母の副業 その7
「手を貸してやるのは良いんだが……」
「良いのか……!?」
ラーシュは目の前に吊るされた餌に、躊躇う事なく食らい付いた。
テーブルに手を突いて、前へせり出して来る顔を、手で払って追い返した。
「しかし、ツケは既に五つ溜まってるんだぞ? その事実まで忘れられては困るな」
「……うっ! あぁ、分かってるさ……」
「で、ここからまた、ツケを貯めても良いのか? 言っておくが、貸し一つを小さく見てるなら大間違いだからな」
「わ、分かってるさ……!」
顔を引き攣らせている所からして、その重大さはしっかり理解出来ているらしい。
しかし、事の大きさまで、理解してるか怪しいものだ。
私が胡乱な視線を向けると、オンブレッタが胸を叩いて頷いて来た。
「その辺りは、私の方が管理しておきますよ。たかだか果物を奢った程度で、一つ返上できた、なんて思われては大変ですから」
「……そうだな。お前に分かって貰えてる方が、色々と安心できるか」
「えぇ。小さく見たり、反故した時、どうなるかなんて考えたくもないですから。きっちり返済して貰いますとも。その際は、是非私の方に報告頂けると幸いです」
私が満足気に頷くと、オンブレッタは全てを心得ている表情で一礼した。
しっかり者の彼女が請け負ってくれるなら、私としても安心できる所だ。
ラーシュに一任するなど、恐ろしくて出来たものではない。
これで牽制も出来た事だし、貸しを返さない内に新たな依頼など、これからして来なくなるだろう。
その事実だけでも、こうして話を聞きに来た価値があった。
「……さて。それじゃあ、さっさと済ますか」
私は静かな寝息を立てて、身体を預けているリルをそっと退かす。
そうして、自らもソファーから腰を上げると、そこに優しく寝かせた。
「何か毛布をリルに」
声音を落としてオンブレッタに頼むと、心得た彼女が足音を立てずに退室して行く。
そうして幾らか待つと、手には厚手の毛布を持って帰って来た。
それを受け取り、リルの肩までしっかりと毛布で覆ってやる。
幼い寝顔に、頬を緩めて見つめた。
「すぐに帰って来るからな……」
頭を撫でたい衝動を、グッと我慢して傍を離れる。
そうして、テーブルの上に置かれた羊皮紙を、改めて手に取った。
冒険者はギルド加入時に、親指で血判を押す。
自分の名前さえ書けない者が多いから、そうした制度がある訳だが、これた単にサイン代わりに捺す物、という訳でもなかった。
血液は魔術的にも個人情報の塊だ。
だから、そこを精査して位置情報を割り出すのは、決して難しい事ではない。
ラーシュ達が後数日で国境を越える、と判断したのも、対象の現在位置が分かったからだ。
しかし、それは相手も十二分に理解している事だ。
だから位置が分かったとしても、そう簡単に追い付けないルートを選ぶ。
馬が使えない山林であったり、断崖絶壁の山を越えようとしたりもする。
その上、距離が遠退くほど、その位置情報は割り出せなくなっていく。
海を越えて別大陸に、ともなれば、尚さら難しいだろう。
彼らとしては、全くの別大陸で一から始めるにしても、実力はあるからやっていける自信があるかもしれない。
一年程度は擽る事になるのだろうが、新天地での再出発と思えば、そう悪く考えたりしないのかもしれない。
私はソファーから離れ、羊皮紙を手に持つと、オンブレッタに尋ねた。
「空き部屋はあるか? 出来れば五人ほど入っても、問題ない広さが良い」
「では、一階倉庫へご案内します。多少、物音が鳴っても問題にならないでしょうし」
「おう、よろしく頼まぁ。俺はリルちゃんを見ておくぜ」
「いいや、お前も出てろ。リルに近寄るな」
にべもなく言うと、ラーシュはショックを受けて打ちひしがれた。
だが、良く心得ているオンブレッタが、その肩を掴んで立ち上がらせる。
そうして、そのままラーシュを引き摺って共に退室した。
「ご安心を。この後すぐ部屋に戻り、リルちゃんは責任持ってお預かりしますから」
「うん、お前なら少しは安心できる。それに、どうせ長くは掛からない」
一階に下り、ロビーを経由して倉庫へ向かう。
