狩りとおでかけ その3
敵意の源はすぐに分かった。
川を越えた対岸の樹、その太い枝の上で一匹の魔獣が、敵意の眼光を隠さず睨み付けている。
身体は黒い体毛に覆われ靭やか、背中には背骨に沿った棘が連なり、尻尾は長く先端が槍の様に尖っている。
夜棘豹と呼ばれる魔獣で、森に於けるもう一つの狩人だ。
夜行性なのが特徴で、昼の剣虎狼と対極の棲息時間だから、この時間に目撃出来るのは本当に珍しい。
「ほら、アロガ……ご同業だぞ。同じ狩人の魔獣として、一つ噛み付いて……」
すぐ横へ視線を向けるとアロガはおらず、それどころ私の後ろで丸くなり、完全に戦闘を放棄する構えだった。
私は落胆の表情を隠そうともせず、大きく溜め息をついて言う。
「お前……そんな事でどうするんだ。確かにあっちの方が体格は上だし、強そうだと思うが、お前がそんなんじゃ……」
咎めている間にも、夜棘豹は枝から飛び降り、跳躍一つで川を飛び越した。
そうして身を屈めると、ジリジリとこちらに近付いて来ようとする。
「相手もやる気だぞ。お前はどうだ、ん?」
夜棘豹にしろ、剣虎狼にしろ、一度獲物と認識したなら、必ず仕留めようと何処までも追跡して来る。
一度や二度、逃げる事が出来ようとも、その匂いや個人が持つマナを感じ取って、どこまでも追ってくる……とされる。
特に夜棘豹はその感覚が鋭く、背中の棘は攻撃用や威嚇用ではなく、マナを感じ取るセンサーだとする説さえあった。
だから、ここで逃げても必ず、後で追いつかれるだろう。
見つかった時点で、戦うしかないのだ。
「アロガ、いつまで隠れてるんだ。前に出てこい」
首根っこを掴んで持ち上げると、アロガはジタバタと足を動かして逃げ出そうとすした。
それでも構わず私の前に下ろすと、またすぐ後ろへと逃げて隠れてしまった。
「お前……そんなんじゃ、剣虎狼の名が泣くぞ……」
冒険者の間では、出会ったら死を覚悟しろ、と言われるほどの強力な魔獣だ。
戦意が高く、体躯は巨大で強靭。
口から生える牙は鉄鎧程度、簡単に傷付け貫くし、顎の力も強い。
一度噛まれたら、獲物が死ぬまで離さないと言われる。
しかも家族愛が強く、集団で動く性質もある為、一体見かけたら既に包囲されている、と考えた方が良い。
一体だけでも苦労するのに、それが集団で襲って来るのだ。
視界に入れただけで冒険者を恐れさせる、それだけの根拠が剣虎狼にはあった。
だというのに……。
私は必死に嵐が過ぎ去るのを待とうとする、情けないアロガを見つめる。
何が何でも戦いたくない、と見せる態度は、情けないというより、憐れに見えた。
「まぁ、赤ん坊同然の頃からウチに居るしな……」
何をどう間違ったのか、親元からはぐれ、我が家近くの沢で野垂れ死ぬ寸前だった。
家族愛の強い剣虎狼だから、親が好き好んで放逐したとは思えない。
好奇心の強い性格だからか、親が狩りに行っている間にでも、一人遊びに出かけたとか、そうした理由で自ら逸れたのだろう。
そうして、介護の末、回復し……。
何故か家族を私達だと誤認したアロガは、我が家に住み着くことになった。
今では剣虎狼ではなく、リルこそが姉弟、という認識でいる。
外敵もおらず、ただ安全に過ごせる森での暮らしを満喫していた。
だから、野生を殆ど知らずに生きて来たアロガにとって、森の世界は過酷すぎるのかもしれない。
とはいえ……。
「だからこそ、どうにかしてやりたい、という親心……。お前には分かるか?」
顔は伏せていても、その耳はしっかりピンと立っている。
時折、細かく動かす仕草を見せる辺り、隠れていても外の様子は気になるらしい。
臆病なればこそ、気にせずにはいられないのかもしれない。
しかし、その態度がまたみみっちい……。
「相手はしっかりと成長した成獣だ。子を持つ親であってもおかしくない。対して、お前は成獣したばかり。体格もまだ倍近く相手の方が大きい」
アロガは応えない。
前足で目を隠して、すっかり塞ぎ込んでしまっている。
「敵は大きいかもしれない。しかしだ、お前がそんな事じゃ、リルをいざという時、どうやって守ってやるんだ?」
ぴくり、とアロガの耳が反応する。
リルの名前を出されると、流石に黙っていられないらしい。
「当然、私だってリルを守るが……。しかし、一番近くで守るのは、お前の役目だ。リルもいずれ、森に入る時が来る。その時、お前が傍にいてくれたら……非常に心強いんだがな」
今度は耳だけでなく、明確な反応があった。
前足を退けて、その足でしっかり立ち上がる。
アロガは私に視線を向けて、ガォと小さく鳴いた。
――やる気だ。
遂にやる気になった。
しかし――。
私の口の端にも笑みが浮かんだ時、夜棘豹が地を蹴って襲い掛かってきた。
「ギャウッ!」
咄嗟の事だったので、私も反射的に反応し――。
手首を上下に振る動きで、夜棘豹を地面に叩き付けてしまった。
「――ギャン!?」
地に伏せ倒れ、その一撃で気絶してしまう。
思い切り白目を剥き、口からは舌がだらしなく垂れ下がっている。
「キュゥゥン……」
アロガが情けない声を出して、非難する様な目を向けた。
こちらを上目遣いに見つめる仕草は、明らかに私を咎めている。
「仕方ないだろ! 急に襲って来たんだから!」
