『反撥(リパルジョン)』
感想を頂ければなと思っております
『反撥』
一つの凄艶なる記憶がわたしのパンドラボックスに創り上げられた。それは男であるならば、特に稀でもない瞬間だったろうが、ロマンチストを自称するわたしにとっては極めて奇異な遭遇であり、いつまでも温存しておきたい過去となった。しかし、その愛おしいはずの記憶がわたしの精神を内から食い破り、それまでのわたしを一刀両断にして見事なまでに殺してしまっていた。それにより、精神の拠り所を失ったわたしはディアボリズムという悪意に満ちた思想を全面的に受け入れることとなった。悪魔主義との出逢いはそれがキッカケだった。
悪魔主義!ソンナ怖ロシイ思想ヲオ前ハ会得シタノカ?
と諸君らは思うかもしれないが、悪魔主義の真の目的は〝旧套の擺脱〟にあるとわたし個人は信ずる。つまり、それは平坦で凸凹のない生活を一変させ、起伏に富んだ荒々しい生活へと変貌させることだ。言い換えれば、屍のような平坦で決まり切っているレールのような生活からグルリと変わるような、デンジャラスで豪華で、活気に満ち溢れた道のりへと流れを変えることにより、本物の〝生の実感〟を享受することだ。したがって、悪魔主義自体は別に悪の信仰でも、そして悪魔の崇拝でも何でもないが、〝生の実感〟及び〝死への反撥〟という表裏一体とした教えを掲げている特異な思想の一つに過ぎないわけだ。何事も大切なのは、一つの信義に対して自身の忠実さをどう見せるかであり、悪徳の信仰または善良への反撥、それ自体には裏表などはない。悪を主軸とするわたしの場合には、善からの退避として存在している〝悪〟に人生と呼ばれる長い旅路の意義を見出すことにあり、それ以外の何事でもないわけだ。
ともかく、そのようにして我が精神は悪魔主義者へと変革を遂げた。
それから月日は流れ、わたしは現実から遠く離れた夢物語で暮らし続けていた。
それはわたし自身が悪魔主義と呼ばれる反社会的な思想を呼び起こした忌まわしい風習の呪縛から解放されるためだった。マイヤーズ…、カティサーク…、ジャックダニエル…、それらに頼った深酒による風情だとか、ペルーサ…、シルポート…、トーセンジョーダン…、愛馬に賭ける博打によった魂の戦き(おののき)だとか、円らな瞳…、艶めかしい鎖骨…、ふくよかな乳房…、麗し(うるわ)いほどの愛欲が創り出す感喜だとか、またはマゾヒズム、サディズムからなる性的倒錯から醸し出されるエキセントリックな悦楽がわたしの生きる糧へとなっていた。だが次第にその程度ではわたしの奥深い欲心の充足を満たすことなど不可能になっていった。気づけば、わたしの欲望はチャレンジャー海淵の如く深い溝を持つまでに成長し、日に日に生活が頽廃を極めるにつれて、次なる次元へと移行を望み始めていた。そうすればきっと欲望が飽き足りるのではないか…、そのようにわたしは信じて疑わなかった。既にわたしは愛欲による虚像の想像などや、ドランクネスなどによる虚無世界の構築などは日常茶飯事となり得ており、興味や興奮の対象ではなくなりつつあった。
セックスや泥酔、ドラッグに拠らない悪魔主義的次元とはいかなる存在か。どのようなものであれ、きっとそこにはもっと遊び心があり、そしてもっと好奇心を呼び起こす違う情景がラベンダーの花畑のように永延と羅列されているはずだ。そのように思い倦ねてから数日が過ぎた頃、仲違いしていた父が病院で息絶えたという吉報を継母伝で耳にした。
良いか悪いかは別として、あの父がやっと死んだ…そのように思うとすべてが終わりを告げた気がしたが、動き出した欲望をわたしは止める術を知らず、相変わらずハッパの煙に巻かれたり、Eurokinemaの幻想に巻かれたり、または裸婦の柔肌に巻かれたりして、肥大化を続ける自身の感受性を小さな潤いでごまかしていた。それはまるで鋭い眼光を放つシャークにタコ人形を与えているかのようだった。焼け石に水…、正にそれだった。
ともあれ、電話越しの母によると父は死ぬ間際〝コート〟という謎めいた言葉を天井に向かって何度も連発したという。コート…、それはテニスコートなどのcourtか、それとも外套のcoatか。どちらにせよ、何故父は断末魔にそのようなパズルのような言葉を言い放ったのか。本来ならば無念や悲想を指し示す「死ぬのイヤじゃ」、「まだ女と遊んでいたいのじゃ」などが妥当ではないか。
ところで、コートという言葉で思い出したわたしは、突如、ある一つの傑作的事象を想像し得る事柄を思いついた。それは、生前に父がわたしにくれた外套に袖を通して、ネオン溢れる町中を散策することだ。そうすることにより、わたしの廃れた感覚に潤いを与え、そしてわたし自身を満足至らしめることができるのではないかと、そしてそれこそが新たな次元ではないかと思うに至った。何分もない衣服であれば、そのような恢詭なる空間をわたしの内部に創り出すことなど不可能に決まっているが、そのコートは本当に特別なモノで、わたしのまだ見ぬ感覚を芽生えさせるには恰好の材料に違いはなく、それこそが次なる次元への鍵だと考えるに至った。
早速、箪笥の奥底から古びた木箱を引き摺り下ろすと、その中に眠っている色調が濃い紫色のコートを取りだした。
全くをもって素晴らしい!
じゃれつく女のようにわたしの下膊に抱き崩れたコートは、スタンドの曖昧な光に照らされながらも、天鵞絨の生地が絢爛豪華な宝石の如く汪々(おうおう)と光り輝いているかのようだった。わたしはその美しい色彩を眺めているだけでも、自分が何処かお伽の国へと呼ばれていると感じていた。また別世界という見知らぬ扉がもう既に開かれていると感じていた。そしてわたしはすぐにそれを着ては、その効果を試してみたくなるのだった。
父からコートを譲り受けたのはわたしがまだ女を知らぬ頃であり、それ故に身分不相応と判断したわたし自身によって、今までずっと箪笥の奥底へと仕舞い込まれていた。だが、先ほど起きた偶発的な出来事によって永き封印は解かれた。それにしても、風化を感じさせない造りと劣化のない美麗さを永年にわたり備え続けている衣服反物を見たのはこれが初めてで、わたしはそれにできるだけ見合う下着やら、上着やら、靴やらを探しだしてくるのに一苦労も二苦労もしたが、何とかどうにか見つけ出すと、それらを身につけては、主人であるコートに遜色ない姿を形作ることに成功した。偉大なる面影を下ろして止まない膝丈のオーバーコートを羽織ったわたしは全身を映し出す大鏡の前に足を揃えた。それにはわたし自身も驚かされた。目の前には自分でありながらも自分でない自分がいたからだ。普段は特に着飾らないという旧套を破りさったわたしが向こう側に確実に存在していた。そしてそれに伴い五感が徐々に動き出していく様もまた感じられた。そして、ちょうどその鏡には外部へと繋がっている玄関が大きく見えていた。
すべてはコートから始まったと考えると、嫌いでありながらも亡き父に感謝しないわけにはいかなかった。そして、一度彼のことを考えてみた。ちょうどわたしと同じ年頃、彼は独力で会社を興し、世間に青年実業家としてもて囃されていたと。彼はよく言っていた。「ロッテの社長はリヤカーを牽いてガムを販売していたが、俺は貨車も持たずに翻訳本を販売し続けたと。その結果がこれだと」
彼は若き実業家として、週刊誌の表紙や誌面を飾るだけではなく、新進気鋭の実業家としてTVのワイドショーにも出演歴があった。実際に単なる弱小出版社をテレビ局や全国新聞を配信するほどの巨大マスメディア企業へとのし上げることに成功していた。札束で折り重ねられた道を闊歩し、その背後には取り巻きの他に多勢の美女を従えていたと。そのような頃、このコートをファッションの聖地イタリーのローマで購入したらしいと。大卒の初任給が三、四万の当時、50万ほどで購っ(あがな)たらしいので、今であればかるく数百万は下らないだろう。
コートだけに留まらず、アルマーニやヴェルサーチなどの上等な衣類を着ているわたしにはふとすると、何か不思議な力が沸いてきているかのようだった。そしてそれがわたしを普段とは違う男へと仕立てていくのを知った。これこそがわたし自身が期待した効果だが、それはあまりにも絶大であまりにも怖ろしい力であり、時には畏怖すら感じられ、時々、身が戦慄するほどの緊張が全身を隈無く走破し続けていた。きっと外見上だけに留まらず、この衣服に封じ込まれた熱き魂が解き放たれたからだろうか。仮にそれが事実であるならば、とても不思議なことだ。父は偉大すぎた…そのことが過去においてわたしを一度破滅させておきながら、今ではわたしを再構築し始めたからだ。
冠を(かんむり)被った乞食の気分なわたしだが、それだけでは物足りなく感じ、先の予定通りで、それがわたしを断然と屋外へと晒け出すことを実行させた。わたしは自己満足ではない確かな実感を味わいたかった。そしてまた通常の生活では見当たらない何かを確実に見つけたかった。早くもタクシーを呼んで、左手にテニスコートを眺めながら流れるようにして館から出ると、窓の向こうには覚えのある景色がしばらく映えていた。やがてそれも消え、長いハイウェイが連なる道を太陽が沈み込む前に通り抜けると、活気で満たされた大都会が顔を覗かせてきた。毎日ここへ通い、毎日ここで働いているというのに、わたしの眼には真新しく投影され続けていた。しばらく、八重洲、新橋、新宿と幾つかの中心地を周回させたが、そこに偉大さはなくなっていた。そればかりか、すべてを呑み込んでしまうはずの大都会がどれも皆わたしに従っているかのようだった。巨大で猛勇とした街並みがわたしの下で完全に平伏せてしまっている。全身を包んでいる衣装がわたしを吸い込むように変えてしまった。おそらくはそれに違いない。そして40年以上も昔、父もこれと同じような気分に陶酔していたに違いないと。そう解すると、彼を少しだけ許せたような気もしたが、悔恨したところで事態は普遍なので放っておいた。
そのような折、渋滞に捕まったわたしは窓先を歩く女たちを眺めてみた。目に付く女はどれもが中年増であり、わたしより一回り…ひょっとすると一回り半ぐらい齢を重ねていた。そのため彼女たちは皆露出を控えていたが、それが却ってわたしの注意を引いたという側面もあった。わたしは妙齢を過ぎ去った女は好みではないが、古びた体で遊んでみたいというゲテモノ趣味が確かにあり、既に過去においてそれは何度か実行されていた。そしてまたその思いが込み上がってしまったようだ。だが、以前よく見られたような「年上の裸体に包まれてみたい!」や、「年上の女に遊ばれてみたい!」というマゾヒズム的な被支配欲求ではなく、むしろ正反対の望みだった。そして、わたしは彼女たちを使って脳中に幻想を抱くことを決して怠らなかった。清楚で愛らしい年上の女をジゴロの如く言葉巧みに誑か(たぶら)すわたしがいる。そして手先の赴くままに衣服を引き剥がし、そこに眠った身体髪膚を尽く征服するわたしがいる。ついには女に永遠の服従を誓わせる悪魔のようなわたしがいる。そのような非日常への憧れが募ると、それが欲望という過大な渦を巻き、本気でそれを実行しようという気になった。願わくば年増の身体を汚く蹂躙してやろうという願望だ。あのような弛みきった肌で思い切り遊んでみたい。あのような乾ききった瞳でずっと見つめられてみたい。あのような嗄れ(しわがれ)た声で目一杯喘がせたい。子供の頃に夢みたようなファンタスティックな妄想を描くことを禁じ得なかったわたしだった。
これまでわたしは処女はもちろんのこと、整形女、舶来の女、蜘蛛を彫り込んだ女など多岐にわたって性の制覇をしてきて、その中にはもちろん年長者もいたが、年長といってもせいぜい30代であり、四十路超えへの挑戦は未だ嘗てなく、それが故、今回興味を倍増させる結果となっていた。セックスを愛好愛玩するわたしが何故に今まで晩期に差し掛かった女と絡まなかった理由は、一に酒坏に慣れた女を口説き落とすことが果てなく困難な仕事と思われたからだ。二に若さを失った彼女たちは果たして実際、知り合ったばかりの男に対して天井を仰ぐという青めいたことをする覚悟があるのかという懸念。三に彼女たちの相手として若いわたしは相応しいのか。それらに拠っていた答えだったが、もはやそれらはすべて崩れ落ち、わたしの前では単なる覚書で(おぼえがき)あり、大暴落したワイマール紙幣のようで、破り去っても構わないものとなっていた。
そしてついに、わたしは青山通りを過ぎた辺りでタクシーを降りると、周到に隈無く女探しに没頭した。さすがの混雑。だが、そのせいもあり、かなりの高確率でいい女は見つかりはしたが、これとて一歩を踏み出す気にはならなかった。所詮、わたしは悪魔のお面を被った乞食なのかもしれない。そんな想いで宮益坂を自らの足で下ると、そこで信号の切り替わりを待っていた。その先には懐かしい電車が綴音を響かせながら通り過ぎており、一瞬間、高校時代の自分を思い出していた。そしてその真下には偶然にも見覚えのある女がいた。女は普通に歩っていた。
真っ白なカーディガンを羽織り、首元からは茶色いタートルネックを飛び出させており、下半身に小さく拡がった真っ赤なミニスカートがとても印象的だった。
愛しのAnna Karina発見!
