母の副業 その3
私達の前に茶器を置いてからも、オンブレッタは部屋を辞去しようとはしなかった。
胸元にトレイを抱いて、興味深そうにリルを見つめている。
その視線を怖く感じたのか、リルが私の腕にしがみついては顔を伏せる。
オンブレッタの熱意あり過ぎる視線に、私まで不穏なものを感じ始め、つい咎める様な視線を飛ばした。
「リルを怯えさせないで貰えるか。余り人に慣れてないんだ」
「あっ、これは失礼を……!」
オンブレッタは素直に詫びて、丁寧に頭を下げる。
その態度から悪気があっての事ではない、と分かった、
ただし、それにしてはリルを見る目は異常だった。
値踏みしている訳でもない。
かといって、差別する目でもなかった。
その視線を言葉にするなら、純粋な興味、という事になるだろう。
何をそこまで、と思うものの、悪意でないなら、強く咎められるものでもなかった。
私はリルの頭を撫でてから、オンブレッタの方に手を向ける。
「さぁ、リル。初めて会った人にするご挨拶は?」
「んぅ……。あの、リルですっ! はじめまして……」
「まぁ、可愛らしいっ! 私はオンブレッタって言います。レッタお姉ちゃんで良いですよ」
「レッタ……おねえちゃん?」
リルが上目遣いにそう言うと、胸元に抱いていたトレーが、めこりと凹んだ。
「ん゙んん……っ! リルちゃん、可愛いっ! 抱き締めて良いですかっ!」
「駄目だろ。いま目の前でトレーを握り潰そうとした危険人物に、リルを抱かせて堪るか」
「そんな、殺生な……!」
オンブレッタは本気で悲しんでいたが、ここは譲れなかった。
可愛い可愛いと連呼しながら、リルが潰されるのを座視する訳にはいかないのだ。
しばし、ガックリと項垂れていたオンブレッタだが、ラーシュが入室して来て顔を上げる。
ラーシュの手には、先ほど言っていた通り、何枚も重ねた羊皮紙が握られていた。
私達と対面の席に座ると、疲れた息を吐いて、羊皮紙をテーブルの上に投げ捨てる。
「それで……、気になってたんですけど!」
「おいおい、待て待て。俺が来たのに、まだ無駄話続けようってのか?」
本来、ラーシュが来たのなら、速やかに退室しなければならない立場だ。
それにもかかわらず、オンブレッタは普通に雑談を続けようとしていた。
咎められたオンブレッタは、むしろ当然、と悪びれることなく頷く。
胸元で歪んでいるトレイが、力説すると共に、更に歪んだ。
「だって、今の内に訊いておきませんと! さっきから仲睦まじ気な様子ですけど、リルちゃんはやっぱり……紫銀の方のお子さんなのですか?」
「そうだ、私の娘だ」
「あぁ、そうなんだぁ……!」
オンブレッタは感激して目を輝かせていたが、その対象的にラーシュは深く項垂れる。
口から吐く息から魂が漏れていそうな程、そこからは暗い雰囲気を醸し出していた。
「前から、お子さんがいるって話、お聞きしてはいましたけど、私はてっきりギルド長を袖にする口実だと思ってたんですよ。全然、お子さんをお連れ下さいませんでしたし……!」
「荒くれ者が目立つギルドに、可愛い幼子を連れて来て堪るか。……だが、リルもそろそろ、分別を付けられて良い年頃だ。社会勉強の為にも、少しずつ街に触れさせようと思っていた所で……」
「なるほど、ちゃんと考えがあっての事だったんですねぇ……!」
話を聞いていたリルは、私の言葉にピンと耳を立て、期待に満ちた視線で見上げた。
「ほんと!? また、街にこれる?」
「あぁ、少しずつな。毎週、毎月、とは行かないし、これから冬だから、尚さらそういう話にはならないが……。リルはこれから、遊ぶだけじゃなくて、学ぶ事も取り入れて行かなきゃならない」
「まなぶ……? おべんきょ?」
「そう、そういう事も含めて、色々だ」
勉強と聞くと、街に遊びに行けることなど、すっかり吹き飛んでしまったようだ。
意気消沈して顔をうつむかせている。
今は遊びたい盛りだから、尚の事だろう。
しかし、リルがこれからどう生きるにしろ、学びは失わない財産となるし……。
何より、リルには必要なことだ。
それは単に、子供教育という枠組みを越えた、非常に重要な部分だ。
それに気付けるのはずっと先の事だろうが、始めるのに遅すぎるのは問題だった。
冬の間は自然、外には出なくなるから、勉強の時間は増えていくことだろう。
