森の日常 その6
翌日、やはり筋肉痛に悩まされたリルは、とうとう自分の足で歩くことさえしなくなった。
朝からアロガの背中に乗って降りて来て、それからずっと乗りっぱなしだ。
頭をアロガの首辺りに乗せ、両手足をだらりと垂らしては、全ての歩行を任せている。
普段にないべったりとした接触は、むしろ彼からすると好ましいらしく、リビングに降りて降ろした後は、腹の内に抱えて頭を舐め始めた。
「おやおや……」
そうした光景を見ていると、昔の事を思い出す。
ほんの去年までは、互いにどこへ行くにもべったりで、常に傍で行動していた。
今はリルも色々な事に興味を持ったせいで、何かと一人で走り回る事も多くなったが、それがアロガには寂しかったのかもしれない。
「おはよう、リル。……どうやら、身体の方は言うまでもない様だな」
「うぅ……っ、いたいぃぃ……! どうして、んひぃぃ……っ! お母さんは、へいきなのぉぉ……っ?」
「お母さんが平気というより、まだリルが未成熟ってだけさ。大丈夫、そうやって少しずつ成長して行くんだから」
「ホントに? ホントに、これでつよくなる?」
強くなるのとは全く別だが、相応しい説明をすると長くなる。
だからとりあえず、そうだ言って、頷いて見せた。
「少しずつ、ほんの少しずつね。草木が伸びるより、ずっとずっと遅いけど……。でも、毎日やっていれば必ず強くなれる」
「リルがいっしょに、もり行けるのは、どのくらい?」
「さぁて、どの位になるやら……」
悪戯っぽく笑って窓の外を見れば、リルは目に見えて不満そうな顔をした。
唇を突き出す、いつものふくれっ面だ。
「……さ、朝食を済ませたら、今日もやる事があるからね」
「きょうも? きょうは何するの?」
「それは後での、お楽しみ」
「えぇ〜……。またイタイの、ヤッ……!」
「その言い方じゃ、お母さんがリルを殴ってるみたいじゃないか」
苦笑していると、出来た料理が宙を滑って、テーブルへとやって来る。
「……さ、まずは食べてしまおう。話はそれからだ」
「んぃぃ……」
返事とも取れない返事が、リルの口から漏れる。
そのうえ動こうともしないので、遂にはアロガの方が焦れて服の裾を噛み、テーブルの方へ引っ張ってきた。
「ありがと、アロガ」
てしてし、とアロガの頭を叩く様に撫でてから、立ち上がろうとして顔が引き攣る。
立ち上がろうとしているのは分かるが、思うように力が入らず、とうとうテーブルの足を支えに立ち上がった。
「んにぃぃ……っ! ふぎぃぃ……っ!」
「ほら、頑張れ。痛いのも、そのうち慣れるから」
アロガも見兼ねてその背中を鼻で押し、何とか立たせてやろうと手助けしていた。
そのお陰もあって、リルはようやく席につく。
アロガの方にも、いつものように骨付き肉が台所からやって来て、犬皿の上に置かれた。
リルの食事を羨ましそうに見ていたアロガは、それにすぐさま飛び付き齧り付く。
「さぁ、いただこう」
「いただきます!」
二人して台所に目を向け食事の挨拶をすると、それでようやく朝の時間が始まったのだった。
※※※
食器洗いも済んで、台所が綺麗に片付いた後――。
私は台所を背に、両手を腰に当てて堂々と宣言した。
「……そういう訳で、今日はジャムを作ります!」
「ジャム!」
リルは瞳を輝かせ、飛び跳ねようとして動きを止めた。
喜びを表現しようとしたのだろうが、筋肉痛のことをすっかり忘れていたようだ。
その後先考えられない、向こう見ずなところも、また可愛い。
いぎぎ、と顔を固めていたリルは、ぎこちないながらも元の体勢へと戻り、それから何とか手を挙げた。
「なんのジャム、つくるの?」
「それはもう、色々だ。リルの好きなブルーベリー、いちご、それにオレンジと……、リンゴとレモンも、一部ジャムにするかな」
「そんなに?」
「これからは、もっと寒くなるから。そろそろ冬ごもりの準備をしないと」
この森……というより、私が住む領域は、季節外れに実りを得られる。
だが本来、実りとは多大な時間を掛けて、大地や水や太陽の力を凝縮して作られるものだ。
だから実れば、一気に刈り取らればならず、秋にもなれば腐らせてしまう品種も多々あった。
そうせずに済み長い時間、瑞々しい果実を食べられるのは有り難い恩恵だ。
しかし、どうやっても冬は越せない。
だから本格的な冬が到来する前に、色々と収穫物を取り込む必要があった。