とても信じがたいことに、昔わたしが世話になっていた女…、過去に愛したことのある女がいたのだ。そのまさかの遭遇に、わたしはあの記憶をカムバックさせた。それはわたし自身が「運命」というモノを初めて意識した過去だった。だが同時に、「運命」という曖昧さに畏怖すら感じたわたしは敢然と反撥を起こし、結果的にそれを逃していた。「運命」というものがこの世界に存在するかどうか、いまだにわたしにはわからない。だが、どちらにせよ、わたしは今目の前にいる女に声をかけるのだ。
ターゲットの女…金沢美魅はわたしの母より幾分も年下だが、年増であることは確かなので、わたしはその女に決めたのだった。金沢さんはわたしが高校生の頃、同じ学校で教鞭を執っていた。生徒のわたしは彼女を愛していたが、彼女にはそのようなことはなく、ただわたしを弟のように思っていたようだった。だからわたしが期待した妄想が現実と化すことは一度足りとなく、肉体的な繋がりはおろか、デートも、そして手を繋ぐことすらなかった。しかし、どういうわけか、校内では二人の間によからぬ噂が立ち籠め、それが彼女を二年余りで転勤させてしまった。その真相はきっとこうだ。彼女に弟のようにも扱われなかった童貞デブ眼鏡という三重苦を背負わされた少年がわたしへの嫉妬心から彼女を職場から謀殺したのだろう。だが、後悔したところで、―――意味はない。
信号が赤から青へ移り変わった。人々が交差点に溢れだすと同時に、わたしは群衆を押し退けて走り、雑踏の中央でその女を捕まえた。
「待って」
すれ違いざまに無防備になっている女の右手首を握ると、彼女は驚くように、しかしながら何故かゆっくりと振り返った。もう一昔前だというのに、金沢さんはいまだに美しく圧倒的なプロポーションをこれ見よがしに露わにしていた。それは彼女をわたしと同世代と偽らせることも容易にできるぐらいだった。それくらい彼女は昔と劣りもしない美貌を保ち続けていた。それはフェイスだけではなく、全身に及んで若々しくかった。さらに彼女は足美人でもあり、丈の短いスカートから存分にはみ出した艶やかで程良い肉付きの枝が美脚ハンター(レッグ・マン)のわたしを密かに欣喜雀躍とさせていた。わたしの呼び止めで立ち止まった金沢さんは別段驚く様子もなく、わたしのことを見据えていた。しばらく、わたしと彼女は各々の瞳で互いのブランクを詮索し合った。行き交うゴタツキという雑音を差し置いて、二人の間には真っ白な音だけが長々と支配するかのように思えた矢先、それを終わらせたのは金沢さんの方だった。
「それ、素敵なコートね」
その奇々怪々とした文句が二人に動作を与えると、わたしには過去のものとなったはずの願望が突如として甦ってしまった。そしてそれが彼女に誘いをかけると、奇しくも彼女はその誘惑を承諾し、わたしの真横に引っ付くように歩き出した。またその時、彼女が応えた言葉は「えぇ」ではなく、「コートが素敵だからいいわ」だった。これが一体何を意味するか、わたしにはわからないが、おそらくはこれこそが父が残していった最大の遺産なのだろう。
そして金沢さんはわたしの言うがままに従い、二人は近場の密室へと身を乗り入れた。その気分…、実に摩訶不思議な逢引ともいえよう酔いどれで、既にわたしには「彼女を支配してやろう」という粗暴な野心は微塵もなくなっていた。昔夢みた女が今ではわたしのモノとなろうとしている。ともかく今現在のわたしには凡庸な日常、在り来たりの生活、普遍の出来事などは既にどこにも存在しなく、わたしは自身が永年にわたり探し求めていたものについに出逢ったような気がしていた。悪魔的言葉に言い換えてみれば、人骨でできあがった山の山頂へと自力で辿り着いた気分だった。それは邂逅に等しい出来事であり、誠に不安定な心地だが、今をとにかく楽しもう。そのような陽気な心持ちで、部屋に入ると、灯りを暗くし、有線放送を部屋一帯に流させた。それらは女からの注文ではなく、わたし一人が勝手にやったことだった。
諸君らは以下のように考えるかもしれない。
モシカスルトオ前ハ四十過ギノ肉体ヲ直視スルノガ怖カッタカラカ?
いいや、それはない。確かにわたしは四十路オーバーの肉体の探求は初めてだが、わたしの中で生きている金沢さんは12年前の年齢でストップしたままだ。さらに、衣服から零れた肌は他の20代のそれと比べても何ら見劣りはしないばかりか、見事なまでのプロポーションで、普通一般女の平均値を容易く凌駕していた。部屋を暗くし、優しい音楽を流したわけはそこにはなかった。普段はポルノ男優のように破廉恥なわたしが、そのような控えめな行動を現したのは、今日だけは本来のロマンチックなわたしでいたかったからだ。
エリック・サティの都会的なクラッシックBGMが静かに流れる薄暗い電光下、わたしの眼下に仰け反った金沢さんは自らの手でカーディガンのボタンを静かに外すと、その下にはフリル付きの純白としたブラウスの薄いレース越しに淡い桜が二つ見えていた。その後、露わになった雪色の肌からは数々の歴史が垣間見えた。
その発見に際し、彼女自身もそれを隠さず語ってくれた。だがそれらは大した問題ではないばかりか、むしろ大きな感動を呼んでいた。わたしは経験貧弱な処女よりも経験豊富な妖婦を愛する覚悟と趣味があったからだ。金沢さんが一つ言葉を発する度に、わたし自身では知り得なかった彼女の一断片を知り、それがまた好奇心を呼び起こしては、彼女に新しい言葉を求めていた。それが二人の間を鎖のように硬く連なると、互いに見つめ合いながら長くも早い接吻を何度も交わし、ついには双方が身体を這わせた。誠に久しくも圧倒的な感動…、確かに年代を感じさせる沈み具合はそれ自体では非現実的であり、不調和音ともいえただろう。だが、張りのある表情と美しすぎる百態の存在が示す肉体のアンバランスがそれを見事に打ち砕き、類例のないほどの卓越した快感をもってわたしの情欲を最大限まで引き上げては、引き潮のごとく遠くまで一気にさらっていくのだった。また彼女の体からは雑多な男たちと混じり合っていた過去すらも明瞭としたが、そのような生活をも一種の功績と考えているわたしには誠に(まこと)結構なことであり、大いに賛同することができていた。
男と女は共に魔物でなくてはならない。
アンティークな肢体を思う存分使いこなす金沢さんとの遊びはまるで吉沢明歩や、波多野結衣といったポルノスターと戯れているかのような楽しさがあり、わたしの大好きな数字が二つ付くプレイもさらに喜ばしく行えた。そしていつしか、わたしは金沢さんを再び〝ミミ先生〟と呼び、彼女はわたしを以前のように〝ヨーくん〟と呼んでいた。
「ミミ先生!ご馳走様でした」
楽しさの勢いをかって、初めてオシッコも飲んでしまったわたしがいた。
彼女の滑らかな肉体を一通り感じ終えると、一途に愛を述べた。ミミ先生もそれに応え、わたしと彼女は幾年経って初めて無二と成り得た。それまでダルマのような不満足を唱えていたわたしの五体が今では満腹と化している。この現実は確かにミミ先生がもたらしたモノで、女を抱く喜びを初めて実感したわたしだった。これまでも、わたしは幾多にわたる女をこの腕で抱き上げてきたが、彼女と比較すれば、その者たちは齢は(よわい)若けれどB級C級にすぎず、本物のセックスを享受させることができる質の持ち主ではないのだった。その後、二人はいったん宿舎を出て、ミミ先生の行きつけのバーへと入店した。一人のバーテンダーと向かい合ってカウンターに腰掛けると、わたしはハイニー(ハイネケン)を、ミミ先生はサイドカーをそれぞれ注文した。
背の低い小僧から飲料を渡されたミミ先生は、
「――でもヨーくん、ホントに久しぶりだね」
と言うと、懐かしそうにわたしの瞳を見つめた。
わたしはビールを半分ほど飲み干すと、
「そうですね。でもミミ先生、普通は順番逆じゃない?」
ミミ先生はわたしを覗き込むようにしながら、
「なんの?」
彼女の瞳にはわたし同様に悪魔が宿っているかのようだった。
「いや、別に…」
わたしはお代わりとして赤ワインを頼むと、ミミ先生は、
「わたしから言わせてもらうと、ヨーくんのセックスはまだ60点ぐらいね。でもわたしがおそらく100点だから、80点ぐらいの満足感は得られたんじゃないかしら」と言って、飲みかけのカクテルを口にすると一気に色を抜き取った。そしてわたしの瞳を瞬きしながら、小さく見つめて「ヨウくん」と弱く発した。ミミ先生はアルコールに適応できない体なのか、彼女の瞳は曇ってみえた。そしてそのままわたしの胸元に軽く倒れ込むと、籠もった空間の中で「ヨーくん、大好き」と大きく言った。彼女の長い髪を垂らした肩からは甘いパンパスの香りが漂い、それが静かにわたしの脳髄へと流れ込んでいた。
その見馴れない場景にわたしは少し恥ずかしく思い、
「ミミ先生、起きてください」と彼女の肩を揺らした。
すると、彼女はバッチリと起きあがって、
パッチリと開かせた瞳でわたしをじっくりと観察すると、「やっぱり」
「えっ?」
ミミ先生はわたしの右手を両手で掴むと、
「わたしにはわかるの」
「何が?」
ミミ先生は真顔で「ヨーくんとわたしは絶対に繋がってる」と答えた。
わたしが彼女の瞳をただ見ていると、再び、
「そー思わない?」
