第十七話:ダブル・アンブッシュ
タングレス海域には、常に濃霧が立ち込めていた。
この一帯の暖かな海流が放出する水蒸気が、遥か北方のルコール海から吹く凍てついた風と接触し、凝結することで生じる「海霧」である。
深い霧の中で、採掘艦「ハディード」号は凪いだ海路を静かに進んでいた。
『あとは待つだけじゃな』
レーダー上のハディード号が、作戦通りの配置に着いた様子を見て、カティアは胸を撫で下ろすような声を出す。もちろん、AIに胸などないのだが。
『にしても、この霧の中で戦えとは、姫様も無茶苦茶をおっしゃる』
「実際、有効な戦術だ。──索敵に集中しろ」
ぼやき続けるカティアに、B・Bは鋭く言った。
タングレス海域を迎撃地点に設定したのは、カティアの言う姫──セレジアの案だった。海霧は濃く、カメラでの視界距離はほんの十数メートル先までしかない。
索敵兵装をフルに作動させなければ、護衛についたGSであっても、瞬く間にハディード号の巨体を見失ってしまうほどの霧深さだった。
この霧の中で、深紅の部隊──ソフィアの強化兵士たちを討つ。
海洋民兵たちから提供された過去の被害報告、開拓者ギルド経由で回ってきた警戒情報。そこから、セレジアはいくつかの傾向と共通点を洗い出した。
まず、深紅の部隊は浮揚都市から離れた海域で活動する傾向がある。襲われた船に共通するのは、五大企業と繋がりを持たないこと、護衛のGSを連れていること。回収された機体残骸のダメージレポートから、彼らの戦術も見えてくる。
深紅の部隊の基本戦術は強襲。真っ先にGSの母艦を狙い、轟沈させる。
その混乱に乗じて、まるで狼の群れのように敵機を囲んで狩り立てるのだ。
彼らは合理的で、無駄がない。それゆえに──予測しやすい。
『インスマスよりヴァルハラ、シエラ各機。ハディード号の全クルーの脱出を確認。現在インスマスへの収容作業中ですわ』
『……ハン。赤い幽霊ども、本当に来るのかよ?』
少し離れた位置にいるインスマス号からの通信。
ジョニーの皮肉げな問いが返されると、セレジアは応えた。
『安心してくださいまし。そのための手配も済んでいましてよ』
陽動のための情報は、それとなく第三者を装って、オービタル・リンクで拡散しておいた。深紅の部隊は必ず食いついてくる。海洋民兵たちが、貴重な採掘艦を出航させたのだ。当然の如く、彼らの大好物である護衛GSが複数機付きで、だ。
──お膳立ては完璧だ。
そして、とびきりのサプライズも、セレジアは用意している。
『索敵を徹底して。タイミングが命の作戦ですわよ』
『あいあい、了か──右舷前方、距離70!』
S2──カミラが返事を言い終える前に、言い直して叫んだ。
レーダーに反応したのは、大きな四つの機影だった。
やがて、どちらからともなく撃ち合いが始まる。
願ってもない、深紅の部隊のお出ましだった。
霧の向こうでは、四ツ目のカメラアイが輝いている
『全機、射撃は後退に対する牽制だけに留めて。なるべく船に引きつけてくださいまし』
『作戦通りに、だね!』
赤い色の四機のGSに向けて、ナイアの《ダブル・ダウナー》が砲撃した。
大きな弧を描いて降り注いだグレネード弾は、彼らの退路に巨大な水柱を、連続的に、絶え間なく生じさせる。深紅の部隊は、これで進むほかない。
次第に敵との距離が縮まっていく。と、同時に、ハディード号の護衛に随伴していた五機のGSは散開し始めた。
深紅の部隊のGSが彼らの位置と入れ替わるように、ハディード号に接近する。
『姫様の見立て通りじゃ! 船を優先したぞ、あやつら!』
「セレジア!」
『今ですわ! 全機、潜航開始してくださいまし!』
言うが早いか、護衛のGSは全機、海中へと自らの機体を沈めた。
次の瞬間──ハディード号の船体が、青白く眩いプラズマ光を放つ。
ぱちぱちと音を上げ、濃い霧の中に火花が混じり散って、迸った。
EMPディフューザー。半径十数メートルの範囲に高出力の電磁パルスを投射し、兵器の電子制御機器やメカトロニクスを破壊、もしくは無力化するための兵器。
本来、採掘艦や輸送艦などが敵襲から身を守り、逃走するために使われるが、発動には莫大な電力と、非常に大型の機材を必要とする。そのため、ほとんどの艦船でオミットされているか、低出力のものに差し替えられているのが常だった。
だが、今宵のハディード号には、軍艦クラスのEMPディフューザーが積載されている。アビサル・クォーツ採掘用の魚雷発射装置を取り外して、それの代わりに積み込んだ形だ。
