第六話:ヴァルハラ・ホライズン
アウステル港に帰港したインスマス号の甲板には、穏やかな潮風が吹いていた。
ティレムスの夕暮れは黄金色に輝き、弩級浮揚基盤の鎮座する海原に眩い反射光を落とした。港の外縁には小さな波がぶつかって、ひらめいては消えていく。
遠く見える、夕焼け色に染まった水平線の境界はどこか曖昧だった。
「はぁ……甲板でのティータイムもオツなものですわね」
今日の紅茶はセイロンだ。少量のラプサン・スーチョンとブレンドしてある。
セイロンのはっきりとしたコクと、松で燻されたラプサン・スーチョンの茶葉のスモーキーな香りが、甲板を漂う海風と混ざりあって独特の風情を生む。
だが、セレジアの顔は冴えない。
「……」
──あれから三日。
驚くべきことに、ATS社からの資源調査依頼の報酬は、正常に支払われた。
4つの鉱脈を発見したことへの追加報酬も合わせ、事前の契約通りの金額が。
その一方で、あの出来事……。
深紅のGS部隊の襲撃と、オクタヴィア号の沈没についての記録の一切は、オービタル・リンク中のどこを探しても見つけられなかった。
セレジアは試しに、一連の出来事をレポート化した資料をリークしてみたが、それらの情報は一切拡散されることなく、3分の内にはサーバー上から消え去っていた。おそらく、何者かがウェブ・クローラーを運用し、掃除して回っているのだ。
「ゼニット・コンツェルン……」
あの襲撃は、ゼニット・コンツェルンの仕業なのか、という、マハルの言葉が忘れられない。それが事実であるならば、いったい何のために……。
頭を過ぎるのは、妹ソフィアが進めていた「強化兵士計画」のことだ。
後催眠暗示とナノマシン・ロボトミーによって人格抑制を施し、戦闘に適したメンタル形成・維持し続けるという人体改造技術。苛烈な戦場の中、コクピットという閉所に押し込められるGSパイロットが発症しやすい「シェルショック」への対策として、ゼニットが──ソフィア・リングが考えだした狂気の結論。
その失敗作として生まれたのが彼──B・Bだ。
本来、特定の感情や思考に対する「マスク」を目的としていた強化兵士技術だが、彼に対しては感情の「ロスト」を引き起こしてしまった。
これら感情の欠落は、兵士に必要不可欠なコミュニケーション能力を大幅に損ない、結果としてB・Bは極めて寡黙で、他者との意思疎通が困難な存在となった。
一方で、オクタヴィア号を襲撃した深紅の部隊には、まるで正反対の印象を受けた。彼らの動きは統率が取れており、円滑な意思疎通能力が見て取れた。
もし、彼らもまた「強化兵士計画」の実験の産物なのだとしたら──。
「アーキタイプの次……ファースト・ロットの、実戦テスト……?」
セレジアはつぶやいた。ATS社の資源探査依頼の裏には、ゼニット・コンツェルンによる何等かの思惑があった。分の良い依頼に呼び寄せられた開拓者たちとGS、突如として現れた謎の部隊、釈然としないタイミングでの撤退。
ゼニット・コンツェルンは、自らの新型兵士を実戦投入し、どれだけ戦果を挙げられるかを見極めるための「実験場」として、あの舞台を整えたのかもしれない。
「彼らの撤退は、テスト終了の合図だった……」
セレジアは紅茶を一口含んだ。
カラカラに渇いた喉に、紅茶の味が染み渡る。
「──これ以上は、やらせない。我が家の名誉は、わたくしが必ず……」
セレジアは、静かに誓い、カップをソーサーに戻した。
彼女の考えが巡るうちに、インカムが軽く振動した。
セレジアは、立ち上がりながら応答する。
『お嬢様、お客人がいらっしゃいました』
「……どなたですの?」
『先日の作戦に参加していたナイア・バーシュ様と、その兄君、ジョニー様です』
セレジアは眉をひそめた。ジョニーはB・Bと一悶着を起こした開拓者だが、妹のナイアには助けられた借りがある。無下にするわけにもいかないだろう。
彼らが船に来る理由を考えながら、セレジアは応接室へ向かうことにした。
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応接室に入ると、二人の男女が待っていた。ナイアとジョニーだ。
ナイアは艶のある黒いジャケットだけを羽織り、銀色のアクセントが付いたタイトなボディスーツを纏っている。彼女はリラックスした様子でソファに腰掛け、チャームで飾り立てられた鍵──GSの起動キーを指先でくるくると回していた。
「どーも、セレジアさん。……ほら、兄貴も挨拶しろって」
「あ、ああ……どうも……」
兄──ジョニーの方は、どうも無線越しで聞いていた声とイメージが異なる。
彼はナイアに負けず劣らず華奢で、顔には疲れのシワと隈が刻まれていた。主張の激しい、トゲトゲとしたアクセサリーは、却って彼のひ弱さを強調している。
「お二方、ようこそインスマスへ。紅茶はいかが?」