わたしは少し笑って「だといいけど」
気づけば、ワインが手元に届いていた。
ミミ先生はメニュー表を覗きながら、
「ねえ、ヨーくん。そーいえば、お父さんどお?」と訊いた。
そのデジャブのような聞き飽きた文句に過去の自分を思いだし、
昔同様に「まぁね」と答えてしまったわたし。
カティサークのストレートをトリプルで頼んだミミ先生は、
「相変わらずなんだ」と淡々に返した。
その突き放したような冷めた言葉でわたしは父への怒りを再燃させた。
思えば、アイツは――――。
「嫌いってもんじゃない。マジでヤだ。アイツのせいでカノジョと別れた」
「えっ?何?そんなことまで?」
「実は親父は韓国人嫌いでさ。俺は半年前まで韓国人と付き合ってた。それがアイツには気にくわなかったんだろ。きっと」
それはウンジュという留学生だった。特段として、深く愛していたわけではないが、初めて肉体の心地よさを教えてくれた点において、大切な存在といえていた。
ミミ先生はもらったばかりのスコッチを一口飲むと、
「何かきっと他に理由あるんじゃないの?」
わたしは即、「ないよ。昔アイツ言ってたな。「二、三十年ぐらい前にTグループのアジア進出の基盤として韓国に会社を作ろうとしたらしいが、会社名を日韓プロダクションか、韓日プロダクションかでまず一悶着あった」って。その件は親父が譲歩して韓日プロダクションで設立させたらしいが、結局韓国人パートナーに裏切られて大赤字抱えて韓国市場から撤退したんだってさ。親父は特に悔しがっていたな。だって、ライバル視していたロッテを韓国市場においては超えられなかったからさ。まっ、でもね、俺はアイツが悪いと思うんだけどね。なんでもカムサハムニダすらも言わなかったらしいよ。アイツ曰く「向こうも英語喋ってたから」だって。「ありがとう」すらも現地語で言わないなんて、反日感情呷るようなアイツが悪い。そー思わない?」
すると、ミミ先生はしばらく考えてから、
「そんなことがあったの。でも、韓国を愛してたから進出したんでしょ。違う?」
わたしは彼女の純粋さを理解しながらも、
「そんなこと言われたらわかんないけど、カムサハムニダすらも言わないヤツだからまずないな。きっと、儲かると踏んで参入しただけだ。アイツはそーゆーヤツだ。金とセックスしか興味ないから」と答えた。
「金とセックス…。なんか共感するかも」と呟いたミミ先生は続けて、
「でもさぁ、ヨーくんもう立派な大人なんだから、嫌なものはイヤってハッキリ断ればいいんじゃない?違う?」
「そーだけど、ここで頑張んないと、あとで損するのは俺だから。俺もアイツと似て金とセックスの亡者だから。まあ、それも今日で終わったけど。我慢したおかげもあり、親父の資産の大半が俺のモノに。ただ、これからが大変だけどね。社内には同族経営を危惧している勢力がいるから、今後はそいつらと正面衝突で戦うことになる」
と言ってわたしは力強い目をみせた。
ミミ先生はウイスキーを飲み干すと、
「セックスはわかるけど、お金ってそんなに大事?」
それが彼女への疑惑を招かせると、
「大事だよ。社会に出てから、つくづく感じる」
そして、わたしは彼女を眺めながら、
「それにミミ先生だって人のこと言えるの?」と強めに問い質した。
ミミ先生は軽く首を横に振って、
「わたしは違う。男が好きだから働いてただけ」
わたしは彼女の瞳を探りながら、「ホントにそれだけ?お金でしょ?」
だが、ミミ先生はあっさり「違うわ」
「じゃあどうしてそんな所で。男だけだったら、逆ナンでもすればいいじゃん」
ミミ先生は少し怒り、「ヨーくん、怒るよ。その言い方何?そんな所って何よ」
「違う?」
するとミミ先生はあまりの低レベルな道徳に呆れたようで、
「まあ、いいけど。わたしにとってセックスは単にセックスで、愛じゃない。あんなのただの遊び。だから、ホント誰でも構いやしない。だったら、お金が稼げるところのほうが得でしょ。まあ、偶にヤバい客…、デカチンや酒浸りも来るけど、おかげで人生経験豊富になったわ」
「お姉さん、そんなに興奮しないでください」
と言ったのは髪型だけキムタコ(キムラタクヤ)に似せた顔面えなりくんの小男バーテンダーだった。彼はさっきからニヤニヤしていて、チャンスさえあれば自分もミミ先生の美麗さに浸りたいと思っているようだった。
なんてヤラシイやつだ。
(読者の声)オ前モナ。
ミミ先生はその子僧を見るや、「あんたとはしないわ!」
その言葉を聞いて、彼女に少し共鳴したわたしは
「考えればあなたの言うとおりだ。確かにあれを愛と呼ぶのは無理があるし、俺もセックス自体は〝愛〟じゃないと思う。ただ、なんというべきか…、別に軽蔑する気はないが、でも、正直、俺にはあなたのようにまでディアボリズムを信仰する気にはなれない」と、嘘を言うのだった。
ミミ先生は一人立ち上がると、わたしの瞳を深く見て、
「素直でいい子ね。ヨーくんは理解する必要ないよ」
わたしは素直に「じゃあ、許してくれる?」
ミミ先生はわたしの頭を軽く愛撫すると、
「最近オープンしたばかりだけど、美味しい所があるから行きましょ」
これも彼女の悪魔主義から発生した寛容さだろうか?それとも年上としての誇りからだろうか?どちらにしろ、わたしと彼女の関係はまだ続けられるのだ。ヤッタゼ!
その後、混み合う店内でメキシコ料理を堪能すると、再びベッドに戻り愛おしい時間をまたも過ごすと、夢の中でも逢う約束を交わした。
日差しに瞼をくすぶられたわたしは目覚めると、隣にはミミ先生の代わりに置き手紙が一つ添えられていた。Dear my lover―――― 。
封を開けると、そこには御礼の言葉が綴られていただけだった。ミミ先生が求めていた限りのある恋にわたしは戸惑い、酒を深く入れてしまったことを悔やみ、瞑想しながら涙した。闇の中には悔恨の思いの他に、時計の秒針音、わたしの胸元から鼓動が聞こえていた。そしてあともう一つ何やら水が流れ落ちているのを知った。おそらく浴室だ。もしや、ミミ先生?そのように思ったわたしは涙を拭ってシャワー室へと急いだ。すると、予想通りで温かい水が放射状に際限なく流れ落ちていた。その先には彼女の芸術が見えた。すでにミミ先生は生きていなかった。広い浴槽から入り交じった美しい脚を二本だけ伸ばして、息絶えていた。浴槽に深く沈んだ左手には剃刀が握られたままだった。一筋の細い水が血を抜き去り、溢れ続ける赤く染まった浴槽に女の本体である肉体が静かに埋もれていた。昨夜遊んだ白い柔肌が青く汚れてみえた。水晶のように澄んだ瞳もどんよりと曇ってみえた。幾たびも舐め合った舌も乾ききっていた。だが水を弾き続ける脚は違った。レッグだけはまだ完全なる芸術を保ち続けていた。女が自慢していた脚…、永年飯の術としていた脚…、そしてわたしをも射止めた脚…、それらすべてが芸術的な風景へと重なるとわたしをある儀式へと誘った。
わたしは浴槽の水を引き抜いた。それにより、浴槽に貯まっていたお湯が引き潮のように減り続けて、やがて、その中に放置された肉体を浴槽の外に出した。海老のように横たわった彼女の身体を首もとから足首まで丁寧に洗いだすと、白い泡を纏いつけた彼女は今にも生き返るかのように輝きだしていた。その美しさ故にわたしは我を忘れ、体に吸い寄せられるかのように彼女の大きな胸間に顔を埋めてもう一度夢を見てしまっていた。
気がつくと、わたしの髪を誰かが撫でていた。それは死んだはずのミミだった。どうやら彼女は死んではいなく、今までのは単なる幻想で、わたしは風呂場で寝ていたというのが真実らしい。ともかくわたしが驚いていると、ミミは軽く笑みを見せながら、肌にじゃれついた泡をシャワーで一気に落とした。そして目だけで合図すると、一糸纏わないまま風呂場を後にした。美しい肢体を動かす後ろ姿に見とられながらも、子供のようにして彼女の後についていった。ミミは妖艶なボディを日射に照らしながら窓辺を歩き終えると、自慢の脚をきつく交差させてソファに坐りこんだ。秘密の三角地帯からは毛が綺麗に生い茂っていた。わたしも向かい側のソファへと坐れば、ミミはわたしの瞳を妖しく見つめると、すぐさま眼を下に落としてみせた。その目線の先には合体の証が置かれていた。それはすでにわたしだけを必要とし、彼女もそれを望んでいるようだった。わたしは自らの手をもって、そばに転がっていたペンを使って用紙を完成させては手渡した。すると、ミミは書類を唇で挟み込みながらトレンチコート一枚で裸を隠すと、ミュールに素足を突っかけて玄関から飛び出していった。その後ろ姿は実に印象的で、活動的な愛らしさと魂の躍動が感じられた。
その後、従業員によって運び込まれた朝食を取り終えたわたしは時計を気にしながらも着替えを済ますと、密かに部屋を後にした。涼しい朝風がわたしの頬を軽く嬲っていた。そしてその前後には動き出したビルの間を這うようにして太陽が頭を覗かせていた。
渡されたばかりの領収書を外套の左ポケットに突っ込んだわたしはそこに何かを発見した。畳み込まれた手紙だ。きっと昨日、ミミが書いたものだろう。内容はというと昨夜の奇妙な夢のようにDear my lover――――から始まり、夢の手紙と同じで御礼の言葉が碁盤の目のごとく敷き詰められていただけだった。
バカな!!
