幸野人也の未解決事件
ここが観光客で賑わう前に、僕にはやることがあった。
◇ ◇ ◇
3月11日(月) 天気:大雪
この《桜の洋館》の主人、染井春曙は身長180cmの大柄の男性である。歳は33。染井家の両親は他界しており、この《桜の洋館》には長男の春曙が1人で住んでいる。
今日は隣県から春曙の弟である染井名津冬とその妻麗華が訪れている。
名津冬は170cm、すらっとした体型だ。歳は春曙の2つ下で31。短髪で活動的な印象を受ける。
麗華は150cmくらいの小柄な女性だが、ゴツゴツとした装飾品やリップの赤色、金のチェーン柄のワンピースなどから派手な印象の女性である。
っと。メモしながら聞き耳を立てる。
「2人とも元気そうで嬉しいよ。海外への移住は明日?」
「ああ。俺たち明日ここを立ったらその足で空港に行く予定なんだ。だから、最後にこうやって兄貴の顔を見にきたんだよ。明日以降はこうして会う機会も少なくなっちゃうけど、元気でね」
「お元気で」
「名津冬、麗華さんありがとう」
「あと、ほらあなた。あっちに持っていく写真のこと」
「ああ」
「写真?」
「結婚式のアルバムをここの屋根裏部屋に置かせてもらってたの。あなた取ってきて」
「ダメダメ、俺が高いところ苦手なの知ってるだろ。階段ならまだしもスカスカの梯子なんて登れないよ」
「俺が取るよ」
「やっぱり春曙さんはかっこいいわ」
「なんだよ、この浮気者」
「それはあなたなんじゃない? この間もうちに来てたお手伝いさんと近くで話して——」
「まあ、まあ。ほら、結婚式の写真だろ。待ってろ、今取ってくるから」
まずい、春曙さんが屋根裏部屋にやってくる。身を隠さなきゃ。僕は布団のシーツの間に隠れ、息を潜める。
「あった、これでいいか?」
「おー! これこれ! 兄貴ありがとう!」
「懐かしいわね〜」
「手荷物にすると重いから、あっちに送ってくれると助かるんだけど」
「ああ、そのつもりだよ」
「さすが兄貴。助かる」
あーー。危なかった。バレるかと思った。セーフ。
でも、そろそろ危ないな。今日は人が多いから、名津冬さんと麗華さんが帰ったあとで、決行しようかな。明日には雪止んでるといいなぁ。
屋根裏部屋の床に小さく開けた覗き穴から《桜の間》にある『桜の木』を眺め、意思を固めた僕は予告状を書いた。
「暖炉はやっぱりいいわね。あったかいわ」
「俺も好き。兄貴マメだよな。煙突の掃除とかも自分でやっちゃうんだろ」
「ああ」
「ほんのり香る甘い香りもいいよな。変わらずずっと桜の木を使ってるの?」
「そうだね、こだわりだから」
「本当、兄貴の桜愛はすごいよ。俺や両親が住んでた頃は普通の洋館だったのにいつの間にか《桜の洋館》って県外でも桜の名所として名前が上がるくらいの観光地みたいになっちゃってさ。この満開の桜の絵も《桜の間》っていうこの部屋の名前にぴったりだよな」
「"桜"が好きだからね」
「……お義姉さんずっと愛されてていいわね」
顔を背けた麗華さんの呟きが僕の耳に届く。
「あ! なあ、俺たちの結婚式のときのアルバムに芳乃さん写ってる!」
「お義姉さん、このときはまだ春曙さんの婚約者で苗字が杉さんだったわよね」
「あー! そうだったそうだった!! あ、俺たちだけ盛り上がって……兄貴大丈夫?」
「大丈夫だよ」
「そうよね、もう5年も前のことだもの」
「麗華よせよ」
「いいよ名津冬。事実なんだから。芳乃がこの洋館の外で遭難して凍死した日から、明日で5年だ」
部屋が静まり返る。
「すまんすまん、さあ、晩御飯にしよう。明日の出発のお祝いに焼肉だ」
「おおー!! いいね!!」
「春曙さんありがとうございます、お手伝いします」
「いいよ、座ってゆっくり名津冬とアルバムを見たりして楽にしてて」
◇
「あーー、食った食った。兄貴ありがとう」
「ごちそうさまでした」
「お粗末さま」
「じゃあ兄貴、俺たち明日早いから、風呂入ってもう寝るわ」
「ああ、おやすみ。これ、よかったら使って。桜の香りの入浴剤なんだ」
「あら? ……ありがとうございます、春曙さん」
「どうかしたのか? 麗華」
「あなたから先に入るでしょ、はい、入浴剤使って」
「ああ。じゃあ、おやすみ兄貴!」
