プロローグ その3
リルの元へ帰ると、丁度目を覚ます所だった。
アロガの腹の内側で丸まっていたリルは、私が横へ座り直すタイミングで瞼を震わす。
「うぅ……、うぅん……っ」
アロガの柔らかい腹部に、顔を押し付け寝返りを打つと、丁度私と目が合う。
額に掛かった髪をやんわりとどかしてやりながら、薄っすらと微笑んだ。
「おはよう、リル」
「お母さん……っ!」
リルは両手で、アロガの腹を強く押し込みながら立ち上がる。
それに迷惑そうな顔をさせたアロガだが、こうした容赦のなさはいつものことで、慣れたものだ。
リルはそのままの勢いで私に抱きつくと、胸の谷間に顔を埋めた。
「なんだ、甘えん坊さんだな」
「だって、途中いなかったから……!」
「おや、気付いてたのか……」
細く撫で心地の良い髪を指で梳きながら、困った様に笑う。
リルは胸の間から顔を上げて、不満そうに唇を突き出した。
「ぶー……」
「ぶー垂れても、お母さんにだって仕事があるからね」
「そうだけど……」
「それに明日……また少し、家を空けなきゃいけないし」
「えーっ!?」
リルは大仰に驚いて、目をまん丸に見開いては大口を開ける。
「ヤダヤダ! お母さん、いっちゃヤだ!」
「リルは強い子だ。それにアロガもいる。少しくらい平気だろう?」
「イヤー!」
リルは胸の中に顔を埋め、両手両足を使って私に抱きつく。
テコでも離さない構えだが、そうは言ってもやらねばならない。
私自身、リルから離れるのは辛い。
一時でも離れたくない気持ちは同じが、森の巡回は必要なことだ。
森の入口を何者かが通過したら、すぐに分かる様になっているので、侵入者がいるのは既に判明している。
その為の対処をする必要があった。
侵入したからといって、私たちが住む森の深奥に辿り着く事はない。
それが分かっていても、これを放置する事は出来なかった。
単に身の安全を守るだけでなく、これは森の平和を乱す事に繋がる。
将来への禍根を増やす事にもなろうだろう。
だから、不安の種を早期に摘み取る為にも、傍を離れて対処するのは必要な事だった。
「なるべく早く帰って来るから……。ほら、リルは私の子だろう?」
「うん……」
「私の子なら強い筈だ。良い子だから、我慢できるな?」
「うぅ、ん……。うっ、ゃっ、やぁぁぁ……!」
とうとうリルは、抱きついたまま泣き出してしまった。
子供だけで長い時間を過ごすのは、アロガがいても不安だろうと思う。
食事の準備にしても、リルがやる必要はなく、勝手に出てくる。
だから衣食住に関して、全く心配することはないのだが、母を思う気持ちだけはどうしようもなかった。
「ほら、もうすぐ夕食だ。その前に汗と涙を流そう」
リルのお尻に手を当てて、抱きつく姿勢のまま持ち上げ、立ち上がる。
未だ泣き止まない愛しい子を抱きかかえ、風呂場へと連れて行った。
風呂場と言っても、そう大した作りをしていない。
ひと一人が入れる程大きな桶という程度で、すのこと屋根だけがある、非常に簡素な造りだ。
下水道までは無理だが、排水路があって近くの川へ繋がっている。
だから、周辺を汚すことも、水浸しにする心配もなかった。
リルをそこに連れて行くと、服を脱がしている間に、桶の中へ魔術で出した水を溜めていく。
「さぁ、両手を挙げてぇ……。はい、脱げた〜!」
脇下から手を入れてやれば、すぽんと服が抜けて、リルの頬が揺れた。
そうして丸裸にしてやって、自分の服も縫いで籠に入れる。
脱衣所などという気の利いたものはなく、雨風を凌げる程度の衝立があるだけで、外からは丸見えだ。
しかし、誰かが見てくる心配もないので、外の視線を気にしない開放的なものだった。
洗い場で小さな椅子に座らせて、リルの頭を洗う。
自家製シャンプーを使い、小さな頭を泡立てた。
「ほら、目を瞑って……」
「んー……!」
目を瞑っている間、何故か両手も強く握る。
一滴足りとも目に入れない、という力みが表れているかの様だ。
洗い直しがないよう、しかし雑にならない様に洗うと、木桶を取り出して大桶からお湯を掬う。
魔術で呼び出したのは水だが、それも今ではすっかり良い塩梅のお湯となっていた。
畑での野菜選びや、食事の準備、除虫剤作りをした時の火力調整など、私を助けてくれる存在が身近には多くいる。
このお湯もその一つ、という訳だ。
しっかり洗った頭を、木桶で掬ったお湯で洗い流す。
「ぴゃぁぁぁ……!」
適温とはいえ、今日一番に被るお湯は、それなりに刺激がある。