そう思ったわたしは慌てるようにしてケータイを取りだし、それに手をかけると突如、電話が掛かってきた。相手は公衆回線だった。
「もしもし?」
「わたしよ。こっち、コンビニの方」
それで居場所を掴んだわたしは、20メートル前方を見上げてみた。ここから急勾配を登ったコンビニエンスストアに付属している公衆電話にミミはいた。
「これ、受け取って」
そう言って、ミミは折紙飛行機を空中に向かって飛ばすと、風の勢いを借りて、なだらかに坂を下り、わたしの靴もとに不時着した。またもや彼女の愛くるしい一面を知ったわたしは微笑みながら紙飛行機を拾い上げると、もう一度、コンビニの方を見てみた。しかし、既にミミの姿はなかった。見えたのは、定位置から外され、首吊り死体のようにダラーンとぶら下がったままの受話器だけだった。
わたしは彼女の心を理解し、紙飛行機を解体し、そこに隠されているはずのモノを探した。赤紫色の光沢紙でできている折紙の裏面には――????――何もなかった。とても不思議な気持ちにさせられたわたしだが、とにかく今は彼女を探さなければ。そのように思ったわたしはミミが曲がったと思われる角へ急行した。すると、一台のタクシーが風のようにわたしの真横を擦り抜けていった。瞬間、わたしはその中にミミの姿を見てとり、辺り構わず大声で叫んだが、彼女はそれを無視して車を遠くに走らせてしまった。キャッチし損ねたわたしだが、ミミを見つけだす上での鍵となる車体ナンバーだけは目に焼き付かせておいた。しかも、それはどこかで見覚えのある数字だった。
それにしても、あの女は何がしたかったんだ?
わたしは取得したナンバーを忘れ得ぬうちに、折紙の裏面に控えておいた。そして、張り合わせた二つの証拠を外套左ポケットに滑り込ませた。
一度、郊外の邸宅に帰ったわたしは、家に着くやすぐにミミの調査を〝ミステリーハンター〟と呼ばれる興信所に依頼した。
何故、わたしがそれをしたのか。それは昨夜、交わした女との問答における結果があったからだ。昨晩、わたしはあの女と〝運命〟について語り合った。わたしは一貫して「運命はやはり存在し、あなたと再び出逢えたのも運命だ」と主張した。それに対してミミは「ノー」と答えた。彼女の考えによると、〝運命〟など存在しないという。「昨夜の出逢いは単なる偶然で、偶然の重なりこそが〝運命〟と呼ばれるものではないかしら。つまり、運命自体は存在しない。単なる偶然の重なりだから、人間が勝手にそう思い込んでいるだけ。わたしはそう思うわ」と語ってくれた。なるほど、そうかもしれない。意外にも納得してしまうわたしだった。〝運命〟とは偶然の重なりであるため、そこには必然性がなければ、不動性もない。逆説的ではあるが、意図的な偶然でも、それは〝運命〟と成り得るということだ。まあ、ミミは運命の存在はないと断言はしていたが―――。
そしてこれが記憶の彼方に眠っていた古い記憶を呼び覚ました。
その頃わたしはセンター街沿いのちとせ(・ ・ ・)会館にテナントとして入っていたマンガ喫茶でアルバイトをしていたが、仕事を請け負った時間帯に一人の美少女がよく見受けられていた。その子は真に美少女と呼ぶにふさわしい値をもち、おそらくは西洋白人とのハーフと思うことができた。美少女は小柄な体躯だったが、その欠点が容易に消え去るほどの豊満な美しさを絶えず見せつけてくれていた。わたしは彼女のベリー・ショートに新鮮な愛嬌を感じていた。彼女の黄色い瞳に心を奪われていた。ツンと澄ました鼻、柔らかそうな頬、ミステリアスな唇。それらはまるで、『テス』の頃のナスターシャ・キンスキー嬢そのものだった。彼女の顔立ちにわたしは絶大な讃辞を送り続けた。そして様々な想像を自由に想い描いた。その中には紳士的な行動もあれば、わたしが男である故に当然にして野蛮的衝動もあり、それら二つの局面が見事に渾然一体と化していた。次第に気がつくと、わたしは仕事の合間を縫ってコソ泥のように彼女の美貌を盗み見るようになっていた。控えめで陰鬱すぎるそのような行動を彼女は笑って見ていたようだった。
そのようなある日、美少女は「マンガの場所がわからない」と言って、仕事中のわたしを呼びつけた。これはわたしにとって、初めての美少女との一対一だったので、内心は喜んだ。だが、当時のわたしは今とは違い、プリンス気質を帯びていたので外見上はポーカーフェイスを装って、紳士的なイデタチを振る舞いながら彼女を該当する棚へ連れていった。そこで、美少女は艶麗な視線をわたしに注ぎながら、目的のコミックスを手に取り、「あたし、こーゆーの好きなんだ」と言って漫画本をわたしの前で大きく開いてみせた。見開きには溢れ返るロマンチックな台詞に隠されるようにしながらも淫らな画がクッキリバッチリ映えていた。少女の乳房を両手で揉みつける男がいた。少女の乳首を丁寧に舐める男がいた。少女の股間を舌で弄くる男がいた。少女の可愛いお口に――――。
なんて猥褻なんだとビックリしながらも、わたしは知らず知らずのうちにページを次々捲っていた。笛吹きの少女姿があれば、背番号6と背番号9の二人三脚フィニッシュもあった。さらに、騎乗位から始まって、女性上位、横臥位、後背位という数知れない異常位で臨むエロっティックすぎる男と少女の姿があった。そのような激しさを増した性愛の様子がコマ一面にわたって繰り広げられていた。
少女漫画を見たのはそれが初めてだった。噂では近年の少女漫画は過激な性描写の満載だと耳にしてはいたが、まさかこれほどだったとは思いもしなく、時代を見失っていた自分がそこにいたことを痛感した。谷崎潤一郎先生の大作『鍵』すらも及ばないアクロバティック塗れなエロス世界が、少女漫画にそのままオン・ザ・ベッド展開されているという誠しやかな事実。また、それを楽しみにしている少女がいるという誠しやかな事実。この二つの局面がわたし自身の存在を心底脅かし始めた。わたしはこれまでセックスに消極的な〝しょうこ〟という女一人しか知らなかったからだ。彼女の場合、いつもベッドでは灯りを薄くして、わたしが上に覆い被さるだけ…、いわゆる正常位だけで、それ以外のことは何一つしていなかった。フェラチオもしてくれなければ、クンニもさせてもらえず、そして騎乗位すらもしてもらうことはなかった。わたしには異常位やシックスナインに対する憧れはあったが、それらを清純な彼女に強要させることは決してなく、本来、恥じらいを分かち合うべきの恋人の前ですら紳士的気品を無理して保ち続けていた。
だが、今わたしは現実を知り、〝貴公子〟という偽善的着衣を脱ぐことに決めたのだ。とはいっても、わたしの旧式な思想が一気に崩れ落ちることはなく、イヤラシい描写を大胆にもおっ拡げてしまった美少女に対して、「君、大丈夫か?」と問いかけるに留まった。
「えっ?」と美少女は驚いた。
わたしは猥褻なシークエンスを囲むように人差し指を動かしながら、
「君、こっち方面の女優にでもなるつもりか?」
すると、美少女は即マンガを閉じ、わたしの眼の奥を見つめながら、
「まっさか。あたし、あなたのお嫁さんになる」と言いだした。
その突飛すぎる発言にわたしが戸惑っていると、
少女は「ねえ、〝運命〟って知ってる?」と訊いてきた。
冷静さを取り戻したわたしは「それがどうした?」
美少女は漫画本を棚に戻すと、
「あたし、あなたを〝運命〟だと思う」
わたしは彼女の横顔を見ながら、
「ははっ、おもしろいな。君は猥褻マンガを見せつけて、よく誘惑するのか?その積極性、本物の外人みたいだ」
美少女はポツリと「だってあたし外人だから」
「だろうね。きっと日本人じゃないよ」
美少女とわたしは向き合った。
「ぼくだって運命というものを信じる。ぼくも君を〝運命〟の賜物だと感じたい」
「じゃあ、――――」
わたしはその言葉を打ち消すかのようにして、
「でも、こう考える。もし、君とぼくが運命の下で繋がれているなら、また逢えるはずだ」
美少女は明るく「わかった。また来るね」
わたしは厳しい瞳で「違う。君はわかってない」
「だってそうじゃないの?」と美少女。
ふと腕時計に目を遣ると、既に勤務時間を過ぎていた。
そしてこの事がある一つの事柄をわたしに決意させた。
「決めた。いい職場だったけど、ぼくは今日でここを辞める」
すると、美少女は慌てた様子でわたしの腕を引っ張り、
「そんなことしちゃダメ。もう逢えなくなっちゃう」
わたしは腕を揺すられながらも、強気に「いや、運命なら逢えるはずだ」と言い返した。
美少女はわたしから手を離すと、ショルダーバッグからケータイを取りだして、
「あたし、こー思うの。運命とは自分で切り開くものだって。自分で行動することが大切。でしょ?」と言って、ケータイを持つ手をわたしの前に現した。
わたしは突き付けられたケータイを彼女の胸元へと返すと、
「自分で切り開く?君のそのやり方がそうなのか?」
「だって待ってたら何もならないよ」
わたしは強い眼差しをもって、
「君には運命などないだろ。君は誰構わずに男を誘惑し、運命に仕立てようとしているだけだ。誰だって、さっきの見せられたら君を誘うだろ。違うか?」
「じゃあ、あたしを誘って」
だがわたしは頑なに、「残念だけど、今日はやめる。次回にする」
「えー、でも。もー逢えないよ。だって辞めちゃうんでしょ?」
率直に「まあね」
すると、美少女はついに諦めたようで、
「ふうーん、そっ。もういいよ」
と言うと、わたしを押し退けてカウンターに向かった。
会計を雑に済ました美少女は、もう一度その視界にわたしの姿を探し当てると、
「でもあたし、本当はフィアンセがいるんだ」と言って店を後にした。
美少女には許嫁者がいた。
その婚約者という事柄でわたしは祖父のことを思いだした。祖父は明治初期生まれの非常に古いお方で、既に半世紀以上も昔に死んだが、彼は当時としてはとても粋な男だった。良家育ちの彼には結婚を許した女…、すなわち許婚が(いいなずけ)いたが、それを捨てて、芸者と結婚したからだ。その大事件により、祖父は両親から勘当同然の憂き目に遭ったそうだ。しかし、それがあったからこそ、わたしの父が存在し、またわたしがここにいられるのだろう。
きっと美少女も自らの運命に反撥してわたしを誘おうとしたのだろうか。だとすれば、それはとても素晴らしいことであり、わたしも助けてやるべきだった。だが、〝運命〟という曲者は必ずしも回避できるとは限らない。それは〝運命〟を通り越して、〝宿命〟と呼ばれる不動体となるが、もし、彼女の婚約者が〝宿命〟と呼ばれる存在ならば、わたしにはどうすることもできず、あの対応でよかったのだ。
だが、こうも考えられる。美少女は単に男好きで、婚約者はいるが、未婚のうちにできるだけ多くの男と裸でランデブーしてやろうという性的に乱れた野心があっただけではないだろうかと。
その後、美少女と遭遇することは二度と叶わなかった。そしてわたしには後悔だけが残った。わたしは彼女を愛していながら何故、拒否したのかと。ロマンティシズムを大事にしたいわたしは運命というものを本気で信じていた。だから、彼女の強引な誘いを断った。しかし、それは間違いで、彼女の言うとおり、運命とは自分で切り開くものに違いないのだ。仮にそれが宿命であっても、挑戦し続けなければならないはずだ。
この失敗がわたしに意識変革を呼び寄せ、今現在のわたしを創成させた。
私立探偵が到着するまで、わたしはデスクの引き出しに仕舞われた写真を掘り返しては、その淡い記憶に浸っていた。巨大な二枚扉の玄関前で赤子のわたしを抱っこする父がいた。海水浴場の砂浜で幼いわたしと一緒にカニを捕まえている父がいた。ソウルの独立記念館前で父に肩車をされて喜んでいる小さなわたしがいた。というように年代順に父との記憶を辿っていくと、いつしかわたしには彼に対する憎悪などは完全になくなっていた。
そしてついに最後の写真に目を通した。それはアルバムとは別の場所に保管されていた。場所は書斎を出た廊下にあり、幾つもの絵画に混ざるようにして壁に吊されていたものだ。本物の宝石が鏤め(ちりば)られた豪華な額縁に収められた写真は両手よりも大きいL判で、父の古稀祝いの一つとして製作され、国内外に散らばっていた親族全員に配布されたものだ。二年前、父が七十歳を迎えた日、嫌々ながらもわたしも参加し、撮らせてあげた親族全員揃っての最後の写真で、太陽光を浴びた邸宅前の鉄扉を背景とした血族一同の笑顔があった。
憎んでも親父は親父だ。
そのように思いながら、その〝邸宅前だよ、全員集合!〟写真を再び見ると、高さ3メートルを越す格子状の鋼の奥に何かを感じた。というか、何かを見た。
んっ?