「おやすみ」
◇
3月12日(日)天気:雪
今日未明、ピーー、ピーーとけたたましく鳴る火災報知器の音で僕は目を覚ました。
「起きろ! 名津冬!! 火事だ!! っお前、麗華さんはどこ行ったんだ!」
「え、いない!! 寝る前は横に……麗華ー!? 麗華ー!?」
「《桜の間》に行ってみよう!」
「あ、ああ」
「くっ、ドアノブが熱い。兄貴ダメだ、鍵がかかってる」
「ここの鍵もマスターキーもなくなってる」
「違う部屋にいるかも……」
「いや、ここに鍵をかけた覚えはない。麗華さんがいるならこの中だ! 消火器で窓割って外から入るぞ!」
「ああ!」
窓ガラスの割れる音が響くと同時に消火器から消火剤が噴射される音が勢いよく響く。
「麗華!! 麗華、なんで。嘘だろ」
麗華さんは暖炉に首を突っ込んだ状態で全身を焼かれて亡くなっていた。状況から見て麗華さんに間違いないが、見た目からはどこからも判断できないほど、遺体は真っ黒に焼け焦げていた。
煙に気づいた誰かが通報したんだろう、消防車と救急車、パトカーがほどなく到着した。
◇
「警部! この部屋の鍵も、マスターキーもこの部屋から見つかっています。夫の名津冬さんの証言やお兄さんの春曙さんの目撃していた情報によればこの部屋は密室であり、内部に犯行者がいるとは考えられません。また、染井さんご兄弟が麗華さんを助けるために窓ガラスを割った以外この部屋が荒らされた形跡もありません。幸野万繪の『桜の木』も無事です。物取りの犯行とも思えません」
「えー、では、話を聞く限り、これは不幸な事故ということでよろしいですかな」
「麗華……」
「名津冬」
染井兄弟は事情聴取を終えたらしい。
「では、また後日ご連絡します」
「はい」
「警部、屋根裏部屋や他の部屋は調べていませんが、よろしいですか?」
「まあ、いいだろう。目撃証言や状況から見ても事故だ。撤退するぞ」
「ハッ」
隠れながら聞き耳を立てていた僕は小さくガッツポーズをして、覗き穴から《桜の間》を覗いた。
警察が出て行って、急に名津冬さんの態度が変わった。
「はーー。なんだかよくわかんねーが、助かったぜ。勝手に事故で死んでくれて。保険金だって入ってくるし、これでもう一生遊んで暮らせるな」
春曙さんは無言だ。
「兄貴だって知ってるだろ。今俺付き合ってる子がいるからさ、晴れて独身。自由の身! 兄貴と一緒だな。兄弟揃って奥さん事故で亡くすってどれだけ不幸なんだよ俺ら。ははっ」
「麗華は事故じゃなかった。お前がそう教えてくれたじゃないか」
今度は名津冬さんが黙った。
「今年の年始、お前の家でお手伝いの女性との浮気を目撃したとき、麗華さんへ浮気をバラさない代わりに、とっておきの話聞かせてやるって」
「あ、ああ」
「5年前の今日、麗華さんはお前との関係に不満を持った末、僕たちの夫婦関係を羨み、妬ましく思った。俺には遠くの店への買い物を頼み、芳乃には俺がスキーに出かけたきり戻ってこない、遭難してるかもしれないと嘘をついた。焦った芳乃は警察を頼る前に無我夢中で俺のことを探しに、雪が降りしきる中外に出てしまった。そのせいでそのまま——」
「……わ、わりぃ、兄貴。俺ちょっと、頭が混乱して、クラクラしてきた」
「いいや、謝らないでくれ。最愛の妻が亡くなったんだ。混乱して当たり前だよ。お前は何も悪くない。あちらの部屋は無事なんだ。ガラスの修理も夜にはできそうだし、もう寝てきたらどうだ」
「そうするよ、兄貴。ありがと」
名津冬さんは、フラフラとした足取りで《桜の間》から出て行った。
そろそろいいかな。
僕は屋根裏部屋の扉を開けた。
◇
僕と目が合った染井春曙さんは心底驚いた顔をして、固まっていた。
「よっと」
梯子を使わずに《桜の間》の床に着地する。
「おはようございます、春曙さん。ちょっとだけお話しよろしいでしょうか?」
春曙さんは怪訝そうな顔でこちらを睨む。
そりゃそーだ。いきなり知らない奴が自分の家の屋根裏部屋から出てきたんだもん。
「誤解のないように先にお話ししますが、僕がこれから話すお話はここで聞いてここで消えていくだけの"氷"のようなもしも話です。誰にも話すつもりはありません」