セレジアは穏やかに問いかけたが、ナイアは笑って軽く手を振った。
「ありがたい申し出だけど、アタシは遠慮しとくよ。どーせ味なんてよくわからないしさ。でも、ちょっとお話があって。いいかな?」
「もちろんですわ。どうぞ、話してください」
セレジアが応じると、ナイアはうんうんと頷きながら話し始めた。
「率直に言うと、アタシたち、セレジアさんのクランに入りたいんだ」
その言葉にセレジアはカップを置き、彼女をぎょっと見据えた。
「わたくしの、クランにですか?」
「そうそう。アタシたち兄妹を、セレジアさんのクランに入れてほしいってコト。特に、あの青いお友達には興味があるんだよね、アタシ」
ナイアはいたずらっぽく笑い、黒いベレー帽を被り直した。
ラベンダー色の前髪がくしゃりと押し潰れる。
「B・Bにご興味がおありで」
「B・Bっていうんだね、クールだ。そう思うよね? 兄貴」
「そうだな、彼は……ちょっと別格だ……」
ジョニーは、震える声で付け加えた。彼の目には、先日のB・Bとの小競り合いで植え付けられた恐怖がまだ色濃く残っているようだった。
モーターナイフの駆動音でも聞かせれば、その場で意識を失ってしまうのではないか、とセレジアは失礼なことを一瞬だけ想像して、さっと思考を切り替えた。
「B・Bへの関心……たったそれだけのことで?」
「簡単だよ。アタシは強い奴が好きで、B・Bはとびきり強い。それにセレジアさんのことも気に入った。あの氷床を敵に落とす作戦、あなたが考えたんでしょ?」
ナイアはニッと笑って、ソファから立ち上がった。
「そういう人たちとなら、いいチームが組めるんじゃないかって思ったんだ」
セレジアは一瞬考え込んだ。
予想外の申し出だったが、ナイアの言葉には確かな意思があり、その自信と気楽さには戦場をくぐり抜けた者に特有の強さが見て取れる。
彼女が示したのは、ただの好奇心ではなく、本物の関心だ。そして、先日の作戦で知った通り、彼女の実力は折り紙付き。無視できる相手ではない。
「……わたくしとしても、信頼できる人材はいつでも歓迎しますわ。特に、貴方のように経験豊富なパイロットは貴重ですから。ようこそナイア、そしてジョニー」
「じゃ、決まりだね!」ナイアは手を叩き、満足げにソファに座り直した。
「これでアタシも──……あれ? なんだっけ、セレジアさんのクラン名」
「クラン名……?」
セレジアは一瞬戸惑い、そのまま言葉に詰まった。
見かねたバートラムが口を開く。
「……コホン。お嬢様、現在わたくしどものクランは暫定的に『クラン2184』という番号だけが付与されている状態でございます」
「クラン2184……」
「勿体ない。もっとカッコいい名前にしようよ、セレジアさん」
「お嬢様、いかがなされますか?」
バートラムがそっと促す。
「……そうね。クラン名を考えないといけませんわ」
セレジアは少し悩み、ナイアとジョニーの方を向いた。
「提案はあるかしら?」
ナイアは腕を組んで考え始める。
やがて彼女はハッとしたように、明るい顔を持ち上げた。
「じゃあ、『ホライズン』なんてどう? ミライへの広がり、感じない?」
「ホライズン……」
名を頭の中で反芻しながら、セレジアがそっと目を瞑る。
後ろに控えていたバートラムが、控えめに口を挟んだ。
「お嬢様。僭越ながら、わたくしめにも、一つ提案がございます」
「あら……。どうぞ、バートラム」
「それでは……『ヴァルハラ』などはいかがでしょうか? 古い神話において、死闘を戦い抜いた戦士たちが辿り着くという、栄光の殿堂のことでございます」
「ヴァルハラ……戦士たちの楽園ですか」
セレジアは微笑み、ナイアたちに目を向ける。
「それも悪くないですわね。では、両方を合わせてみましょうか」
「──ヴァルハラ・ホライズン……」
ジョニーがぼそっと呟く。
彼の声は震えていたが、言葉にはどこか魅了されたような響きがあった。
セレジアは微笑を浮かべて頷いた。
「そうね、それで決まりですわ。『ヴァルハラ・ホライズン』──未来への広がりと、戦士たちの栄光を求める旅路。ふさわしい名だと思いますわ」
ナイアは満足そうに頷き、ジョニーもかすかに笑みを見せた。
いまこの瞬間、彼らは新たな仲間としての一歩を踏み出した。
その時、応接室の扉が静かに開かれ、B・Bが無言で現れた。
ジョニーがヒッと声を上げ、ナイアが子供のように手を振る。
B・Bはセレジアの方を一瞥して、静かに尋ねた。
「何か問題か?」
セレジアは静かに首を振った。
「いいえ。ただ、あなたに知らせたいことがあるの」
B・Bは無表情のまま、セレジアの次の言葉を待った。
「私たちのクランに名前を決めました。──『ヴァルハラ・ホライズン』ですわ」
B・Bは一瞬だけ沈黙し、軽く目を伏せた。
そして、低く、静かな声でその名を口にした。