、天井を支えているのは、外の降り立った光景を彷彿とさせる。
柱の間隔も広く、竜が一体通るのに、何の支障もなさそうだ。
見た目に変化が現れたが、纏う空気にも変化があった。
言葉で表現し難いが、重くなったのは間違いないと思う。
リルの掴む手が更に強まり、一歩の歩みが遅くなっている。
私はリルを元気付けようと、背中をポンポンと叩く。
そうすると、足を止めて弾かれた様に顔を上げた。
しかし、私を見るなり緊張を解いて、ゆっくり息を吐き出す。
励ます笑顔を向けると、リルは力を抜いて歩き出した。
そして、一歩踏み出したその瞬間、洞窟内全体を震わすような、厳かな声が響き渡った。
「……ようこそ、客人。待っていたよ」
「ならば、迎えの一つも出してくれたら、こちらとしても助かったんだがな」
「そういう訳にもいかないのさ。……今はなるべく、外に出たくないんでね」
厳かな声は、女性のものだった。
四十代、ないし五十代を思わせる、威厳ある声だ。
前方には暗がりが広がるばかりと思っていたが、声が聞こえたの同時に、闇が振り払われる。
そこには、白い鱗と甲殻を持った、美しい竜が寝そべっていた。
ただし、ヴェサールの時とその姿は少し違う。
両腕を交差して、その上に顎を乗せる所までは同じだが、体躯の向きが違う。
まるで、何かを私から隠すかのような体勢だった。
「人との諍いが理由か?」
「それもある」
謎めいた言葉を吐いて、ウィンガートは私とリルを舐める様に見つめた。
それから、からかう様な声音で言う。
「我が山稜に招き入れたのだ。歓迎としてはそれで十分だろう? 事前に話を貰ってなかったら、問答無用で焼き払うところだった」
物騒な発言から、人間との確執の深さを思い知らされる。
色々と難航しそうだ、と思いやられ、今の内から覚悟を決めた。