電磁パルスの奔流を浴びれば、瞬く間にあらゆる電子装備が機能不全に陥る。
この深い霧の中では、それは目を焼かれたのと同義だ。
ただし、電磁パルスの性質上、海水には伝播しない──。
《ブルー・ブッチャー》はポンプの出力を最大化し、海面へと飛び出した。
他の四機のGSもそれに続く。
深紅の部隊は、すぐに攻撃を察知した。
どうにか反撃を試みるが、視界と情報量の差があまりにも大きすぎる。
B・Bはまず、手近な一機を逆手に持った“藍銅”で切り刻んだ。
四肢がバラバラになって飛び、コクピットのある胴体が水底へと沈む。
その“音”を頼りに深紅の一機がライフルを構えるが、背後から迫った《ライカントロピー》に気付けず、次の瞬間にはそのトマホークの餌食になる。
瞬く間に、二機の敵GSが海底へと没した。
と、同時、状況をモニタリングしていたタリクからの通信が入る
『順調だ、諸君。残りの二機を抑えれば、本作戦は成功となる』
(──そうはさせない)
《ブルー・ブッチャー》が加速し、ハディード号の左舷側へと回り込む。
二機の深紅のGSは、それぞれシエラ部隊の《ハイドラ》に拘束されつつあった。B・Bは速やかに霧の中へと紛れると、カティアに命じた。
「ジャミング、最大出力」
『相分かった!』
《ブルー・ブッチャー》が密かに携帯していた電子戦ポッドが、四方へアンテナを伸ばす。その刹那、レーダーから僚機たちの反応が消えた。
ジャミングによって、現在ハディード号の周囲には強力な通信障害が生じている。これで僚機の側からも《ブルー・ブッチャー》の反応は失われたはずだ。
欺瞞は完璧。
霧の壁を隔てた向こう側へ、B・Bは数発、トリガーを絞った。
“カトラス”が吐いた30mm装鋼弾が、深紅のGSと《ハイドラ》をもろとも襲う。
S1──キーランの《ハイドラ》は大破。コクピットは無事だが、主脚が大きく損傷した。そのすぐ傍にあった深紅のGSの一機は、無数の穴を穿たれて沈んだ。
『伏兵だ! 霧の中に幽霊の仲間がいる!』
S2のカミラが叫ぶ。
──彼女は完全にヴァルハラ・ホライズンの術中にハマった。
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インスマスの艦橋で、タリクは怒号をあげた。
「どういうことだ!? 敵機は全て制圧したのではないのか!」
「どうやら伏兵がいたようですわね。……ジャミングで、何も確認できませんが」
セレジアは、白々しくも応えた。
タリクはその意図にまるで気付いていない。
艦橋の大窓──深い海霧の向こうでは、いくつかの火線が見える。
だが、誰が誰と撃ち合っているかまでは定かではない。
──この状況を作り出せた時点で、セレジアは勝利を確信していた。
ままならない視界と、ジャミングによるレーダー障害。
こんな“五里霧中”の戦場では、何が起きても不思議ではないのだ。
深紅の部隊の伏兵を装い、残存する敵機を殲滅する。
それがセレジアの考えた秘策だった。
(頼みますわよ、ヴァルハラ・ホライズン……)
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短波通信での会話は、ジャミングの影響を受けづらい。
無線に向かって、カミラはただ叫んでいた。
『敵襲、敵襲ッ! 聞こえないのか、援護しなァ!』
──沈黙。
通信こそ通ってはいるが、ナイアとジョニーに動く気はない。
「悪く思わないでよね」
ナイアの呟きがコクピットに溶ける。
彼女は無線のボリュームを下げた。
『クソッ! クソッ! 私が……こんな……──』
やがて爆発が生じ、声は途切れた。
『……やったか?』
ジョニーが訝しげに問う。
「確認する」
B・Bは“カトラス”を下げ、《ブルー・ブッチャー》をハディード号の船体に寄せる。──やがて、霧の視界が晴れ、燃え盛る炎の源が露わになった。
『いやはや、危ないところでした』
短波通信から流れてきた冷ややかな声に、B・Bは眉をひそめた。
『お礼を言うべき……ではありませんねェ。貴方は私もろとも、この方を沈める気でいらしたのですから。お仲間、お返ししますよ』
深紅のGSが、動かなくなった《ハイドラ》の残骸を放り捨てる。
既に拘束を逃れていた敵は、カミラを盾にして生き延びたのだ。
「ヴァルハラ各機、敵は健在だ。交戦準備しろ!」
マイクに向かって、B・Bは叫んだ。モニターの向こうに佇む敵機──深紅のGSは、刀のように長大なモーターブレードを静かに引き抜いた。