こうしてリルが声を上げるのは、いつもの事だ。
尻尾までピンと立って、非常に可愛らしい。
次にやはり自家用石鹸を使って身体を洗い、尻尾まで念入りに洗い終わると、お湯を切って立たせた。
「ほら、湯船に入っておいで」
「はぁ〜い」
リルの背丈からすると大桶の嵩は高く、湯船に座ると口までお湯に浸かってしまう。
だから膝立ちでのままでいるのが基本だ。
しかし、それでは肩までお湯に浸かれない。
どっち付かずになって、湯船の中で中腰になってみたり、犬掻きをして浮いたりと、中々に忙しなかった。
だから私も手早く洗うのを終わらせる。
腰まで掛かる髪は本来なら、簡単に終わるものではないが、魔術を使えばシャンプーを使うのも、そしてリンスを染み渡らせるのも簡単だ。
そうして、髪を螺旋状に纏めて頭頂部で固めると、身体も同様に手早く終わらせ、最後にアロガの方へ顔を向けた。
基本的にリルとべったりくっ付いて離れないのに、お風呂と聞けば付かず離れずの距離を取る。
「ほら、アロガ。お前も洗ってやるから」
そう言うと、アロガは一目散に逃げて行った。
水遊びは好きなのに、洗われるとなると嫌うから困ったものだ。
「仕方ない……。まぁ、今はまだ汚れも目立たないから良いか……」
連れ戻すのは簡単だが、ムキになる程ではない。
それで私は素直に湯船へと入った。
入浴に適した湯船は、何物にも代え難い程、心地が良い。
うっとりと溜め息をついた時、リルが私の身体を椅子代わりに乗ってきた。
いつもの事――というより、そうした方がリルの身長的に丁度良く湯船に浸かれる。
肩が僅かに湯船から出る程度だし、頭と背中を預けられるから落なのだ。
私はというと、湯船から肩を出して、大桶の枠に両手を乗せて天を仰いでいる。
真上は屋根があるから見えないが、そもそも小さな屋根――。
少し視線をずらせば、森の境と夕焼けに染まる空が良く見えた。
リルも同様に空を仰ぎ、時々湯船に顔を沈めては、ぶくぶくと息を吐いている。
「……ほら、危ないから顔を出しなさい」
「ねぇ、お母さん……」
「ん……?」
「リルもね、いっしょにいきたい」
「森は危険に溢れてるんだ……。リルが入るのは早すぎる」
私が外敵から護ってやれるとしても、そもそも森を歩くだけでも危険が付きまとう。
好奇心旺盛なリルは汎ゆる物に興味を持ち、そして注意が散漫となるのは想像に難くない。
それに、やはり自分の身を自分で守れる実力があって、初めて森歩きを許されるものだ。
何が危険か、何に注意を払うべきかは、その実力が根底にあって初めて可能になる。
余力と言い換えても良い。
その余裕が、初めて外への注意と警戒に向けられる力となるのだ。
「でも、でも……」
しかし、そうした説明をしても、今のリルでは理解できないだろう。
だから今は、とにかく駄目と言い聞かせるしかなかった。
「リルに寂しい思いをさせてるのは分かってる。でも、我慢してくれ……」
「んぅ……。イヤだけど……、がんばる」
「偉い子だ」
そう素直に褒めて頭を撫でる。
湯気で張り付いた前髪を横へ流していると、リルが顎先を湯に沈めながら言ってきた。
「ねぇ、お母さん……。リルもそのうち、もりにいける?」
「そうだな、その内だな……」
「いつ?」
「いつ、か……。うぅん……」
リルには良く言い聞かせているし、アロガの方が森の危険を良く知っているので、入って行くのを決して許さない。
だからリルが知っているのは、何も見えない林影だけだ。
木々の葉は良く繁り、だから少し離れた場所から、すぐ暗がりへと変わる。
家の周辺は木々が密集していて、特に見通しが悪かった。
だから、その暗がりこそを恐れているものの、森の危険について正しく理解している、とは言い難い。
リルも五際になった事だし、確かにそろそろ教え始めても良い頃合いだった。
「いつから入り始めても良いか……、それは今すぐに決められない」
「むぅ……」
「でも、入るための準備をし始めるのは良いのかも。戦闘の訓練だとか、読み書きの練習とか……」
「やる!」
リルは勢い良く振り返り、それで湯船が揺れた。
「そうか、大変だぞ。頑張りなさい」
「うん、がんばる!」
一つ展望が開いたことで、それまでの不満顔が嘘の様に晴れやかったになった。
明日すぐどうこう、という話ではないのに、既にやる気になっている。
このままでは興奮して寝付けないかもしれない。
今からアレコレ質問攻めに合う事を考えながら、湯船で腕を振り回すリルを宥めすかした。