鉄格子に隠れて一台の車が半分見えかけていた。それはよく見ると、個人タクシー業を営みながらお隣に住んでいる老人の車両だ。彼は老人だが、白色人種のために未だにハンサムでイタリーの名優Marcell Mastroianiniのような顔立ちだった。そのため、わたしはよく利用させてもらっていて、昨晩も都内へ移動する時にお世話になったばかりだった。
さらによく見てみると、――――。
あれっ?
微かに見える車体ナンバーは・988。いや、一部の字が鉄格子に隠れているから・933か、・938か、・983だ。これがもし・938であれば、確か今朝ミミが乗った個人タクシーのナンバーと同一じゃないか。そのように疑ったわたしは確認のために一度部屋に戻り、洋服箪笥を開くとそこに仕舞われたコートのポケットに左右片手ずつ手を突っ込み、中にあるはずの証拠を素早く取りだした。
右手にはシティホテルの領収書と、ナンバーを走り書きした赤い折紙がともに握力によって潰されていた。
そして、左手には――――。
何だコレ?
左拳を開くと、そこには小さな緑色の封筒が皺をつけて待っていた。随分風化を受けたようで年代を感じさせる封筒のようだった。
宛名は〝我が息子〟
また裏にはOUR promiseと記されていた。
差出人はわたしの父で、どうやら生前に書かれたものらしいが、コートは10年前にわたしが貰ってからずっとわたしの手元にあった。ということは――――。
すると、わたしの脳裏にあの言葉が浮かび上がった。コート、コート、コート、きっと彼はこのことを言いたかったのだ。わたしは彼の最期の意志を受け取ると、ハサミを使って封筒を綺麗に開かせた。横書きの文字を宿した便箋も便箋入れのようにひどく焼けていて、明らかに最近に書かれたものではなかった。またそこからは何か嗅ぎ覚えのあるロマンチックな香りが滲み出ていた。
とても信じられない!
匂いが長い間ずっと生き続けていたとは信じられない。
その幻想さに言い知れぬ憧れを抱きながら眠っている文章を読み始めたが、その内容は強制色のある招待状というか、嘆願書のようものだった。
ゴールド・キッス?しかも午前0時に?何か怪しいなあと思いながらも、その奇天烈な招待状に心躍らされたわたしは絶対に行くことに決めるのだった。
43年前、一体彼はどのような心境でこの手紙を書いたのだろうか。そして、何故40年以上を隔てた今、わたしをそこに呼ぶのだろうか。わたしはその時代にはまだ生まれていないばかりか、彼も実母とはまだ結婚していなかったはずだ。死に際に発するほどの願望を何故手紙などという地味な形で残したのだろうか。すべては謎に包まれているが、おそらく全部の理由がそこに隠されているのだろう。
だが、今はミミの行方が先決だ。
先ほどから鼻孔に吸い込まれていく香りに、わたしは眠くなり――――――――。
「ヨーさん、お客様がお見えになりましたよ」
家政婦の呼び声で目覚めたわたしは応接間に客人を通した。
その人物は私立探偵ではなく、意外にもわたしの望み…、ミミ本人だった。ところで、今この家にいるのはわたしと家政婦の麗子さんだけで、他は葬儀の準備で出払っている。麗子さんは30 代後半と比較的若く、そして中谷美紀似の美人だ。だから本来なら、昨晩の天鵞絨の魔術を彼女で試すべきことだったが、実のところ彼女は家政婦だけではなく、父の愛人でもあり、それ故にわたしは遠慮したのだった。
「どうぞ、坐ってください」と、ミミをソファに腰掛けさせたわたしも彼女の向かいに腰を据えた。ミミの衣服が黒で統一されていたのと、ロングな髪を結っていたせいもあってか、彼女には昨夜のような濃艶さは感じられなかった。だが豊艶で細長い足をクロスさせている姿には相変わらず敬服するわたしだった。
わたしは彼女の生硬な衣服を観察しながら、
「あなたはもっと派手でなきゃ」と言うと、
ミミは軽く笑って「ヨーくん、今日はいろいろとあるから」と返した。
「そっか。でも、もうあなたに逢えないかと思った」
ミミは立ち上がってわたしの真横に席を移すと、子猫のように体を擦り寄せてきた。
お茶を運んでくる麗子さんを視界に捉えたわたしは慌てて、
「ミミ、家政婦がいるから、ちょっと。今は」
「ああ、麗子さん?気にすることないじゃない。だってわたしたち、姉弟だ(きようだい)もの」
と、言うと、わたしの首に両手を回してしがみついた。
??????
わたしは「ねぇ、今何て?」と確かめると、ミミは「わたしたちは姉弟よ」と平然と言ってわたしの頭を軽く撫でた。その前には洋菓子と紅茶を載せた御盆を手にした麗子さんがいた。わたしは彼女が熟れた手つきで二人に軽食を差し出す様子に驚いて、
「麗子さん、何て聞こえました?」と問いかけた。
しかし、普段と変わりなく「…姉弟と」と答えた。
「麗子さんは驚かないの?」
麗子さんは口が隠れるように御盆を持つと、「えぇ、存じておりますから」
わたしは自分一人だけが出し抜かれた気がして、
「待て待て待って。どーゆーこと?」と、二人に問いただすと、互いに目を合わせた。
そして麗子さんがミミに訊いた。
「わたくしが言ったほうがよろしいでしょうか?」
すると、ミミは
「いいえ。あなたは下がっていいわ。わたしが説明するから」
と言って、麗子さんを奥の部屋へ退けさせた。
ミミは静かに熱々のティーカップにシロップを注ぎ込むと、スプーンで隈無く掻き混ぜていた。彼女がずっと黙っていたので、それを見かねたわたしは、
「麗子さんは隣の部屋だ。聞かれることはない。全部話してくれ」
それを聞いたミミは不思議そうに訊ねた。
「聞かれたくないの?どうして?あの人も家族じゃない」
わたしは「ただの女中だ」と断言。
ミミは紅茶を飲み、カップの周りに口紅の跡をベッタリと残すと、
自慢げに「わたし知ってるのよ。あの人が父さんの愛人だってこと」
わたしは血族の背徳行為を隠すため、「デタラメ言うな!」と怒鳴ってミミを真横から睨みつけた。じっくりと彼女を見定めてみると、目元などは確かに父に似ているかもしれないと少し思ったりもするのだった。
ミミは天井から一直線にぶら下がっているドデカいシャンデリアを見ながら、
「昨年、父さんに呼ばれて、この家に遊びに来た時、あるモノを発見したの。確かあれは、古稀祝いビデオの『六十の手習い』編だったかな。わたし、父さんが70歳から何を晩学し始めたのかしらと思って再生してみたら、父さんと麗子さんが真剣にシクスティナイン(シックス・ナイン)してるから、それで」と言った。
何だって!
