プロローグ その2
私がリルを腕に抱いて到着した先は、焼却炉だった。
生活しているとゴミなど幾らでも出るもので、しかし、適したゴミ捨て場など、この森には存在しない。
生ゴミの類いは家畜の餌にするものの、そちらに回せないゴミは、こうして焼いて灰にする。
灰もまた何かと使える材料なので、一切無駄にしたりしないのだが、さりとてゴミを出す度に燃やすわけでもない。
一日でも放置すれば、すぐに虫が湧いてしまうし、この時の虫が作物被害の呼び水となる事もある。
「だから、こうした除虫剤が必要になるわけだ」
「それをまくと、むし、こないの?」
「あぁ、ゴミに集る虫は近付けない」
私がそう言って頷き小瓶の蓋を開けると、使用するより前にリルが声を上げた。
「あ、リルがまきたい!」
「いいとも。……でも、少しで良いからな」
「うん!」
返事だけは良いものの、力加減を知らないリルは、盛大に零すだろう。
そうして瓶の蓋を外して、大きく傾ける。
ある意味予想通りだが、中身を盛大にぶち撒けてしまい、リルは頭の耳をぺたん、と伏せた。
「うぅ……っ」
リルが涙目になって、こちらを見つめて来る。
私は指を動かし、魔力を操って上手く顆粒を拾い集めると、零れた中身を元に戻してやった。
「ほら、もう一度だ。今度はゆっくりやってごらん」
「うん!」
いま泣いた烏が何とやらで、リルはすぐに機嫌を直し、今度は慎重に瓶を傾ける。
今度は中々に上手くいって、多少多すぎるきらいはあるものの、まずまず満足の出来となった。
リルも大変そうに額の汗を腕で拭う仕草をして、両手で瓶を持った手を差し出して来た。
「できた! きちんとできた!」
「そうだな、よく出来ました」
私が中腰になって、リルの頭を優しく撫でた。
そうして瓶を預かると、宙に浮かして軽く放る。
放った瓶は途中で急に軌道を変えて、錬金小屋へと飛んで行った。
後は適当に、空いているテーブルの上に置かれるだろう。
「さて……!」
一仕事終わった所で、私は両手を腰に当てて口を引き絞った。
怒ってますよ、のポーズだ。
それを見たリルは、目をまん丸に見開いて、身体を翻すと一目散に逃げ出した。
「きゃあ〜っ!」
子供の足とはいえ、獣人の足だ。
到底、五歳の足の速さではない。
アロガもまた、どうする、という目で見上げて来ている。
私はその顔にフッ、とニヒルな笑みを向け……。
それから、両手を頭上に持ち上げた。
「……待ぁぁてぇぇ〜!」
殊更、大きな声を出し、恐ろしげな雰囲気で追い掛ける。
リルは、きゃあきゃあ、と喜びながら逃げ、家の周辺を駆け回った。
森の中に作られた空間は、多くの木々を切り倒し、大層広く開墾されている。
広い庭が欲しかっただけでなく、生活する為には必要だったからだ。
リルは衣服を作る機織り小屋を回って逃げ、更に鍛冶場を通り過ぎて、尚も逃げる。
食料を保存したり干し肉を作る貯蔵庫、そして冷蔵と冷凍も出来る地下氷室。
獲った獲物を解体する狩猟小屋と、鶏の飼育小屋の間を通過して、更に農地へと走っていく。
他人の助けなく生きるには、多くのものが必要だ。
今の設備だけでも十分とは言えず、更に言うなら二人の食事を満たすには、それなりの農地が必要だった。
そしてその為に、森の奥地には広大な農作地があるのだ。
今はもう収穫に適した黄金色の麦畑を、リルは隠れ蓑にして走った。
アロガは匂いを追跡するから、こうした目眩ましめいたものは関係ないが、私には十分有効だ。
しかし、視界を遮られようとも、気配の探知はお手の物で、やはりそれで撒かれたりしない。
リルは次に、野菜農園へと逃げ込んだ。
各種、緑黄色野菜が育っており、青々しくも瑞々しい苗が並んでいる。
ここは先程の麦畑より、隠れるのに適さない。
それはリルも分かっていて、だからさっさと横切り、ブドウ畑へと逃げ込んだ。
梁を作って、そこに房を吊るす形だから、先程よりはマシとはいえ、見通しを隠すほどではない。
すると今度は果樹園へと入り込み、りんごの木の後ろに隠れる。
いよいよ観念したか、と木の後ろに回り込んだのだが――。
「おや、いない?」
てっきり、背中をぴったりくっ付けたリルがいたと思ったのに、これには虚を突かれた。
しかし、ここにいないとなれば、候補は自然、限られてくる。
咄嗟に上を見上げると、そこには木登りして枝の上に乗っかったリルがいた。
私はやれやれと笑って、両手を広げる。
「ほら、降りてきなさい」
「はぁーい!」
リルは頭上三メートルはありそうな枝から飛び跳ね、胸の中に飛び込んできた。
息を切らして、それでも楽しそうに笑っている。
私はリルの額に張り付いた髪をどかし、木の根の間に座り込んだ。
「降りてきなさいとは言ったけど、飛び降りなさいとは言ってないぞ?」
「でも、そっちのがはやいもん!」
「速いとかの話をしてるんじゃないの」
そう言って、リルの頬に噛み付く振りをする。
もちもちとした肌を、唇で上下に挟み込むと、リルは喜んできゃらきゃらと笑った。
「ほら、食べちゃうぞ。もう危ないことは、しないって約束しなさい」
「やー!」
「じゃあ、食べちゃうぞの刑だ!」
またもハムハムと頬を唇で挟み込む。
すると、アロガも真似して、リルの頬を甘噛したり、舌先で舐めたりした。
