冬の訪れ その3
――冬は嫌いだ。
精霊送りから三日経ち、私は暖炉の前で椅子に座りながら、久しぶりに出来た空き時間で本を読んでいた。
リルは珍しく傍におらず……それというのも、今まさに私が与えた課題の最中だからだ。
その代わりにアロガが近くで寝そべり、私は時折その毛皮を撫でては、感触を楽しんでいた。
本を読んで、リルに与える次の課題を考えつつ、窓の外へ視線を移す。
雪こそ降っていないものの、冬の到来を感じさせる空気が、そこにはあった。
――冬は嫌いだ。
大事な友人を、喪った日のことを思い出す。
出会ってから日が浅く、長い付き合いという訳でもなかったが、生きる懸命さ……命を繋ぐ意志を目の当たりにして、心に灼き付く人となった。
――彼女との約束を、私は守れているだろうか。
この頃、不意によく思い出す。
精霊や妖精、騒がしいのがいなくなったからだろうか。
姿が見えなくとも、その存在は私にはしっかり感じられていたから、誰もいないというのは妙な気分だ。
そして、いないことの不便も、同時に感じてしまっている。
精霊や妖精の多くがいない今、多くの事を自分でやらねばならない。
それがごく自然な事だと理解しつつ、しかし慣れた利便さを取り上げられたとなれば、面倒な気持ちも湧いてくるのだ。
別に全てを精霊に頼らずとも、魔術を用いて自力で解決出来るのも確かだが……。
しかし、例えば竈の火。
火の精霊は大抵、竈をねぐらにしていて、こちらの機微を感じ取って火を付けてくれる。
火を付けるというより、自身に纏う炎を活性化してくれる訳で、だから一々種火を付けたりという煩わしさがない。
精霊はマナを求める。
だから、特別それが濃い私の家に住み着くことで、十分対価を得ている形だ。
サボり癖があるのも確かなものの、それでもマナを放出してやれば、すぐに機嫌を治して精力的に協力してくれるものだった。
それを魔術で同じことをしようとすれば、非常に非効率かつ燃費が悪い動作になる。
精霊に助力を願う精霊魔術は、自身で一から十まで準備する魔術より、格段に楽だ。
精霊の機嫌次第で威力が変わったり、そもそも発動しないという欠点はあるものの、普段からしっかり世話していれば、そうした事は起こらないものだ。
それ自体が煩わしい、という理屈も非常に理解出来るし、冬に使えないという欠点もあるが――。
そこに目を瞑れば、余程便利なのが精霊魔法だった。
いや、冬に使えないというのは、便利以上に余りある欠点だというのも理解できる。
だから、冬の間の燃料は、竹炭などを利用する羽目になっている。
この森で薪になる木材はないし、竹炭は燃え尽きるのも早いが、贅沢は言ってられない。
何事も上手いようにはいかないものだ。
ただ――。
チラリ、と椅子に座って書き取りを頑張っているリルを見やる。
「……リルには、火の付け方その他諸々、教えておいた方が良いな……」
小声で呟いたつもりだが、ピクリと耳を動かして、リルはこちらに顔を向けた。
「なぁに、お母さん?」
「……いや、リルはこれからどんどん成長していくんだ。覚えていく事も、それに合わせて多くなる。一緒に、少しずつやっていこうな」
「うんっ! はやく、もりにいきたい!」
私は曖昧に笑って頷く。
何か色々と勘違いしているが、文字を覚えたら即ち、森に入れるという訳ではない。
単に教養の問題で、リルの将来を思って覚えさせている事だ。
ただし、勉強することのご褒美として、森へ連れて行って貰える、と考えている可能性はあった。
……それも一つの手かもしれない。
今は物珍しい事をやっているから、素直に書き取りしてくれている。
だが、冬の間いっぱい……もっと言えば、これから通年で勉強していくことを思えば、どこかで必ず嫌がるタイミングが出て来るだろう。
その時、短時間でも森に入らせ、望みを叶えると共に、ストレスを和らげてやる――。
ちょっとした思い付きだが、考える程にアリという気がしてきた。
今は腕の中で抱いてやれているが、それが出来なくなるのもすぐだ。
子供の成長は早い。
抱いて守ってやれている内に、森の危険に接してやるのも、一つの勉強になるのやも……。
私が密かにそう考えていると、リルが早速、飽き始めた。
書く手を止めて、物欲しげな視線を向けてくる。
今は見本に合わせて文字を書かせているだけだから、わざわざ隣に着いて教えてはいない。
そして、どうやらそれがお気に召さなかったらしい。
最初は意気込んでいた熱意も、今ではすっかり上の空だ。
「どれ……」
椅子から立ち上がり、テーブルの横に隣り合わせで座る。
進み加減を見てみると、今日の課題の半分程まで終わらせていた。