だから、手加減できず、強めに叩いてしまったのは仕方ない。
だがそもそも、隙だらけだった私にも非があった。
狩人たる夜棘豹が、いつまでも様子見でいてくれる訳がなかったのだ。
「しかしな、お前がいつまでも隠れているのも悪いんだぞ! さっさとアイツに対峙して、挑めんでいればそれで良かったんだ。それを私の後ろで隠れてやり過ごそうなど……、恥ずかしいとは思わないのか!」
「グルゥ……」
「何だ、言いたいことがあるなら言ってみろ!」
我ながら無茶を言っている自覚はあった。
アロガは賢く、こちらの言うことを理解している節を見せるが、意思疎通できている訳ではない。
しかし、目の前の失敗をただ、誰かにぶつけたかった。
幾分冷静になってくると、自分がいかに子供じみた発言をしていたか気付き――。
それで、今も伏せの状態で困った顔をさせた、アロガの頭を撫でた。
「悪かった、言い過ぎた。酷い八つ当たりだ」
「ウォウ!」
「しかし、狩りの感覚を養わせたいのは本当だ。自分より体格が大きからと、それで逃げるようでどうする?」
「ウォゥ……」
アロガの耳がペタンと落ちる。
チラリ、と夜棘豹の方を見るが、すぐに視線を戻して私に困った顔を見せた。
「立ち向かうべき時に、立ち向かえないようではいけない。……今はもう仕方ないとして、とりあえずトドメを刺せ」
そう言っても、アロガは動こうとしない。
やはり困った顔のまま、こちらを見つめているだけだ。
私は今も変わらず、ピクリともしない夜棘豹を指差して言う。
「だから、こいつを倒せ。まだ息はあるから、トドメを刺すんだよ」
「クゥン……」
「情けない声を出すんじゃない。うちの領域から一歩出れば、そこは弱肉強食の世界だ。……とはいえ、お前自身が倒した訳じゃないから、気が引けるのは分かる。しかしだ……」
私は夜棘豹の頭を何度も指差しながら、アロガに言い聞かせる様に言う。
「お前にまだ狩りは早いと分かった。それでも、命を狩る感触は知っておいた方が良い。今後の為にもな、ここでコイツの命を断て」
「ウゥゥ……ッ!」
私が意見を翻さないと分かって、アロガは弱気な態度から一変、反抗的な態度を見せる様になった。
「何でここに来て、そういう態度を見せるかね? 森に入っておいて、優しさを見せるのが正しいと思っているなら、そんなの思い違いだぞ」
「ウォウッ!」
反抗度合いは更に増し、ついに吠える程になっている。
敵意を見せて歯茎を剥き出しにする程ではないが、これほど明確な拒否は、私の知る限りではない。
「……そんなに嫌なのか。そうまで言うなら、仕方がない。やれない奴に、やれと言っても意味がないしな……」
倒れて気絶していようとも、自分より巨大な相手だから、それが臆する原因なのかもしれない。
ならば、もっと小型の……アロガより小さな個体が都合よくいれば良いのだが、まるっきり望み薄だ。
それこそ、魔獣の赤子でも探して来ない限り、見つかるものではないだろう。
そして、今すぐ探せるものでもなし……。
仕方なく自らトドメを刺そうと屈み込んだ時、アロガが私の腕を噛んで止めた。
「何だ、アロガ。後にしろ」
「グルルル……!」
「ん……? 情けのつもりなら止めろ。夜棘豹の毛皮は良い値が付く」
しかし、諭そうともアロガは噛み付くのを、止めようとはしなかった。
皮革で作られた篭手を装備している事、そして本気で噛んでいない事から、痛みは全くない。
それでも、落に振りほどけるほどではなく、私は今度こそ困惑してアロガの頭に手を置いた。
「……一体、どうした。さっきから、お前なんか変だぞ」
「グルゥ、グルルル……!」
アロガの唸りは更に強まり、噛み付いた腕を横に引っ張る。
そうして身体が横を向く形となった事で、それに気付けた。
「あれは……」
樹上の枝の上に、夜棘豹の子供が座ってこちらを窺っていた。
そこには怯えの感情が読み取れ、祈る様に見つめている。
アロガがやけにトドメを渋ると思っていたが、まさかこれに気付いていたとしたら……。
「アロガ、子供の前で親を殺すなとか、そう言いたいのか?」
「ウォウ!」
意図が伝わったと見え、アロガはようやく腕から口を離す。
そして、私もまた気付いてしまったからには、殺すのも忍びない気持ちになってくる。
未だに気絶から起き上がらない夜棘豹を見やり、そうして立ち上がって背を向けた。
「そうだな、ここで殺してしまうのは、忍びないよな……」
「ウォウッ!」
私は背を向けたまま、夜棘豹に手を掛けず、そのまま歩き出す。
すると、アロガも嬉しそうにその後について来た。
「お前の怯えた様子や、隠れたりしてたのは、子供の前で殺しをしたくなかったからか?」
「ウゥ……!」
「家族愛の強い剣虎狼らしい事だが、だからといって、狩猟の免除はしないからな。獲物を見つけたら、今度こそ噛み付け」
「クゥン……」
「そんな情けない声を出しても駄目だ。私に噛み付けるぐらいだ、竜にだって噛み付けるだろ」
「ウォウ!?」
まさか本当に、そんなことを命じるつつもりか、とでも言いたげな顔を向けて来る。
私はその表情に笑い掛け、言葉を返さないまま、風の香りが導きに従い森の奥へと歩いて行った。




