プロローグ その1
新作です、よろしくお願いします!
――ボーダナン大森林に、足を踏み入れてはならない。
それは、クレイスラン大陸の北部に住む人間ならば、子供にも教え込まれる常識だ。
そこは世界でも稀に見る魔境であり、人にとって最も険しい、死の土地だった。
森の背後にはプレシヨウン火山が構え、その上空では竜が舞う。
森に棲む魔物は強大で、一流の冒険者であっても、出会えば生きて帰れない。
獣でさえ一筋縄ではいかず、通常のものより二回り以上大きかった。
それだけ、森を取り巻くマナが濃いという事でもあり、高濃度のマナが動植物の成長を大きく促進している、という意味でもあった。
だから、ここで育つ薬草一つ取っても、他より一回り上質とされる。
それを求めて森へ踏み込む者も、また多い。
森の浅い部分なら……。
外の景色が見えるまでなら……。
そうして、価値の高い植物や、獣の角を得られないかと、蛮勇を以て踏み込む事があった。
しかし、そうした用心した者さえ、得てして多くは生きて帰らない。
――魔境と呼ばれる所以である。
だが、その大森林の奥地に、あろう事か居を構え、暮らしている者がいた。
最も危険で、前人未到とされる火山の麓で一軒家を建て、更に開墾までして快適な暮らしをしようと腐心している。
本来なら真っ先に襲われ、壊滅してもおかしくない。
だというのに、既に長い時の間を無事に過ごせているのには、勿論理由がある。
それは、ここに住む者こそが、この森で一番強く、恐れられているからに他ならない。
森には魔獣や、多くの亜人種が住み、それぞれが激しく縄張りを主張している。
それでも、その家の周囲一体には近付こうとしない。
森の狩人である剣虎狼も、西の湖を支配する巨魔蛇も、コボルトやゴブリンと言った知性持つ種族も、それを良く弁えている。
ボーダナン大森林に、足を踏み入れてはならない。
一度でも入った者は、生きて帰れず泣きを見る。
森に取って喰われてしまうとさえ、遠くに見える村々では口にされていた。
森に住む魔女が、悪い子を見つけて攫っていくよ……と、小さい子を持つ親は言うものだ。
ただし、森の中に魔女が本当にいるかどうか、実際に確認した者はいない。
まことしやかに、森から生きて帰った僅かな者の口から、そうした噂が出るばかりだ。
真実かどうかは、森の中――。
だが、森の奥地にある家屋、そこに隣接しいる小屋の中にて……。
一人の魔女が、僅かに沸騰する怪しい大鍋の前に立っていた。
室内は暗く、採光も悪い。
それを気にした様子もなく、怪しげな笑みを浮かべながら、木べらで怪しい液体をゆっくり、ゆっくりと掻き回していた……。
※※※
「忌々しい、ゴミ虫どもめ……」
私は暗く窓が閉められた部屋の中で、丁寧な手付きで撹拌しながら、大鍋の中身を確認する。
沸騰させる温度はごく弱く、丁寧に蒸発させ、粘り気を出さねばならない。
火が強すぎると台無しで、僅かながらに気泡が出るくらいが望ましい。
火力の調整は私ではない別の者の仕事で、竈に顔を近付けると、チロチロとやる気のない火が見えた。
「……頼むぞ、適当な火力じゃ困るんだ」
そう声を掛ければ、火力は途端に素直な勢いを見せ始める。
強すぎてもいけない。しかし、弱すぎても困る。
その絶妙な火加減が、ただの一声で元に戻った。
「サボり癖があるのは、困りものだな……」
愚痴にも似た小言を零し、撹拌を続ける。
もう少しで薬は完成だ。
ただし、終わるまで気は抜けない。
「さて、後は……」
粘り気が強まり、液体の色が茶色に変わりつつある。
そこで足元に火を止めるよう願ってから、中身の液体を取り出した。
液体そのものを、大鍋から魔力で包み込んで浮かせる。
そのまま空中で固定して、更に魔力を注ぎ込んだ。
そうすると、液体は蒸発して顆粒状の物質が出来上がる。
最初は抱えられない程の巨大な質量だったが、蒸発しては次々と姿を変え、遂には瓶一つ分の量に落ち着いた。
「よしよし……」
手近な棚へと指を向け、くい、と小さく動かすと、仕舞ってあった空の瓶が飛んで来る。
それを手で受け止め、顆粒状の物質を瓶の中に封じ込めた。
小さく振ると、キメ細かな顆粒が左右に揺れる。
まるで砂の様な細かさで、私はその出来栄えに満足した。
「……良いじゃないか」
口の端が持ち上がるのを我慢できず、仕舞いにはくっくっく、と声が漏れる。
「これで、あのゴミ虫どもを、一網打尽にしてくれる……」
更にニンマリと笑った時、背後の扉が音を立てて開いた。
扉が開くにつれて、外の光が室内へと入り、開いた分だけ明るく照らされる。
乾燥させた薬草類が顕になり、軒下に吊るされたのが見えた。
また生鉢に植えられた薬草類など、壁に設置された棚に、所狭しと並ぶ様が明らかになる。
そして、扉を開いた張本人は、顔だけちょこんと出して、こちらを窺う様に見ていた。
私は手の中にあった瓶など投げ捨て、一目散に駆け寄る。
だが、瓶は落ちて割れる事なく、空中をゆっくりと落下すると、脇のテーブルに着地した。
「リル……! ここは来ちゃいけない、って言ったろう? 臭いからね、臭い臭い」
「でも、お母さんの匂いだよ。リル、べつにイヤじゃない」