扉を開けると埃と黴の臭いが鼻をつき、思わず顔を顰めてしまった。
「では、後はお任せ致しますね」
「あぁ、捕縛する縄でも用意してろ」
「それもこの倉庫にありますので」
「なるほど、良い場所を選んだな」
私がチラリと笑ってオンブレッタに微笑み、次にラーシュへ顔を向ける。
「準備しておけよ。多分……、三十分と掛からないから」
「幾らなんでも速すぎ……いや、そうでもないのか。ともかく、待ってるぜ」
私はそれに無言で頷くと、倉庫の床にマーキングを施す。
それは目に見える分かり易い印などではなかったが、術者にだけ分かる、確かな印として刻まれた。
そうして、次に羊皮紙の拇印を指でなぞる。
本来は専用の設備なくして解析できない、血液からの情報を読み取る方法だが、私にとっては造作もなかった。
そうして解析が終了するなり、魔力を練ってその場から転移し、姿を消した。
※※※
次の瞬間、軽い浮遊感と共に視界が切り替わる。
それは高い山脈の尾根で、周囲は一面の銀世界に覆われていた。
急激に変わった標高と寒さに、一瞬、息が詰まる。
吹雪いてはないものの風は強く、下手をすればそのまま尾根から滑り落ちる所だった。
突然の状況に私も驚いたが、それ以上に驚いたのは“黒鉄の戦鎚”だろう。
彼らはろくな防寒具も身に着けておらず、今にも凍えそうな顔を引き攣らせていた。
「――な、何だッ!? お前ら、こいつ……ッ!」
仲間に警告を呼びかけ、自らも武器を取ろうとした――その一声。
それが、彼に出来た唯一の抵抗だった。
次の瞬間には、私の拳が顎先を掠める。
それで脳を揺さぶられ、呆気なく昏倒した。
背中に戦鎚を背負っている事から、彼がリーダーで間違いないだろう。
その戦鎚を構える事なく、彼は雪の上に倒れ込んだ。
抵抗しようとしたのはリーダーだけで、他の四人は既に戦意喪失している。
誰も彼に続いて、武器を手に取ろうとはしなかった。
震えているのは、寒さから来るものだけではないだろう。
この状況に絶望しているのは、彼らの表情からも明らかだった。
「ギルドに処刑人がいるって噂は、本当だったのか……」
「リーダーが一撃で……」
「だから俺は、素直に出頭しようって言ったんだ!」
彼らは皆一様に、戦意を喪失している。
そして、話を聞く限り、逃避行はリーダーが強行した事でもあったようだ。
しかし、そのリーダーを諌められなかった時点で、彼らが加担しているも同様だ。
文句を言いつつ、こうして人の通らない道を進んでいるのだから、新天地でやり直す計画に、仄かな希望を抱いていたのだろう。
ただ、ろくな防寒具も身に着けてないのは、これが突発的な逃避行である事も意味していた。
追手を恐れてこの道を選んだにしろ、防寒具なしに踏破するのは無謀極まる。
あるいは、その防寒具すら買い込む姿を見られたくなかったから、かもしれないが、どちらにせよ賢い選択ではない。
「……お前達、“黒鉄の戦鎚”で間違いないな」
「そ、そうだ……! 頼む、命だけは……!」
「それを決めるのはギルドだ。私じゃない」
にべもなく言い放つと、最後尾にいた冒険者が身体を翻した。
「い、嫌だ……! 嫌だぁぁぁ……!」
振り返った先は、男四人が歩いた事で、膝まで埋まる雪道となっていた。
幾ら逃げようとしても、土の地面同様には走れない。
しかし、私にとっては関係なかった。
誰も歩いていない雪の上を、僅かな足跡だけ付けて走る。
雪の上を土の地面と変わりなく走り抜けると、その背後に追い縋って捕まえた。
「い、嫌だ……! 嫌――ッ!」
男の抵抗は激しかったが、長く続かなかった。
掴んだ襟首を無理やり後方へ引っ張り、それで男は呆気なく宙を飛ぶ。
そうして元の位置まで戻され、雪の上を転がった。
私は雪の上を戻りながら、彼ら四人に指を突き付ける。
「――警告だ。これ以上の抵抗は、戦意ありと見做し、攻撃する。それが嫌なら手を上に挙げろ」
他の男達は従順だった。
只でさえ青かった顔が、死人の様に白くなっている。
私は息を一つ吐くと、彼らに認識阻害の術を掛け、ここで出会った記憶を飛ばす。
それでようやく、彼らを倉庫へと転送する準備を始めたのだった。