わたしはあまりの衝撃に驚嘆した。まさか古稀祝いビデオまで存在するとは思わなかったからだ。セックス好きの父には記念日ごとにハメ撮りなることをして、自らの性行為をフィルムに収める習慣があることをわたしは中坊の頃から何となく承知していた。だがいくらなんでも、つい近年の古稀祝いビデオまで存在するとは思わなかったのだ。70歳…という高齢でありながら、セックスによるエクスタシーの恩恵に与っていられる贅沢な男だったとは、半分羨ましいが、もう半分は情けないというか、愚かだ。
わたしが確認したのは不惑記念として撮影された『四十にして惑う』編と、バイアグラ発売記念の『復活祭』編と、還暦祝いビデオ『中田氏と嬲り』編だ。『四十にして惑う』編以外はすべてデジタル撮影だが、一貫して同じことは床下からベッドに向けてのローアングル撮影で、そこには『東京物語』などで有名な小津監督を深く敬愛していた姿が垣間見えていた。それらについては、きっと読者諸君も経験済みのハレンチだろうから、一体何が映し出され、一編がどのぐらいの時間を誇るかなどの淫らな説明は省く。
わたしは彼女の高橋家把握度に恐れ入って、
「わかったよ。俺の負けだ。だから、きちんと話してくれ」と、無条件降伏せざるを得なかった。
ミミ姉?は煙草を口に銜えると、
ダイヤモンドで形作られたミッキーマウス柄のライターをわたしに手渡し、「点けて」
わたしは「あっ、ごめん」と言って点火した。わたしはホストではない。遅くて当然だ。
ミミ姉?は煙草を二、三吸うと天井に向かって煙を吐き飛ばした。上層まで登りつめた煙はまるでワイバーン…、飛龍のように空中をしばらく泳ぐと天井に吸い込まれるようにして消えていった。
ミミ姉?は突如、煙草を口から下げると、「吸ってみる?」とわたしに訊いてきた。彼女の細長い指に挟まれた煙草からは今も怪しいスモークが静かに零れていた。子供じみた快楽を辞めたばかりのわたしだが、口紅の跡が醸し出す妙なエロティックさに惹かて、「じゃあ、ちょっと」と言って彼女から煙草を拝借した。一回スーハーすると、他種を超絶した快感がわたしの身体の奥底へと降臨した。ミミ姉?はそれを察知すると、「マ・ヤ・ク入り」と小さく言って静かにわたしの動静を窺っていた。
えっ?マヤク?麻薬?それとも魔薬か?どちらにせよ、わたしには怖ろしすぎるほどの代物だった。既に意識がぶっ飛びそうになっていた。目の前がグルグルと回り始めてきた。
わたしは最後にもう一度と思い、深く吸い込むと、真横から「あんまり吸いすぎちゃダメよ、子供は」と宥める声を最後にわたしは天に昇る勢いで深い溝へと大きく雪崩落ちていった。
そして朦朧とする世界でこんな声を聞いた。
――――わたしの可愛い弟、じゃあね――――
「課長さん、会社に遅れますよ。早く起きて下さい」
そんな声が聞こえてわたしは目を覚ますと、目の前には麗子さんが食器を片づけていた。腕時計に目を遣ると、時間はさほど経過していないようだった。
「なあ、あの人は?」とテーブルを拭いている麗子さんに問いかけた。
「今さっき帰られました」
わたしは大急ぎで居間を出ると、そこにはまだミミ姉?がいた。彼女は漆黒のハイヒールを履き、玄関前にある大鏡で化粧を直していた。
鏡を通してわたしに気づいたミミ姉?は顎のラインにタルカム・パウダーを塗りながら、
「どうしたの?」と穏やかに訊いた。
わたしは興奮気味に「さっきのはマリファナよりすごいぞ。だが、俺は覚醒剤などには手は出さない。あれはマジで麻薬だろ?危ないモン喰わせやがって、危うくイッちまうとこだっただろ」
ミミ姉は?は艶やかな微笑みとともに言った。
「イッてもいいじゃない。ヨーくん、イクの大好きでしょ」
わたしは彼女の冷静さに怒り心頭させて、「ふざけるな!死んだらどうするんだ!」
すると、ミミ姉?は鏡越しにわたしを覗きながら、
「大丈夫よ。その程度じゃ死なないよ。それに…、わたしたちにとって、生と死は隣り合わせじゃない?明日死んでも構わない。今日死んでも構わない。死を意識することが本当に生きること。それが悪魔主義の本質だと思うけど。違うかしら?」
しばらく考えたわたしは、
「そうかもしれないけど、でもあれはただの思想だ。現実的ではない!」
ミミ姉?はコンパクトを喪服のポケットに仕舞うと、こちらを振り返って、
「そっ、そう思うのもいいけど。でもそれじゃあ、悪魔主義者失格ね」
と言うと、腕を返して白い手首に巻き付いたカルティエの腕時計に目を遣った。
わたしは「ところで、あの話」と言った。
ミミ姉?は神妙に「ホントよ」
「それだけじゃわからない」
ミミ姉?はわたしに近づき、
宙ぶらりんになっているわたしの片手を両手で掴むと静かに、
「今わたしが言えることはただ一つ」
わたしが「何だ?」と目を光らせると、
「ヨーくん、父さんをきっと許せると思う」と言って帰ろうとした。
咄嗟にわたしは「おい、説明になってないぞ」と言って、
立ち去ろうとするミミ姉?の二の腕を掴んだ。
ミミ姉?は艶やかに振り返ると、
「これが欲しいんでしょ」と言ってわたしの唇に感激を与えようとした。
が、「やめろっ!」
わたしはそれを力ずくで払い除けた。
「なんだかんだ言って、姉弟のこと信じてるんでしょ」
わたしは今何故に彼女の誘惑を拒否したのかがわからなかった。仮に姉弟だろうと、近親相姦になろうと、悪魔主義者を自称するわたしにとっては関係のないことに違いない。なのに何故――――。結局、わたしは彼女の言うとおり悪魔主義者失格なのかもしれない。きっとわたしはディアボリズムを纏ったただの嘘つきなのだろう。
わたしが落ち着きを取り戻すと、
「父さんの手紙、まだ読んでないの?」
昨夜のことを思いだしたわたしは、
「わかったぞ。あなたがそれを作った。違うか?」
「わたしじゃない。あの手紙はコートの中にずっと仕舞い込まれてた。あの日からずっと。40年以上も。じゃあ読んだのね?」
わたしは素直に「読んださ」と答えた。
ミミ姉?はニッコリと微笑むと、
「そっ、ならいいの。話はそれだけ。もちろん行くんでしょ」
行く?
彼女の言葉に違和感を覚えたわたしは、
「待てよ、おかしい。どうしてあなたが手紙の内容を知ってるんだ?」と、問い質した。
ミミ姉?はチューインガムを一枚口内に投げ込むと、それを適当に味わいながら、
「どうしてかしらね。あなた自身の目で確かめる。それが一番最適ね。わたしはお通夜の準備があるからそろそろ出かけるわ」
「出かける?ここはあなたの家じゃない」
すると、ミミ姉?は髪留めとして使用していた銀製の簪を(かんざし)外し、カールのかかった髪の毛に広がりを見させた。そして、ヘアピンに装飾されていた胡蝶を優しく逃がすと、幻想のごとく蝶々はしばらく頭の回りを飛んだ後、静かにミミ姉?の手元に止まった。ブラックな体に似つかわしくない廉潔な輝きを発する青筋鳳蝶の背には何やら鍵が――――。
ミミ姉?は「コレでも?」と言い、邸宅の合鍵をわたしに堂々と見せつけた。螺旋状に入り組んだ鍵はシリンダー錠のように簡単に偽造されることはない。鍵そのものが職人による手作りだ。
わたしはそれで少し納得すると、
ついつい「愛人の子か」と口が滑ってしまった。
その刹那、彼女の冷たい手の平がわたしの熱い頬にディープインパクトをもたらすのを知った。そして、ショットガンをぶっ放したように目の前の光景が一瞬吹っ飛んだ。
「そんな言い方許さない!」と本気で怒っていた。
しばらくすると、頬の中がピリビリ痛み始めた。それを心配したようでミミ姉は「ごめんね、ヨーくん。痛かった?」と訊いてくれた。
わたしは無理をしながらも「平気だ」
ミミ姉は再びコンパクトを取り出して「ホントに大丈夫?ほら、跡ついてるけど」と言うと、カチッと中を開けて、そこに収まった小さな鏡でわたしのほっぺを照らした。覗いてみると、海星がそのまま張りついたかのようなひどい赤みだった。
そんなわたしを見たミミ姉は、
「でもヨーくん、あなたってわたしと似てるね」と言った。
似ている?つまりは姉弟か。
すると、わたしは夜前の遊楽を思い出した。彼女といつ、どこで、そして何をどのくらいしたのかを――――。
(読書の声)アーア、ヤッチャッタ。近親相姦ダ。
わたしは昨夜夢中になった彼女の豊満な胸と、滑らかな股座での大冒険を思いだすとそれらの局所に目を遣りながら、
「それは本当に本当なのか?」
わたしの本心を見てとったミミ姉は軽燥にして、
「気にすることないわよ。セックスなんてただの遊びでしょ」
わたしは「まぁ確かに」と静かに応答したが、依然として不安が残っていた。
さらにそれをも読み取ったミミ姉は「大丈夫」と言うと、口の中から舌を伸ばしてみせた。その上には変形しながらもまだガムは生きていた。
そして、「念のため、モーニングアフター飲んだから」
「そーゆー問題じゃない」
わたしがそう返すと、彼女はガムをクチャグチャさせながら、
「なに?じゃあ、やっぱり近親相姦が怖いの?」
図星、当てられてしまったわたしは、
「そんなわけない。俺はあなた以上にディアボリストだ」
と言うと、意識的に無防備な彼女の唇に深く口づけした。
これがキスの味わい?
彼女が玩んだガムが邪魔していたせいか、それとも近親相姦に拠った拒絶反応かはわからないが、ともかく、これはわたしの知っている接吻ではなかった。
脱色されたガムを譲り受けたわたしは早くその気持ち悪さから逃れたくなり、ミミ姉をすぐに帰すと、急いで洗面所へと駆け込んだ。洗面台を支配する鏡にはいつになく焦るわたしの姿が写し出されていた。わたしが唇の不純さと、口の中で起きているガムの異変に気づいたからだ。
わたしは洗面器にガムを吐き捨てて、蛇口をひねって水道水を両手で掻き集めては懸命に何回も口を濯いだ。
とその時、わたしは視界の隅に何かが動いているのを発見した。目玉を動かせば、真っ赤な洗面器の表面で白い小さな軟体生物がうみゅ‐うにゅと体を捻らせているではないか。先ほどは単なる食べ物にすぎなかったモノが今では蛞蝓のように活発化している。吐き気を催すほどのスライミーな生き身が平然と生きていた。
驚愕!信じられない!