「それはしっかり、魔術で綺麗してるからだ。ダメダメ、リルの鼻が曲がってしまう。ほら、良い子だから出ようね」
「お母さんも一緒がいい」
「あぁ、勿論。すぐに出るとも」
茶色のサラサラとした髪を撫でて、それからその頭に乗る、獣の耳を指の間で挟むようにして撫でた。
リルは擽ったそうに笑い、私の手を握ると部屋の外へ連れ出そうとする。
「ほら、いこ……! みてて、とべるようになったの!」
「あぁ、こら……待ちなさい」
リルの引っ張る力は、獣人らしく強いものだ。
まだ五歳だから背も低く、だから前へつんのめる様にして歩かされた。
私は咄嗟に後ろへ手を回し、完成したばかりの小瓶を魔術で引き寄せる。
そうして手の平で受け取ると、連れられるまま外に出て、やはり魔術で扉を閉めた。
リルに連れられた先は、木の枝に作られたブランコだ。
木の幹も上部な魔林の物で、弾性と剛性が程よい比率で出来ている。
非常に燃えにくい性質を持つから建材に適し、逆に薪としては全く適していない。
枝も太く、子供一人乗せたくらいでは、小揺るぎもしない強さだ。
リルは私が作ったブランコの前まで来ると、適度に離れた位置で手を離した。
「そこで待ってて!」
リルは嬉しそうに駆けてブランコに飛び乗ると、それから勢いよく前後に揺らし始めた。
「こら、リル……」
「みてて、みててね!」
リルは立ち漕ぎで前後に揺らし、単なる遊びにしては、大き過ぎる振り子運動を始めた。
危なっかしく見えて仕方なく、止めようとした時には、振り幅が最大まで広がっていた。
「いくよー!」
そう言うなり、リルは振り子の反動を利用して、ブランコから飛び出した。
そのまま放物線を描いて、両手を左右に広げながら落ちてくる。
リルの顔には笑顔が満面に浮かんでいて、恐怖を微塵も感じていない。
数秒滞空したのち落ちてきて、私はそれを両手で受け止めた。
ぽすん、と腕の中に収まるなり、リルは子供特有の甲高い笑い声を上げる。
怒ったものか、注意したものか迷っていると、リルは華やぐ笑顔のまま言った。
「ねっ! とべたでしょ!」
「うーん……。でもお母さん、飛んで欲しくないなぁ。何度、危ないって言えば分かるのかなぁ、この子は…」
「あぶなくないよ!」
リルはそう言って、腕の中で甘えてくる。
実際、犬の獣人であるリルからすると、そう大した危険ではないかもしれない。
身体能力について言うに及ばず、私をこの場に立たせたのは、そこへ降り立つ自信があったからだろう。
つまり、何度も同じことを、既に繰り返していた事になる。
「お母さんとしては、もうちょっと大人しくして欲しいところなんだけど……」
「だいじょぶ! ケガしてないから!」
「してからじゃ遅いし……、ケガはすごく痛いんだぞ?」
ただし骨折程度、私であればすぐに治してやれるし、擦り傷や切り傷など無かったも同然に出来る。
それを小さい頃から知っているから、ケガに対して認識が甘いのかもしれない。
「私がいたから良かったものの、足を挫いたらもう……、わんわん泣くぞ? 痛くて痛くて、泣いちゃうぞ〜?」
私とリルの頭同士をくっ付け、ぐりぐりと動かす。
そうすると怖がるどころか尚も喜んで、きゃっきゃっと声を出して笑った。
「だいじょぶ、いつもはアロガいるもん!」
「いつも? ……本当に?」
私が視線を下に移すと、そこにはまだ大きくない体躯の剣虎狼がいた。
虎の体躯と狼の俊敏性を合わせ持つこの魔獣は、成長すれば牙が剣の様に鋭く長く育つ。
森の狩人を自負するに相応しい脅威を持つに至るのだが、どこを彷徨ったのか、まだほんの小さい頃に、うちへと迷い込んで来た。
群れに帰すべきと思ったが、この剣虎狼は当時まだ二歳だったリルの事を、家族のように接しだした。
リルもまたこの剣虎狼が大層気に入り、離すと大声で泣いた。
それ以降、仕方なくうちで面倒見ることになり、それからは兄妹同然に育つ事になった。
どちらが姉で、どちらが兄と思っているか未だ曖昧ではあるが……。
とにかく、離れたがらない家族同然の関係になった。
ただし、獣にとっての三年は非常に早い。
だから、当時は殆ど変わらない大きさだったアロガは、今ではすっかりリルを乗せられる程大きくなっている。
私が、呆れと共に剣虎狼のアロガに目をやると、困り顔で項垂れた。
剣虎狼は賢い魔獣で、意思疎通がしっかり出来る。
まだ子供だから、そこまでしっかりしたものでないものの、それでも私が訊いた事をはぐらかしたりしない。
誰が主人なのか、この獣はしっかり理解しているのだ。
「アロガ……、止めなきゃ駄目じゃないか」
「グルゥ……」
軽く嗜めると、抗議する唸り声を出す。
自分は止めた、と主張しているようだ。
私がここはしっかり怒るべきか、と悩んでいると、リルも何かを察したらしい。
手の中にある瓶を見つめ、あからさまな話題転換を計ってくる。
「ね、お母さん。それなぁに?」
「これか……?」
リルを片手で器用に支えたまま、手の中の瓶を掲げて見せた。
「まぁ、丁度良い。今から使いに行こうか。説教はその後だ」
「えぇ〜……」
あからさまにブー垂れるリルを胸に抱いたまま、私は目的の場所へを歩いて行った。