ただし、ただ取り込んでも冷暗所には限りがあるし、たとえ仕舞えても冬の間に腐らせてしまう。
そこで加工する一手間が必要なのだ。
「ふゆごもり〜……?」
耳馴染みのない言葉に、リルは首をこてん、と横に倒した。
「おや、覚えてないか? 去年もやったんだぞ」
「ジャムの?」
「ジャムの為だけにやってるんじゃないからな、因みに。冬は何かと要りようだけど、物流はどうしても滞るから……」
そうは言っても、リルに理解できる筈がない。
今度は逆側にこてん、と首を傾げてしまい、冬ごもりが何たるかを思い出そうとしているようだ
この地方は豪雪地帯という訳でもないから、家が埋もれる心配はない。
薄っすらと積もることがあるくらいで、雪遊びに苦労するほどだ。
しかし、雪が触れば道は泥濘み、陸路における基本的な輸送手段を馬車に頼る世界では、車輪の事故が多発する。
町から町へ舗装された道がないので、どうしても頻繁に使われる道には馬車道が出来上がり……。
そして、車輪が埋まりやすい地帯、というのも生まれがちだ。
冬の間に、二度や三度は確実にそうした事故があって、物流が止まってしまう。
そうした地帯には野盗も出没し易いから、冬は護衛を雇う必要もあり、物品の値段も跳ね上がる。
だから、買い足す必要のあるものは、冬より前に揃えるのも大事だった。
「このジャムは家で使うだけでなく、大事な商品ともなるので、しっかり作ろうな」
「えぇ〜……! ほかの人にあげちゃうの?」
「あげるんじゃなくて、売るんだけど……って言っても、あげるというのも、一部はそうだな。間違いじゃない」
リルは沢山あれば、それだけ沢山たべられる、と思っているのだろう。
だが、残念ながら、冬を越しても余る量を作っても、腐らすだけだ。
基本的に自給自足できるよう、生活基盤は整えているが、どうしても足りない物もある。
それを購入する為にも、お金を稼ぐ手段は必要だった。
無論、稼ぐ手段はジャムだけではない。
森で狩った獣の皮、牙や爪も町では売れる。
だが、何より高価で売れるのは、やはり水薬だった。
質の高い水薬は、同じ種類だろうと高値で売れる。
しかし、量産できると知られれば、そればかり持って来いという話になってしまう。
なので、敢えて他の物を用意して、数多く作れない代わりに、という事で押し通していた。
それに、使い道は商品以外にも、お裾分けとして渡す分も含まれる。
特にこのお裾分けは、非常に大事な意味があるので、決して疎かには出来ない。
各種作業の協力にも関係するので、献上品と言い換えても過言ではなかった。
「……ともあれ、ジャム作りだ」
手を胸の前で合わせて鳴らし、パッと手を広げる。
「さて、これから果実が、どんどん入ってくるぞ。リルも準備して」
その言葉が合図になった。
裏口の戸が開いて、そこから次々と果実が、宙を飛んで入り込んでくる。
「うわぁ~! これ、まえに見た!」
「だから、去年もやったんだよ」
リルは宙を飛ぶ果実に、今にも飛び掛かりそうだ。
自重しているのではなく、筋肉痛があるから、飛び掛かれないだけだろう。
去年もしっかり飛び掛かっていたし、昨日草むしりしたのは、決して無駄ではなかったかもしれない。
果実が次々とテーブルの上に着地して、場所を占領していく。
二人分の食料として十分な収穫があれば良いので、一種類毎の数はそうでもない。
しかし、あれもそれもと運ばれてくるので、すぐにテーブルの上が一杯になった。
これは事前に、籠を用意してなかった私が悪い。
「いけない、すぐに用意しよう」
言葉通り、背中に背負えるタイプの深籠を用意し、そちらに移していく。
一度籠に特定の果実を入れれば、宙を浮かんで運ばれる果実も、次々と同じ籠へと投入されていった。
「よしよし……!」
そうして果実の大行進が終われば、いよいよ作業の始まりだった。
台所の隅にある水瓶から、水を桶に移し、そこで手を洗う。
リルにも同じ様に、石鹸を使わせず、しっかり手を洗わせた。
子供のやり方は、どうしても雑になるので、私が手を取って代わりに洗う。
雑菌を殺すには当然、石鹸を使う方が良いのだが、その香りが移ってしまう可能性がある。
だから敢えて使わないで、しっかりと汚れを落とし、最後に魔術でも洗浄した。
爪の間までしっかり洗うと、手拭いで水気を切り、掌の裏表両方を確認する。
「どう? きれいになった?」
「あぁ、綺麗だとも。さぁ、作業を始めよう」