震えるほどの恐怖心から逆上したわたしは近くに転がっていた剃刀を手にするや、悪魔のような笑みでそれを振り翳すと一気に直下させた。刃が(やいば)一瞬にして生物に減り込むとすぐさまそれを真二つに切り裂いた。チュッ…、まるでキスのような効果音とともに、黒い血を滲ませた異体だった。こうしてまた一つの幻想が消えた。
その後、いつもと何変わりなく定時に出社したわたしだが、夜は父の通夜には顔を出さずに同僚と宴を楽しんでいた。思い出の写真を眺めているうちに彼のことを許せたわたしが参加しなかったのは、それを最初で最後の彼への反撥としたかったからだ。わたしはこれまで一度たりとも父に逆らったことはなく、彼の前では従順な息子を演じていた。今までずっと彼の言われるがままになっていた。命じられたとおりに勉学を励み、浪人しながらも東京大学へと進学した。強要されたとおりに麗子さんと親父とで3Pもした。勧められたとおりに父の関連会社へと就職もした。そして、与えられた助言のとおりに婚約者とも別れた。それらすべては遺産相続に支障をきたさないためだったが、そのためにわたし自らが犠牲になって、大事なモノ…、とりわけ愛する韓国女を失ったのだ。その恨みがこのような形で現れただけにすぎない。
ミミ姉の秘密を知って彼女に対して興味を損ねてしまったわたしだが、考えればわたしにはもう一つの楽しみが残っているではないか。そう思ったわたしは三次会の破廉恥パーティーをこっそり抜けると、一人電車を使って新宿駅に降り立った。
改札口を出れば、そこは無限の夢が広がっていた。
新宿…、それは犯罪を匂わす素敵な地区。
遠くでは娼婦みたいな装いをした女たちがスーツの男たちと騒いでいた。近くでは怪しいチラシを手にした春引きがわたしに擦り寄ってきていた。わたしはドンキ前でタクシーを拾うと、初老の運転手にゴールド・キッスまで案内を頼んだ。しばらくして、運転手はブレーキを踏んだ。
「お客さん、着きましたよ」
わたしは窓枠から〝ホワイトキッス〟というネオンでピカビカ光る看板を見上げると、
「俺はゴールド・キッスっと言いましたが」
すると、運転手の男はフロントガラスをタオルで拭きながら、
「私はもう20年以上走ってますが、ここ、半年前までは長い間ずっとゴールド・キッスでしたよ。他のゴールド・キッスはちょいとわかりませんがねぇ」と、語った。
そしてわたしの様子を窺うと、ウインカーを点滅させて「どうされます?」
わたしは「それならいいんだ」と断ってタクシーを降りると、すぐに入店した。
どうやらここはバーのようで、カウンター席には男女の客が坐り、バーテンダーの男と応対していた。また、幾つかのテーブル席には男女が仲睦まじく愛を語り合っていた。商売は盛況だ。
そういえば、今日はクリスマスイブだ。混み合っていて当たり前だろう。
まもなく、中から20歳過ぎのウェイトレスがやってきた。それはミンジュという知り合いの韓国人だが、今ではわたしと彼女の仲は険悪になっていた。
だがわたしには先ほどの乱交パーティーで頂戴していたアルコールがまだ残っていたようで、それが「ミンジュ、久しぶり」と明るく声をかけた。
だが、ミンジュはわたしを強く睨み付けると、
流暢な日本語で冷淡に「姉はあなたとはもうお別れしました」と言った。
「気にするな。そんな用じゃない」
「じゃあ、何ですか?」
「24時にここに来る約束だから、来た」
するとミンジュは両手を差し出して「招待状ありますか?」
「招待状?」と聞き返すと、彼女は「折紙」と小さく答えた。
それで思い出したわたしだが、思い返せば、ミミ姉から貰った折紙は既にゴミ箱入りしていた。
「なくした」
ミンジュは首を横に振り「じゃあダメです」
わたしは「いいじゃないか。別に」と言って、強引に中に進もうとすると、ミンジュが前掛けのポケットの中に手を入れて、
「ここはカップル・バーです。ナンパ・バーじゃないです。一人はやめてください」
と言って、わたしの腕を掴み取った。
わたしはそれをすぐさま解きあげて、
「ミンジュ、何硬いこと言ってんだよ。俺は親父に「行けっ!」て言われたんだ」
ミンジュは冷たい眼差しとともに、
「あなたのお父さん、あたし嫌い!早く死ねばいいのに」
奥の方から何やら人影が見えたが、わたしは気にせずに、
「おかげさまで先日…」
気づいてみると、ミンジュの背後に二人の大男が仁王立ちしていた。その体格と風貌からして、どうも彼らは本国から呼ばれてきた用心棒らしい。二人合わせると、扉二枚分もある。
ミンジュはその男たちの後ろに小さく隠れると、無礼にもわたしの顔面を指さして、「クサラム」と何やら韓国語を使用した。
男二人はそれぞれがわたしを見て、二人同時に目を合わすと「アルゲッスムニダ」と大きく返事をして、わたしに近づいてきた。
怖れたわたしは「Don't touch me!」と叫び、周辺客の注意を引いた。
すると、用心棒の一人は出入り口をしゃくれ顎で示して「Get out!」
わたしは苦笑いしながら、「Alright.」と、返答して嫌々ながらも歩きだした。
扉のノブに手をかけたその時、「待って!」と誰か女の声がわたしの耳に届いた。
振り向くと、それはカラオケボックスのように個室で仕切られた隣室から出てきた女で、彼女も韓国語でミンジュと何かを話すと、用心棒とミンジュを奥のほうへ引っ込ませた。
女はわたしの手をとると、「また逢えましたね」
その女は紛れもなく記憶の片隅に生き続けていたあの少女だった。
夢のような遭遇から音沙汰もないまま5年ほど経ち、顔立ちも幾らか大人びて、短かめの髪が肩先を越えていたが、依然として美しくありえていた。
「すまない。借りを作った」
「いいの。あたしの彼、一時間近くも来ないから。もう諦めた」
わたしは「そっか」と一言。
女は「席、こっち」と言うと、わたしを個室へと案内し、脚の低い丸いテーブルに沿うようにして二人は革張りのラブソファに坐った。その正面には液晶テレビに映し出された映画『昼顔』が放映されていた。場面はちょうどCatherine Deneuve扮するセブリーヌが売春宿の覗き穴から、マゾ男の変態劇を目撃する部分だった。
それで昔のことを思い出したわたしは、
「また俺を誘ってる?」と女の瞳人を覗きみた。
すると「…かもね」と言って曖昧さを残した。
わたしは流し目で、
「じゃあ今度は喜んで誘われるよ」
女は飲みかけのカルーア・ミルクを飲みながら、
「あっ、でもねえ、これはフランス語の勉強で。字幕ついてないでしょ」
わたしは映画を観ながら、「フランス語?」と訊いた。
「そう。学校で専攻してるから」
「へえー、すごいね。かなりペラペラか?」
「んー、どーだろう?ヒアリングは一応かな」
わたしはテーブルに置かれたメニュー表に目を落としながら、
「ところで君、西洋白人じゃなくて韓国人なのか?さっき、ハングルで話してたようだったけど」と何気なく訊いた。
しばらくして、
「お母さんが韓国人」
わたしは「そーなんだ」と一言。
女はわたしを覗き込むようにすると、
「ガッカリした?イヤになった?」
わたしは彼女の目を見ながら、「イヤじゃないけど」
すると、ドアがノックされて、また別の若いウェイトレスが入ってきた。
清楚な身なりのウェイトレスは確かな発音で、
「ご注文は決まりましたか?」とわたしに訊ねた。
わたしはメニューを一覧すると、
「ジントニック…、ライム抜きで」
「じゃああたしもそれお願い。あたしはライムありで」
「かしこまりました」
と言うと、日本人ウェイトレスは扉の向こうに消えた。
女はリモコンを使ってテレビの電源を落とすと、
「ねえ…、さっきの」と言ってチラリとわたしのほうへ目を注いだ。
わたしはBDプレーヤーからソフトを取りだしている女に対して、
「俺の親父がかなりの韓国人嫌いだった」
女はBDディスクをケースに仕舞いながら「お父さんが?」
わたしは軽く頷くと、
「…だった。でも、もういない。気にすることないよ。俺は親父とは違う」
女は申し訳なさそうに「そう。でもごめんなさい」
「別に。俺も嫌いだったしな」
女はふと何かを思いだしたかのように「ちょっとお手洗い行ってくる」と言うと、部屋を出た。
腕時計を見れば、時間は既に約束の午前0時を過ぎていた。それで思い出したわたしは部屋を抜けると、入口付近のテーブルを見たり、または個室が連なった廊下を歩いて扉の小さな窓から中を覗き回っていると、ゴツイ体格の男とぶつかった。
アッ!
それは先ほどの大男の一人でわたしを睨んでいた。
大男は覚えたての日本語で「トウシマシタカ?」と訊いてきた。
通シマシタカ?誰を?
「ヌグル?」
わたしがそう訊くと、大男は何かを考えているようで、その場でじっとわたしを見据えていた。彼はさておき、わたしが軽く横を向けば、そこには女とミンジュが話していた。そして、話を終えた女がわたしの元へ帰ってきた。
「どーしたの?」と女。
「君こそ、トイレはあっちじゃなく、あそこだ」と言って、わたしはその方向に目を遣った。そこには明らかにトイレマークが記されたドアが一つあった。
すると、女は目を泳がせながら、
「ご免なさい。あたしは…、まだ探してた」
「ケータイとかは?連絡先ぐらい知ってんだろ?」
女はションボリした様子で、「それがね、いろいろあって。あなたは?」
どうやら女は相変わらず遊び人らしいが、今のわたしはむしろそっちの方を好むので尚更に惹かれていった。
わたしは背後を見て、
「特にないんだが、あの人が…」と言うと、
奥へと引き返していった大男を目で示した。
「あの人が何?」
「あの人が…怖い」
すると、女は悲しい顔から反転してクスクスと笑顔を見せた。
「よくわかんないけど、元気出して」
そう言うと、彼女を部屋へと連れ戻した。
二人は再びソファに腰掛けたが、流れ始めた沈鬱な雰囲気が辺り一体に立ち籠めては、それがわたしをも支配しようとしていた。わたしはそれを打開するため、彼女に話しかけようとしたその時、ドアから飲食物が運ばれてきた。
日本人ウェイトレスは小さな御盆に大きく積んだ飲料と皿に盛られたサンドイッチをテーブルに丁寧に下ろした。
わたしは三角切りにされたサンドイッチを見るや、
「あれっ、サンドイッチ頼んだ?」と言って女の顔を確かめると、
彼女は「テーブル‐チャージについてるから」と小さく返してきた。
意気消沈とした彼女を気分的に豊かにするために、わたしは即興でデタラメを口走った。
「あっ、サンドウィッチって実はねえ、フランスのルイとかアンリとかっていう国王が宮廷料理人に命じて作らせたんだけど、なかなか国王からオッケーが貰えなくて、四度目の試作のとき、ようやく国王に「トレビアアーン!」と言わせることができたからなんだって。つまり、「はい(ウィ)、国王様。もう一度作り直します」という宮廷料理人の台詞は三度目で終わった。それで、三度目のOui=サンドウィッチになったんだってさ。だからもしかしたら、ヨンドウィッチ、ゴドウィッチになっていたかもしれないんだって」
すると、まだ部屋にいたウェイトレスがすぐに、
「違います。イギリスのサンドウィッチ伯爵が作ったからサンドウィッチです」と真実を言ってしまった。
わたしは他人に対して久々に激怒して、それが「黙れ、おまえ」と言い放たせると、ウェイトレスを素直に帰らせて、この部屋を再び二人だけのものにした。
ライムが沈まったジントニックを一気飲みした女は、
急に「あたし、もう帰る」と言い出して立ち上がった。
わたしは彼女を見上げて、
「そんな、どん引きした?なら、ゴメンよ。普段は怒らないんだけど…」
すると、静かに「そうじゃない」
「俺たち、まだ逢ったばっかりじゃないか」
女は目線を足下に落としながら、
「ホントにご免なさい。かなりショックなの」と言った。
わたしは女の手首を掴み取ると、
「彼氏だろ?妊娠でもさせられたか?そんでもって、中絶費用の支払いの約束をしたのにバックられたか?お金なら俺が出すよ」
女はわたしの手を振り払い、「…ちがう」
「じゃあ何?」
女はソファに軽く坐ると、わたしに背を向けて、
「あたし、辞めたの…そーゆーの。そーやって知らない人と遊ぶの…辞めたの」
「君らしくない。俺が知ってる君じゃない」
「確か5年ぐらい前だったよね。あなたと初めて出逢ったとき、あなたそー言ったでしょ?「君は男を誘惑し、運命に変えようとしているだけだ」って。そのあと、考えたんだけどあたしは確かにそーだった。あなたの言ったとおりで、あたしにはそれが〝運命〟だと思ってた。でも、違うんじゃないかって考えたの。だから、あなたにもう一度逢えたのは信じられないくらい嬉しいけど、あたしにはあなたを誘う気ない」
「君が選んだことだ。きっとそれは正しいんだろう。でも、現にこうして逢えたのは事実。これは偶然だろうか?これこそが君が信じている〝運命〟というものじゃないのか?」
と、懸命に引き留めようとしていたが、
女は「ご免なさい。とにかく帰る」と言って立ち上がると、
そばに置いてあったハンドバッグと、その下に畳まれたオーバーコートを手に取った。
わたしは腕時計で24時7分を確認すると、
「もう電車ないんじゃない?」
「いい。その辺で時間潰すから」と言った女は裏地を見せたコートの襟を掴むと、それを表に返してはサッと袖を通し、その体からは美しい赤色を呈させた。
これは、……一体。
女が着用したコートは色こそ違うが、ボタンの柄、そして天鵞絨の生地と他の面はすべてわたしのあのコートと同一だった。
女は最後に真っ白なマフラーを巻き付けると、「じゃあね」
わたしは「なぁ」と女を呼び止めると、ソファから立ち上がり、扉付近で立ち往生している女のもとへ行った。
迷惑そうな目で見ている女に対して、
「そのコート、どーしたんだ?君は一体…」と言うと、
女は怒り「ホントにあたしもう帰るの」と行ってドアノブに手をかけた。
わたしは確かな眼差しをもって、
「いいから答えてくれ。どーしてそのコートを持ってるんだ?」
続けて、「俺が持っているコートと同じだ」
すると、女は驚きながら、
「えっ?」
「昨日着たから、今日は違うが、それと全く同じ物を持ってる。敢えて違う点を言えば、俺のは紫色で、ボタンの配置は逆だ。男モノだから」
すると、女の瞳が輝きだして「じゃあ、あなたが…」
「俺がどうした?」
突然、女は「あたし、待ってました」と言って、わたしに抱きついてきた。
そして、小さな顔でわたしを見上げると、
「ねえ、これが本当の愛なんでしょ?」
女はわたしから全く離れる気配がなかったので、背中で硬く結ばれた彼女の手を解き、
「待って。君はわかっても俺はわからない。取り敢えず、話を整理しよう」と言うと、彼女をもう一度ソファに坐らせようとしたが、
女は「そんな必要ない。あなたがあたしのフィアンセに決まってる」とハシャいでいうことを訊かなかった。
だが、わたしはよく考えてみた。仮に彼女にとってわたしが別人であっても、これを機会に長年夢みた彼女の肉体を感じることができるではないか。だから徹底的にそのフィアンセになりすまそうじゃないか。しかし、またこうも考えられるのだった。彼女は相変わらず男好きだが、以前のような明らかな行動は一切せず、男の方から強引に誘い込んでくるのを待っていただけではないか。そして、わたしの「俺が持っているコートと同じだ」という言葉を誘い文句と勘違いしたのではないか。どちらにせよ、もうすぐ待ちに待った彼女の衣類が剥がれ落ち、柔らかくて心地いい上下が現れるはずだ。超楽しみだぜぃ!
