竜の依頼と空の旅 その5
私は上部に設置された棚の扉を開き、そこから一本のボトルを取り出した。
竹で作られた水筒で、小麦の茎を用いたストローを使うことで、中身を溢さず飲める代物だ。
空に悪路はないものの、急な突風など、横揺れする原因は多々ある。
それを考えて、こうした汚し辛い物を用意していた。
他にもナッツを練り込んだクッキーもあって、リルの肩を叩いて眼の前に差し出す。
振り向いたリルは、瞳を輝かせて喜んだ。
「わぁ……っ! おかしだ! こっちはなに?」
「リルが好きなリンゴジュースだよ。到着まで、飲んだり食べたり……ゆっくり過ごしなさい」
「うんっ!」
両手で受け取ったリルは、窓にかぶり付く事こそ止めたが、その視線は今も外にある。
クッキーを小さな口に押し込んで、ジュースで流し込みながら、飽きることなく見続けていた。
「お母さん、あれみて! すっごくはたけ、おっきいよ!」
リルが顔を向けた方には、地平線まで広がる農地が広がっていた。
農業に力を入れている領地などでは、そうした光景は決して珍しくもない。
我が家の畑しか知らないリルには、さぞ新鮮なものとして映っただろう。
「あぁ、大きいな。うちよりずっと大きい」
「ねー!」
その面積に比例するだけの収穫があり、そしてそれを賄う為の人口がある。
リルが見た街の人間なども、その恩恵を預かる一部分だろう。
ただし、そこで働く農奴たちの扱いは酷いものだ。
農奴は基本、柵の外には出られない。
生まれて死ぬまで、一生畑を耕して生きるものだ。
しかし、中には柵の外を夢見て、逃げ出す者もいる。
あの大地の先には何がある、空の果ては何処まで続いている、という好奇心を持つことは、誰にも止められないからだ。
だが、そうして逃げた柵の向こうが、同じ領主の別の農地だったと知るのだ。
そうした農奴は、次から扱いが極端に悪くなる。
所詮、人が目に見える範囲など極狭い範囲でしかなく、そして絶望の内に果てるのだ。
そうした残酷な世界があるのだと、リルはまだ知らない。
いっそ、知らないままで良い、とも思う。
しかし、世界の一端を知る者として、そして子を教育する母として、教えるべき事は教えなければならなかった。
「リル、こうして見る世界は、無垢で美しいかもしれない。でも、ただ美しいだけじゃない事も、知っておかねばならないよ」
「……んぅ。よく、わかんない……」
「世の中にいるのは、良い人ばかりじゃないだろう? 同じ様に、世の中で起きていることも、良いことばかりじゃないんだ」
「まちで、リルがおいかけられた……みたいに?」
私はゆっくりと頷いて、リルの頭に手を置いて、柔らかな髪の毛を梳く。
「リルには助けてくれる人が、傍にいた。それに、もし捕まっても、お母さんが必ず助けただろう」
「うんっ!」
リルは嬉しそうに頷き、にっかりと笑った。
「でも、傍に誰もおらず、そして助けて貰えない人もいるんだよ」
「……どうして? みんなにも、お母さんいるんじゃないの?」
「母は強し。……確かにそうだが、本当の逆境を退けられる者は少ない。……本当に、少ないんだ」
私は上から下へと、何度も繰り返し頭を撫でながら梳いた。
裕福な生活をしている者は、全体の割合から考えても恐ろしく少ない。
そして、裕福でなくとも、生活するのに困らない収入がある者も、また多いとは言えなかった。
その日を凌ぐのに精一杯、そういう者の方が多いのが現状で、それが当然とも言えた。
欲しい時に欲しいだけ、甘味を摂取できるリルは、相当恵まれていると言える。
「なんでかな……。みんな、もりにすめばいいのに……」
「森に住めば、皆んなが幸せになれる訳でもないが……」
私は苦笑混じりにそう言って、話を続ける。
「そう簡単な話じゃないからね。それに今が苦しくとも、その苦しみから脱出する方法を知らない人は多いんだ。人というのは、案外自分を助けるのが下手なんだよ」
「でも、それってヘン……。なんかヘン……」
リルは悲しげに目を伏せる。