「……うん、半分まで終わらせたのか。偉いぞ、リル」
「んひひ……!」
褒められると素直に喜び、それでやる気を取り戻して木筆を握り直した。
リルに与えていたのは粘土板で、何度も書いては消してを繰り返せるリーズナブル仕様だ。
森の中で紙は貴重で、文字の書き取りに消耗できるほど贅沢には使えない。
だから使っている筆も、へら状の木の先端を細く割って、筆としたものだ。
それで粘土に線を引いて、読み書きの練習をさせていたのだった。
「……うん、そう。上手だ。でも、ここはもう少し、上下の線を同じにした方が良いな」
「……こう?」
「そう、そんな感じだ」
見本の方は、街で買った教本を元にしている。
最初に木筆の持ち方、実際の書き方まではしっかりと教えたのだが、そこから先は自己練習の範囲だ。
だから、一度見せたし、後はくり返し……と思っていたのだが、どうも私の認識は甘かったらしい。
よくよく考えるまでもなく、それだけで自主的に勉強する筈がなかったのだ。
真似ると一口に言っても、子供がやれば形も崩れる。
そして、それを矯正する指摘がなければ、歪なままで良しとしてしまう。
口出しして、しっかり直してやるまでが教師の仕事だ。
「……でも、初めてにしては、リルは上手な方だ。綺麗な文字だぞ」
「ほんとっ!?」
「あぁ、本当だとも。大人になっても、文字が汚い人、というのはいるものだ」
「そうなの? なんで?」
リルの素朴な疑問に、私自身、首を傾げる。
どうしてと言われても、それが個人の癖だから、としか言いようがない。
一度染み付いた癖は、相当な努力なくして消えないものだ。
そして、読み取り可能な文字ならば、殊更矯正しようともしないし、しろと強制される事もない。
「やろうという気持ちがなければ、大人だって出来ないものだからだろう。文字を書くのが仕事でない限り、汚くともそういうものだ、という慣れもあるだろうしな」
「なれ……? ほかのひともきたなかったら、リルもきたなくてもいい?」
「そんな事はない。綺麗な文字を書ける人というのは、それだけ教養が深いと思われるし、時として尊敬される。汚いより、綺麗な方がずっと良いぞ」
「んぅ……、そっかぁ」
私はリルの頭を撫で、それから文字で埋め尽くされた粘土板を指差す。
「大丈夫、このまましっかり書き取りしていれば、リルはきっと綺麗な文字を書けるようになるよ。皆に自慢だって出来る」
「べつに、じまんとか、リルどうでもいい……」
私は薄く笑って頷き、粘土板の文字をヘラで慣らして消した。
「そうかもな。でも、リルが一目置かれる文字を書けると、お母さんは誇らしい」
「うれしいの? お母さんが?」
「嬉しいとも。子が褒められて、喜ばない親はいないよ」
「そうなんだぁ……」
呟く様に言うと、リルは木筆を持ち直し、背筋を伸ばして粘土板に向かい合う。
「お母さん、リル、がんばる!」
「うん、応援してる」
そう言って頭を撫でればやる気を出し、意気込み書き始めたのだが、それも再開されてすぐに絞れる。
持ち慣れない木筆を握っていることも、疲れを増幅させる原因のようだ。
頭の耳をペタンを畳んだリルは、涙ながらに訴えた。
「どうして、もじってこんなにあるの?」
「どうして、か……」
私は苦笑しながら頭を捻る。
しかし、どう言い繕うとも、そういうものだから、としか言えなかった。
「一つの音を形にしようとした時、必要なのがその数なのさ。それに、足りないと気付いて増えた文字もあるからな……」
「え〜……。リル、すくないときのほうがよかった」
「どうかな……。たとえば、この文字とこの文字、形が良く似ているだろう?」
私が木筆を借りて書いたものは、一つ目の同じ文字を上下に重ねたものでしかなかった。
「うん、にてる。……すごいにてる」
「音の発音が良く似ているからだ。それに、昔と今では発音の仕方も変わったし、その文字がなかった時代は、同じ文字で表記していた。……すごく不便だろう?」
「そうなの?」
「全く意味合いが違ってしまったり、正しい言い方が文字の上から伝わらなかったりした。どちらで言えば良いのか、どちらで解釈すべきなのか、前後の文脈から一々読み取る不便さがあったんだな」
「……わかんない」
途端に顔を曇らせたリルに、私は頭を撫でて謝った。
子供に理解できない内容を、つい口にしてしまうのは私の悪い癖だ。
「とにかく、必要だから……ないと不便だから、これだけ文字が増えたんだ。仕方ないと諦めるしかないな」
「はぁ~い……」
不満そうにしながら、それでもしっかり文字の書き取りを続けていく。
そうして約一時間が経った後、ようやく終わりを迎えるまで、私も書き取りに付き合ったのだった。




