新たな一年、新たな一歩 その6
リルのマナ訓練は毎日行われる訳ではなく、当然休日の時もある。
しかし、リルの熱意は本物で、そういう日であってさえ、訓練をせがむ程だった。
いつもなら既に裏庭へ出ている時間なのに、お昼寝の後、今日はなしと言われ、リルは大層不満そうだった。
「どうして、おやすみなの? リル、もっとやりたい!」
「何事も、適度な休みは必要なんだよ。剣術にしろ、勉強にしろ、ちゃんと休みの日があるだろう? それと同じだよ」
最近は吹き抜ける風が冷たいばかりではなく、特に日中は暖かく感じる事が多くなった。
まだ春の訪れは先の事だが、その到来が間近だと、リルにも分かるのだろう。
実際の到来まで、それほど時間は残されていない。
だからこその焦りが、リルの中に表れていた。
「マナ訓練は動いて運動するものじゃないから、疲れが感じづらいかもしれない。でもね、疲れは必ず積もっているものなんだ。休ませた方が次の訓練の時、思い切り力が出せるものなんだ」
「でも……」
「いいかい、リル……」
私は膝を付いてリルの両肩に手を置き、目線を合わせて訴えかけた。
「焦ってはいけないよ。マナを扱う時は、何より冷静な気持ちが必要だ。疲れが自覚できていない時、ちょっとした事で事故に繋がってしまうんだよ。……リルはいい子だ、お母さんの言うことを聞けるね?」
「よくわかんないけど……、わかった」
「うん、今はそれでいい」
私はにこりと笑って、リルの額にキスをした。
「さ、遊んでらっしゃい」
「お母さんは?」
「お母さんは、リルの服を作る。もう少しで完成だし、精霊達とのお披露目には、リルに良い格好して欲しいから」
「そうなんだ」
リルは若干、寂しそうな顔をさせたが、ここは心を強く戒めなければならない。
一緒に遊んでやりたいのは山々だが、服作りは時間が掛かる。
何より、『精霊迎え』の日に、リルを着飾ってやりたいのは本当だ。
リルが生まれ、我が家にやって来て、はや五年――。
精霊達はリルの事など当然、見飽きるほど見ているが、初対面という形になるのは間違いない。
あちらもそれを知っていて、精霊界からやって来るその日を、記念的な日だと捉えているのも間違いなかった。
「ほら、アロガも待ちわびているぞ」
私が視線を後ろに向けると、すぐ傍にアロガが座っていて、その尻尾をリルの腕に巻き付けていた。
最近は訓練、勉強、訓練ばかり……何かとアロガと引き離される時間が多かった。
彼も彼なりに、一緒に遊ぶ時間が減って寂しがっていたのだ。
「……うん。いこっか、アロガ」
「ウォウ!」
リルに笑い掛けられると、アロガは嬉しそうに声を上げて、腕から尻尾を離す。
慌ただしく出て行こうとするその背中に、私は注意を投げかけた。
「ちゃんと帽子と手袋して。暖かくなって来たと言っても、油断しないように」
「はぁ〜い!」
リルは手を掛けていた扉から手を離し、言われた通り身に着けると、今度は逃げ出すように駆けて行く。
窓から見えるその後ろ姿を笑って見送り、私も服を仕立て終わらせようと、裏口へ向かった。
そうして家を出ると、肌を撫でる風が、昨日より暖かくなったと感じる。
このぐらいの時期は、また突然寒い日がやって来たりするから油断できない。
でも、リルは駆け回ったりするだろうから、早々に手袋を脱いでしまっているかもしれない。
「今日の天気なら、本当に必要なかったかも……」
それならそれで良いのだ。
遊んでいる間に天気が曇るかもしれないし、そうすれば風も冷たくなる。
家を挟んで聞こえてくる、リルの笑い声を耳で拾いながら、私は機織り小屋へと入った。
母屋と違って火の入っていない小屋は、酷く寒々しい。
そして実際、気温も外気と殆ど変わらないものだった。
毎回この小屋に入って最初にやる事は、暖気を取り込むことから始まる。
暖炉に火を付けてから、魔術で暖気を撹拌してやり、部屋全体に広げていく。
こうする事で、ただ待つより遥かに早く部屋が温まった。
かじかんだ指では、上手に服は作れない。
布は既に完成しているので、後はそれにハサミを入れ、実際に仕立てる事が始められた。
どういう服にするかは、既に構想は出来上がっていて、図面も引いている。
だから後は、完成目指して頑張るだけだ。
図面を横に置いて、作業台の上に布を敷く。
型紙も作成済みなので、それに合わせてチョークで線を引いた。
それ自体はごく簡単な事だから、後は裁断に注意を払えば良いだけだ。
ただ真っ直ぐにハサミを入れるだけでも、実は相当な神経を使う。