悲しんでいるのはその様子から事実だと分かるが、その間もクッキーに伸びる手は止まっていない。
見る人が見れば、恨みにも思う光景かもしれない。
しかし、優しい世界で生きて来たまだ幼いリルに、正しく想像出来ないのは、むしろ当然でしかなかった。
「でも、自分一人では助けられないから、多くの人で助け合おうとするんだ。一人じゃ無理でも二人で、もしくは三人四人……十人いれば、もっと出来る事が増えるだろう?」
「……そうかも!」
想像していない答えが返って来て、リルは顔を綻ばす。
暗かった雰囲気も、それで唐突に消え失せた。
「だから、まちがあるんだ!」
「そうとも言える。でもね、重要なのは、それを纏めるリーダーだ。一人一人、全員を助けるのは、とっても難しい。意見を纏めて、皆んなが幸せるになる方法を考える……、その為に王様がいるんだ」
「おーさま……」
「辛い思いをする人、悲しい思いをする人……。それらが一人でも少なく済むかどうかは、その王様の手腕に掛かってる。愚かな王の元で生きる民は不憫だ」
「ふびん……」
言葉の意味が分からず、首を傾けたリルが、そのまま私の身体に頭を預けてきた。
私は頭から手を退けて、そのままお腹辺りに手を回して抱き締める。
「かわいそう、って意味だよ。立派な王様なら、それだけで全員が幸せになれる程、事は簡単じゃないが……。私欲で生きる王の民が、幸せだった事はない……」
「ここからみえる、すんでるひとたち……かわいそう?」
「全員がそうな訳じゃないよ。でも、ここから見るだけでは、そうした事も分からないだろう」
「いつか、ちゃんとみてみたい!」
リルの目には、単なる好奇心だけでない、向き合う意志が感じられた。
それで良い、と私は思う。
幼いから、まだ多くの事は分からない。
そこにどの様な残酷さが隠れているかも、決して分からないだろう。
しかし、それを聞いて森の中に籠もりたい、というのではなく、向き合う姿勢を見せたことが、何より嬉しかった。
私はリルを強く抱き寄せて、その頭に頬を当てる。
優しい気質を持つこの子を、理不尽な暴力から守れる様、育てなければと誓った。
「その内、行ってみよう。リルと同じような、獣人だけが住む国もあるよ。そういう所も、見てみるべきかもしれないね」
「だけ……。だけのが、あるの?」
「初めて見た街が、あれだったから勘違いするのも当然だけど……。色々な種族が生きる国の方が、全体的に見ると少ないんだ」
「はぇ〜……」
リルが呑気な声を返して、竹筒のストローから、ジュルルと音を立てて飲んだ。
既に飛行時間は長く、そろそろ二時間に達しようかという頃合いだ。
飛び越えた山も一つは見たし、目的地は三つ目の山という話だった。
そうこう思っている内に、田園地帯は抜け、木々の数が増えてきた。
人里らしきものは見えなくなり、人の手の入らない獣と魔物の世界だ。
強い者が勝ち、強い者が正しいという、ごく自然な生態系が成り立っている。
ここからでは森の様子は分からないが、我が家付近とそう違いはないだろう。
木々の密度が増え、そしてすぐに山肌が見えてきた。
ヴェサールが言う、二つ目の山が、恐らくここだった。
目的地は、そう遠くなさそうだ。
あと一時間程で到着出来そうだし、空の旅は問題なく、終わりを迎えられそうに思えた。
「しかし、竜と争う、人か……」
「お母さん……?」
私の独白に反応し、リルは不安そうな顔で見上げた。
それに何でもないと返し、リルを抱きかかえてお腹辺りを撫でる。
リルはそれで安堵して、私に身体を預けたまま、窓の外の景色を眺め出した。
――竜と争っても問題ないとする王は、果たして良い王と言えるだろうか。
ただし、竜からの言い掛かりであったなら、当然私は人の味方をする。
だが、愚にもつかない事を考える王だった場合は……。
私は静かに息を吸い込み、それから細く長く吐き出した。
――そのとき私は、人間に対して楽しくない決断を下すだろう。
静かな決意を下した時、空の旅は二つ目の山を越した。
目的地は近い。