春曙さんの顔色が変わった。睨んでいた目は、驚きと恐怖のような震えを見せていた。
「すみませんが聞いていただけるとありがたいです。ここが観光客で賑わう前に、僕にはやることがありまして」
「……聞くよ」
「ありがとうございます。助かります。では早速春曙さんにお尋ねしたいんですが、この部屋は本当に密室でしたか?」
「刑事さんがそう言っていた」
「ええ、仰っていましたね。《桜の間》の鍵は内側からかかり《桜の間》の中にこの部屋の鍵とマスターキーがあったと。その状況から考えられる答えはひとつ。今回亡くなった麗華さんが自ら鍵をかけた」
「密室だね」
「いえ、この《桜の間》には暖炉があり煙突がついていた」
「……はっ、煙突なんてたかだか直径200mmだ。人が通れるわけがない」
「はい。人は無理です。でも、氷なら?」
春曙さんは驚いたようにこちらを見た。
「《桜の洋館》であるこの家の煙突の直径は200mm市販されている煙突の中でも広い部類だ。市販されている煙突径はだいたい150mm。春曙さん、あなたは、そういったものであらかじめ細長い氷の塊を作っておいて、雪の中にでも隠しておいた。
例えば担いで屋根に登れるであろう質量30kgの氷の塊を作ったとする。この洋館は平家だから、煙突の上から暖炉までの落下距離hを5mとし、重力加速度gを9.8m/s ²とすると、落下時間tは1.01sとなり、落下速度vが9.90m/sと求められる。
質量30kgのものを高さ5mから落とすと、落ちる速度はだいたい1秒で10mっていう計算。
そこから衝撃力Fを計算する。
質量m30kg、移動速度v9.90m/s、制動距離lを1mとすると、2940.30N=300.03Kgf
細かい話を抜きにして、だいたい300kgくらいの物が頭に落ちてきたと計算から導き出せる。グランドピアノが250kgくらいだから、その衝撃力はとんでもないだろう。
そしてあなたは証拠隠滅のため仕上げに煙突から炎を投げ入れた。氷は溶けて消える。炎はあらかじめ暖炉に組んであった桜の木に燃え移り広がった。麗華さんはこうして殺害された。高所恐怖症で屋根に登れない名津冬さんにこの犯行は不可能。麗華さんを殺害した犯人は、春曙さん、あなたですよね」
春曙さんは体を震わし、下を向いていた。
「犯行動機は5年前妻の芳乃さんが亡くなったことへの復讐ですよね。……辛かったですね」
春曙さんはバッと顔を上げた。
「ああ、そうだ」
その顔は憎しみに満ちていた。
「許せなかった。ただの妬みで、最愛の妻の命を奪ったこと。あの女、名津冬の浮気の証拠を暖炉の中に隠してあるから深夜2時にひとりで取りに行ってくれと書いたメモを渡したら、その通りに行動してくれたよ」
「入浴剤を渡したとき、一緒に渡したんですね」
「そんなことまで知ってるのか。もう君には何も隠すことなどないな」
「はい。最初に言いましたが、僕はこの話を誰にも話すつもりはありませんし、もちろん警察にも絶対行きません」
「では話きってしまおう。鍵とマスターキーは事前に《桜の間》に置いておいただけだ。浮気の証拠をひとりで見たいという心理から、あの女が勝手に自分で密室を作り出すと予想した。結果はその通りになった。年始に名津冬から芳乃の事件の真相を聞いてから、あの女だけは許さないと心に決めた。あの女が海外に行ったら復讐できなくなる。だから芳乃の命日の今日、家に招き計画を実行したんだ」
春曙さんは一呼吸おいて、こちらに目を向け話し出した。
「観光客で賑わう前にやることがあると言っていたね。君の目的はなんだい」
「予告状は出したんですけど《桜の間》に置いたので、どうやら春曙さんが見つける前に麗華さんが見つけて、あの晩一緒に燃えてしまったようですね。春曙さん、僕は《桜の間》に飾ってある幸野万繪の絵画『桜の木』を頂戴しに参上しました」
「君は何者なんだい?」
「幸野人也。怪盗です」
「こう、の……」
「幸野万繪の末裔です」
「末裔の君がなんで怪盗なんか」
「父の願いなんです」
「お父さんの?」
「はい。父は美術館で働く学芸員でした。父の専門は日本洋画。当然、巨匠であり、先祖である幸野万繪の作品についても研究していました。父は調査を繰り返す中であることに気づき仮説を立てました。『万繪の作品を所有すると不幸になる』と」