「やー! もぅー、やー!」
嫌だと口で言いつつも、リルの笑顔は輝き、はち切れんばかりだ。
私はリルを一度持ち上げ、食べちゃうぞの刑から解き放つと、胡座をかいた膝の中へすっぽりとしまい込んだ。
「お母さん、のどかわいた……!」
「あぁ、沢山走ったものな」
背中越しに見つめて来るリルの髪を梳き、その汗を拭う。
リルの髪はベリーショートの髪型で、項がハッキリ見えるほどだ。
今は髪の長さを煩わしいと思うリルだから、こういう髪型にしているが、もう少ししたら、伸ばしてやっても良いかもしれない。
「お母さんっ」
リルが期待する目で見て来るので、はいはい、と笑って頭上に指を翳す。
すると、リンゴの実が手の中に落ちてきた。
落ちたリンゴをそのまま宙に放ると、今度は何もない所から木のコップを取り出す。
次に浮いたコップへ、雑巾を絞るようにして果汁を取り出し、コップの中に注いだ。
子供用のコップだから、それほど大きくない。
そこへ魔術で用意した水を注ぎ、程々の濃度にしてやれば、リンゴジュースの出来上がりだ。
コップの中で波々と溜まった果汁に、リルは顔を綻ばせる。
「さぁ、おあがりなさい」
「ありがとう、お母さん!」
嬉しそうにコップに口付け、ごくごくと一気に飲み干す。
ぷはぁ、と息を吐いて、リルはコップを差し出した。
「もう一杯?」
「うん!」
元気よく返事するリルに、私はもう一度リンゴを手にして果汁を絞った。
隣で大人しく座るアロガもまた、物欲しそうな目で見つめてくる。
しかし、絞り果汁を与える訳にはいかない。
私は外へ手を振ると、それを合図としたかのように、またもどこからともなくアロガ用の飲み皿がやってくる。
私はそこにリルの時にやった時と同様、波々と水を注いでやった。
これは魔術を用いて作り出した、マナが豊富に含まれる水だ。
アロガは嬉しそうに水皿へ鼻面を突っ込む。
魔獣だけあって、こうしたマナを含むものは非常に喜ぶ。
リルは二杯目を今度は味わって飲んでいたが、それでも視線はコップの中だ。
私はその様子に微笑みながらリルの髪を漉き、そうして子供特有の高い体温を感じながら、優しく流れる風に身を委ねた。
※※※
遊び疲れたリルは、私の膝をベッド代わりにして眠ってしまった。
静かな寝息を立てて眠るリルを、起こさないようにそっと魔術で持ち上げる。
寝ている体勢そのままで、空中にふわりと浮かせると、そのままアロガの元へと降ろした。
二人は基本的にいつも一緒で、こうして昼寝する時は特にぴったりと身を寄せ合って眠る。
アロガはリルと一緒に寝るのが好きで、だからこうしたお守りを嫌がらない。
頭をそっと撫でて離れると、アロガは早速腹の中に抱いた。
「じゃあ、頼むぞ。小一時間……夕方前には戻って来る」
「……ウォゥ」
アロガも心得たもので、大きく声を出して返事しない。
それに頷いて、私はその場を静かに離れた。
誰に急かされる訳でもないが、生きて行くには働かねばならない。
畑の管理をし、時に獲物を狩って肉と毛皮を得、そして外貨を得る為の薬品作りに勤しまなければならなかった。
しかし、何れにしても酷という程ではない。
女手一つで町の中に住まないと言っても、私には頼りになる友人が沢山いた。
今日の食事の献立に、適当に熟れた野菜を見繕う。
成熟した様に見える野菜でも、中には食すには、まだ少し早い物もあった。
それを見抜くには目利きが必要だが、私には必要ない。
「……どれが良いかな?」
口に出すと、勝手に苗から切り取られて、赤い野菜が飛んできた。
それに頷き、どこからともなく取り出した籠の中へと仕舞う。
次は向かうのは、根菜の畑だ。
うろに沿って繁る葉が並んでいて、どれも瑞々しく、病気や虫が集ってもいない。
今度は声に出すより早く、勝手に抜けて籠の中へと入っていった。
うんうん、と頷き、満足げに畑から出て、最後に腕を一振りする。
その軌跡に沿う様にしてマナが溢れ、後方から微かな喜びの声が聞こえた。
背後を振り返っても、一見して誰の姿も見えない。
しかし、見えないままに薄く笑って、籠を小脇に抱え直した。
次に向かうのは鶏の飼育小屋で、飼料と水の確認を済ます。
足りないようなら補充しようとしたが、幸い今すぐ必要ではない。
チェックを済ませて自宅へと戻ると、そこでは既に夕食の準備が始まっていた。
炊事場各所の掃除は既に終わり、台所の竈には薪が焚べられている。
包丁を始めとした調理器具は磨き上げられ、いつでも準備万端という構えだ。
しかし、そこに誰がいる訳でもない。
ただ、サラサラという、衣擦れの音が聞こえるだけだ。
だというのに、私が籠を小さく掲げて見せると、勝手に飛んで台所へと持っていく。
それに薄く笑ってから、台所に向けて声を掛けた。
「何か、手伝って欲しいことは?」
しかし、これに対する返答はなく、野菜の皮むきが始まった。
私は薄く笑うと、炊事場から退室する。
「じゃあ、ここは頼もうか。手早く終わってしまったし、リルを迎えに行ってこよう」
まだ寝ている筈だが、寝る前は一緒にいたのに、寝起きにいなければ機嫌を悪くする。
そうなると、アロガでさえ宥めるのは大変だ。
だが時間的余裕はたっぷりあり、だからゆっくりと、もと来た道を戻って行った。