そういう意味でも、街には中々行けるタイミングがない。
消沈させたリルの頭を、優しく撫でる。
嫌だと態度で示していても、撫で続ければ、自然と尻尾も揺れた。
リルは尻尾の感情を隠せない。
だから私にも、自然と口の端に笑みが浮かんだ。
「はぁん……、お母さんの顔ですねぇ」
オンブレッタが感嘆にも似た息を吐き、しみじみと呟く。
「いや、他の誰かに見られなくて良かったですよ。そんな優しげな笑顔が見られるなんて、わたし思いませんでした」
「……変な顔してたか?」
頬を擦りながら言うと、オンブレッタは逆です、と力説する。
トレイはその力説に押されて、更に歪む。
既に最初の面影はなく、トレイは無様なオブジェと化していた。
「いや、紫銀の方って言ったら、いつも冷たい無表情ってのが相場だったじゃないですか。優しげな視線や、優しげな言葉でさえ、掛けられた人なんていないと思いますよ」
でも、と一度言葉を切って、リルの方へと視線を移す。
「リルちゃんを見る時や諭す時は、母性と言いますか……。母の愛が溢れていて……。そういう笑顔を向けられたら、男だったらコロっと行っちゃいますよ。うちの長なんて、それでショック受けてるじゃないですか」
「お前に……、本当に子がいるなんて……」
打ちひしがれたラーシュは、頬が痩けてさえいるかのように見えた。
しかし、私は嘘など言ってこなかったし、頑なに信じなかったのは向こうの方だ。
「だから、前から言ってたろう。私に気を向けるのは止めろ。もういい歳なんだから、さっさと嫁さん探せよ」
「俺はお前が良かったんだよぉぉぉ……!」
ラーシュはそのままソファーに横倒れになって、しくしくと泣き出した。
見ているだけ――いや、視界に入れているだけで鬱陶しい。
「そして、私は無理だと何度も言ってたけどな……。興味がない、口説こうとするな、そう何度も言ったぞ」
「言ったけどよぉ……! 一度フラれて諦めるなんて、俺には出来なかったんだよぉぉ……!」
ラーシュは突っ伏したまま慟哭した。
今までずっと脈ナシと伝えて来たし、二人だけで食事を共にしたことさえない。
誘われる事はあったが、常に拒否し続けていた。
それなのに、もしかしたら、を期待できるラーシュの方にこそ問題がある。
「まぁ、お美しい方ですからねぇ。でも、明らかに高嶺の花だったじゃないですか。今でも付き合いが継続してるだけでも、感謝する所ですよ。まぁ、それだけ相手にもされてない、って事かもしれませんけど」
「どうしてお前は、そう傷に塩を塗ること言うんだよ!? 大体――ッ!」
ラーシュはソファーから勢い良く顔を上げ、指を一本突き付けた。
「一体、その野郎はどういう男だ! この俺が見極めてやる!」
「何でギルド長に認められる必要あるんですか。最初から無関係じゃないですか」
「お前は何で、そういう心にもない事言うんだ? 同じ男として、気になるに決まってるだろ!」
「でも、リルちゃん結構、大きいですよ。最初から出番なかったんじゃないですか?」
その言葉に、ラーシュの動きが止まる。
胸に何かが刺さった体勢で、呼吸も荒く震えていた。
「ねぇ、リルちゃん? リルちゃん何歳?」
「リル? リル、五さい!」
「あらぁ、ちゃんとお歳を言えるなんて、偉いんだぁ……!」
「んひひ……!」
リルが笑うと、オンブレッタは悶えて身体を左右に揺らす。
そうしてしばらくトリップしていた彼女だが、ふと我に返って質問を飛ばした。
「うちのギルド長じゃないですけど、でも紫銀の方を射止めた男性は気になります。
ねぇリルちゃん、お父さんってどういう人?」
「んぅ……、おとぅさん? おとぅさんってなぁに?」
「え……? お父さん知らないの?」
「しらない」
それまであった、どこか明るい雰囲気が一気に固まる。
空気が一気に重くなり、二人から窺うような視線が向けられた。
リルが言ったのは真実だ。
リルは父親の存在を知らない。
そして、記憶になくて当然だった。
いつか話す機会はあると思った。
それが今日の様な日とタイミングとは思わないが、簡単に言うには良い機会かもしれない。
私はリルの頭を撫でつつ、ラーシュとオンブレッタを見ながら言った。
「リルに父親はいない。……そして、これからも会う事はないだろう」