「まさか! 幸野万繪の作品は、印象派を思わせる点描画によって生み出される濁りのない優美な色彩が特徴で、その夢のような心地よさは見ているだけで癒され幸せを呼ぶと言われているし、名前の語呂合わせからも『幸せが満開になる』で縁起がいいと有名なのに!」
「そう。幸野万繪の絵を所有している誰もがそう思っているし、実際一部は当たっています。絵画を所有した人は皆幸せになっています」
春曙さんは縋るような目で僕を見る。
「幸せになったあと、必ず不幸になっている」
春曙さんから涙がこぼれる。
「そうです。春曙さんは思い当たる節がおありですね。奥様の芳乃さんとお付き合いをする前に『桜の木』を購入し、ご結婚され幸せな日々を送られていた。しかし、芳乃さんは他界され——」
「ああ、今でもはっきり覚えてる。幸せが満ちるよう『桜の木』の前で告白しようと決めて購入したんだ。そうして準備を整えて『桜の木』の前で告白すると彼女は頬をピンクに染めて『よろしくお願いします』と頷いてくれた。でも、そのあとすぐにいたずらっ子のような笑みを浮かべて『いつかキが変わっちゃうかも』って僕を驚かせるんだ。『な〜んて! 木だよ、木! 私の苗字、杉だから、染井くんと結婚したら桜になるな〜と思って!』ってとても楽しそうに笑っていたよ。結婚して染井芳乃になった彼女は満開の桜のように笑った。彼女はとてもあたたかい、のどかで朗らかな春のような人だった。」
「父が亡くなる前に言っていました。『物事は円環を成している。幸せと不幸は決して対極に位置しているものなどではなく、隣り合わせに存在しているものなんだ』と」
「そうか……満開の桜は、あっという間に散ってしまうんだな」
春曙さんは大粒の涙を流して泣いた。
僕はただ、その場にいることしかできなかった。
「……『桜の木』持っていってくれ」
落ち着いたころ、春曙さんが僕に呟いた。
「ありがとうございます」
「いや、こちらこそ」
「僕は決してこの事件のことを警察には話しません。怪盗をしていますし、詮索されたら面倒です。このあとのことは全て春曙さんにお任せします。最後になりますが、物事は円環を成していることを忘れないでください。私は不幸の隣には幸せがいると信じています」
そう言い残し、僕はその場から立ち去った。
みんなみんな、できれば苦しいことはなければいいのに、満開の桜は散る。
◇ ◇ ◇
「母さんただいま」
「お帰りなさい」
僕は自室に入り、本棚の本を規則性を持って動かす。
ガコンと音が鳴り、本棚の前に階段が現れた。
地下への隠し通路だ。
この部屋は元々父さんの部屋だった。
父さんの部屋の本を読んでいたのを知っていた母親が、僕の部屋にしてくれたのだ。
僕は父さんが亡くなって3年経ったある日この仕掛けを偶然、発見した。
見つけた日記は、父さんの部屋に入って本を読むのが好きな僕がいつかこれを見つけてくれると思っていたという文から始まって、幸野万繪のこと。怪盗のこと。今までに回収してきた作品のことなどが書かれていた。
そして、事故だと思っていた父の死が事件かもしれないという仮説がこのとき浮かんだ。
父は幸野万繪に詳しくなりすぎたため何者かによって消されたのではないか。
母さんは何も知らない。
それでいい。それがいい。
母さんと情報を共有したら、今度は母さんが狙われるかもしれない。
僕はひとりで父の願いを叶える。
幸野万繪の絵を見て幸せな気持ちになった人、その幸せが不幸に色を変える前に、作品を回収してその人のことも、幸野万繪のことも、幸野万繪が好きな父の心も守りたい。
俺は父の写真に話しかける。
「父さん、ただいま。『桜の木』回収できたよ。今回は間に合わなかった。それでも——」
全てを失ったと、不幸に打ちひしがれる人の心にせめて、蕾が芽吹きますようにと今日も祈り、自分にできることをしていこうと心に誓って眠りについた。
お読みいただき誠にありがとうございました!!
楽しく穏やかな時間が、あなた様にたくさん訪れますように。
ご健康とご多幸を願っています。
※ この小説はフィクションです。実在の人物や団体などとは関係ありません。