リルを外で遊ばせているのも、ここに近寄らせない理由付けみたいなものだ。
たとえば襟元など、曲線にハサミを入れる時は尚のこと神経を使うから、話し掛けられただけで手元が狂う。
本当なら、笑い声さえ封じたい程なのだ。
子どもの声は遠くまで響くから、なるべく抑えたいのだが、リルをそこまで制限するのは可哀想だ。
だから自由にさせて、せめて近寄らないようにさせているのだが――。
先程まで聞こえていた笑い声がなく、私は手を止めて顔を上げた。
「変だな……」
先ほどから、リルの笑い声が途絶えている。
最初に聞こえていた笑い声は鳴りを潜め、今では全くの無音だった。
「別に、常に笑い声を上げている訳じゃないが……」
それにしたって、余りに音沙汰がない。
遊び疲れて休憩するには、まだ早い時間だ。
リルらしくない、と思った所で、異変を感じた。
私はハサミを置き、小屋を飛び出す。
もう随分前のことの様に思えるが、僅か二ヶ月程前、ここに侵入者が現れた。
警戒用の罠を悉く突破して来た、謎の多い侵入者だ。
翌日、徹底的に痕跡を調べたし、侵入ルートを精査し直したりしたのに、結局その足取りは全く掴めなかった。
まるで降って湧いたかのようで、感知した存在が幻ではないかと疑った程だ。
だが、リルとアロガはしっかり、その謎の人物を見て、会話すらしていた。
「あれから何の動きもないから油断していた……!」
あれはリルと接触して来たのだ。
リルが一人になる時を狙って、今まで潜伏していたのかもしれない。
「くそっ……!」
返す返すも悔やまれる。
己を叱責しながら地を蹴って、裏庭方面を回ると、そこであっさりリルの姿を見つけた。
「あ……、ん?」
見つかって良かったのは間違いない。
私の早とちりだったのは、むしろ喜ばしいことだ。
しかし、リルは言い付けを守らず、マナ訓練の瞑想をしていたのだった。
……声が聞こえない訳だ。
リルはこちらに気付くなり、今更ながら慌てて瞑想を解除したが、時既に遅い。
立ち上がって逃げようとするリルを、私は瞬時に近寄って抱き上げ、怒ってますよ、とアピールする。
「リィィルゥゥ……」
「あぁん、ごめんなさぁい! だってリル……、もっとやりたかったんだもん!」
「その熱意は買うけどね……」
私は深々と溜め息をついて、おでこ同士を合わせる。
そうしてグリグリと押し付けると、目を合わせて諭す様に言った。
「お母さんも、意地悪で言ってるんじゃないんだよ。適切な訓練には、適切なお休みも必要なんだ。がむしゃらにやると、怪我だってしてしまう」
「ケガ……、するの?」
「するよ。気分が悪くなるだけじゃなくて、身体の内側が裂けちゃったりする。だからね、お母さんの前以外でやっちゃいけない。とっても危ないことだからね」
「うん……、わかった。ごめんなさい……」
「いいや、お母さんも本当に危ないって、言わないのが悪かった」
そう言って一度離したおでこを、再びコツンと合わせる。
「無事で良かった……」
心から安堵する姿に、リルは心底、気不味そうな顔をした。
「ごめんなさい、もうしません……」
「うん、気を付けてくれたらいいから」
リルは私の態度から、大いに勘違いをしたようだが、今はそれで良かった。
何者かがリルを狙っている可能性など、まだ幼いリルが知る必要はない。
しかし、今回は単なる勇み足だったものの、侵入者はどういうつもりなのか。
あれから一度も姿を見せないのは、私の目を盗んだ行動は、もう無理と悟ったからか……。
それならば問題ない。
出来るのは侵入まで、それ以上は不可能と判断したなら、脅威ではないからだ。
しかし、もしそうでないとしたら……。
その侵入者が何かしらの組織の者だとしたら、あれは偵察に過ぎなかった、ということになる。
春になれば精霊たちがやってくる。
そうすれば、警戒網はより強固になり、接近すら許すことはなくなるだろう。
だから今は……今の内だけは、リルを傍に置いておこう、とそう心に決めた。
「リルは一人だと、また何かするかもしれないから……。これからお母さんの仕立てでも、見てた方がいいかな?」
「いいのっ!?」
「あぁ、いいとも。でも、あまり騒がないようにね」
「うんっ! アロガ、しーっよ! しーっ!」
アロガは大抵、無駄に吼えたり声を上げない。
それでも、お姉ちゃんのつもりでいるリルは、お姉ちゃん風を吹かせられる機会には、そうせずにはいられない。
私はそれに苦笑しながら、リルを抱いたまま小屋へと戻った。