取り敢えずわたしはフィアンセの演技で、
「あっ、そーだった。思い出した。実はコートなんだよね、俺と君の繋がりは」
と、またもわけのわからないデタラメを口走った。
女は巻かれたマフラーで口元を隠すと、「ねぇ、そろそろ行こっ」と言うとわたしの腕を取り、店を出た。その先には一台のタクシーがエンジンを吹かせながら停車していた。助手席を隔てた運転席には人影も見えた。女が窓際に近づくと、ガラスシートが半分開かれ、運転手は女に「逢えたか?」と訊いた。その声はわたしには聞き覚えのある声だった。
女はガラスの縁に片手を添えて顔を下げると、元気よく「お父さん、逢えたよ」
「えっ?君の父親?」
女はわたしを軽く見ると、
「うん。向かいに来てくれる約束だったから」と淡々と答えた。
その瞳は「きちんと挨拶してね」と言っているように見受けられた。
反対側のドアが開き、ついに運転手が姿を現した。
えっ!マストロヤンニじゃないか!
車を挟んで今立っている男は日本に帰化したフランス人で、わたしの近所に住むあの個人タクシー家だった。
「あなたは…、ミシェルさんじゃないですか」
ミシェルさんはわたしのほうへ辿り着くと、
「ええ、驚かれましたか?」
驚いているのはわたしだけではなく、女もそうだったようで、彼女は「えっ?何?ねぇ、お父さん。彼と知り合いなの?」とミシェルさんに問いつめた。
「アリス、彼はわたしの常連客だよ。うちの隣に住む高橋さん」と答えたミシェルさんは、二人に「乗りなさい」と言って、三人が乗り込んだ車は移動を開始した。
わたしはハンドルを力強く握っているミシェルさんに対して、
「ミシェルさんはすべて知ってるんですか?」
と、訊くと、彼はバックミラーの中にいるわたしを見ながら、
「はい。明姫から訊いてます」と言った。
ミョンヒ?誰じゃそりゃあと思ったので、
「ミョンヒ?」
すると、横にいるアリスがケータイを弄くりながら、
「オモニ。あたしのお母さん」と教えてくれた。
なるほど、そういうことかと思ったわたしはアリスに、
「ねえ君、お姉さんいるの?」と訊ねると、彼女は少し考えてから言った。
「うん…、いるけど。どーして妹じゃなく、上だと思ったの?」
その瞳はわたしを執拗に詮索していた。
わたしは彼女の髪を撫でて「君、甘えん坊さんっぽいから」
するとアリスは「ねぇ、お父さん。そぉ?」
斜めから見たミシェルさんは軽く笑っているようだった。
それで大分謎が解けてきた。
話はこうだ。わたしの父は昔、ミョンヒさんという在日韓国人と交際していた。だが、何らかの事情により、二人は別れざるを得なくなった。その後、父は母と結婚し、わたしが生まれた。ミョンヒさんのほうは、フランス人のミシェルさんと結ばれて、ハーフ顔のアリスが生まれたということだ。また父とミョンヒさんは別れる間際にある約束をした。その約束というのは、叶えられなかった自分たちの結婚をお互いの子供に託し、果たしてもらうことだ。ミミ姉に関しては父とミョンヒさんの間にできてしまった子だ。以上。
気づくと、車は旧コマ劇場を通り過ぎて、そのままどんどん怪しい所に進んでいった。見渡せば、至る所にHOTELの文字が見つかり、それだけでわたしは猥褻な気分にさせられるのだった。
その界隈に降ろしてもらったわたしだが、ホテルへは直行せず、またもバーへと入店した。それはこのような出逢いには少なからず甘美な空気が欲しかったのと、焦らずともやがてはホテルでベッド・インだからだ。彼女を連れて立ち入ると、何かとても熱い視線を奥の方から感じたわたしだが、今のわたしはアリス一筋なので、その女を見つけようとはせず、ちょうど二人分の空きをみせたカウンター席に寄り添うようにして腰掛けた。早速わたしは女のバーテンダーにジントニックを注文した。今もわたしを狙う女の視線があった。
バーテンダーは最後にライムを沈めると、グラスを「どうぞ」と差し出した。
ライムを外してもらうのを忘れたと思いながらも、まあいいかと思ったわたしだった。
わたしはアリスのほうを見て、「君は?」
すると、彼女は小声で、
「お姉ちゃんがいる。後ろ振り向いて、左の一番奥のテーブル見て」と、言った。
その先には洒落た雰囲気に綺麗に溶け込んだミミ姉の姿があった。桃色のカクテルドレスに身を包んだ彼女は奥のテーブル席で一人ワインを飲みながら、こちらへ視線を注いでいた。わたしと目が合った彼女は微笑ましい笑みとともに、わたしに向けて軽く片手を振った。
それを見たバーテンダーは二人を気遣うように「どーしたんですか?」
「いや、別に。あの客、こっち見てるなって」と、わたしが言うと、
バーテンダーは「あちらの方はお客様ではなく、ここのオーナーです」
「アリス、だって」
「そんなの知らないよー」
わたしは静かに立ち上がると、それを見たバーテンダーは「もう帰りますか?」
わたしは首を横に振って、
「違う。ちょっと挨拶してくる。せっかく、目が合ったわけだし」
すると、何も知らないバーテンダーは微笑みながら「紳士ですね」と言ってわたしを温かく送りだそうとした。
だが、アリスがわたしの服を引っ張って「ダメダメ。お願い、やめて」と懇願してきた。
わたしは彼女を眼下に収めて「どうして?」
すると、アリスはわたしを上目にすると、
「お姉ちゃんが意地悪して誘うから」
「誰を?」
アリスは小声で「あなたを」
「どこに?」
「ホテル」と呟いた彼女の目には小さな涙があったように見えた。
ヤバッ、もう済みじゃんと思いながらも、
「そんなことない。俺がついていくわけない。だって、そーだろ?」
「でも」
そこへ、ミミ姉が飲みかけのグラスとワインボトルを持ってやってきた。彼女の体にマッチしたドレスから醸される並ならぬX字体が、今夜もわたしを誘い込んでいるかのようで、昨夜の悦楽晩餐会を何度も思い返してしまうのだった。そしてもし、また誘われるならばわたしにはアリスを捨てる気があるようにすら思えた。
(読者の声)アレッ、オ前近親相姦ハ嫌イナンジャナイノカ?
今のわたしはアルコールによりモラルが半減しているから歓迎だ。
アリスはミミ姉を見るや、「お姉ちゃん、勝手にすれば」と言って、近くの空いているテーブル席に一人坐ると、そこからこちらの様子を窺い始めた。
ミミ姉は「じゃあ勝手にするわ」と笑顔で答えると、アリスが空けた席に坐した。
バーテンダーはグラスを拭きながら「ミミさん、その方と知り合いですか?」
「まぁね」とミミ姉。
そして彼女は横を向き、アリスを見ながら、
「アリスが見てる。ホント嫉妬深い子」
わたしは「ねぇ、アリスってどんな子なの?」と訊ねた。
すると、ミミ姉は労働に勤しむバーテンダーをグラスで指して、
「彼女みたいに純粋。今はね」
と言うと、残り僅かなワインをすべて口に含んだ。
わたしはアリスをチラリと見て、「じゃあ昔は?」
ミミ姉が空のグラスをこちらへスライドさせたので、
わたしはボトルを取ると、そこに注いだ。
ミミ姉はグラスを手にして、そこに溜め込まれた香りを楽しむと、
「わたしみたいになろうとしてた」
と言って、グラスを二、三度傾けては舌を潤した。
「ミミみたいに?」
「そう。多分もう5、6年ほど前かしらね。アリスったら「手紙のフィアンセなんかヤダ」って言ったり、「自分で探すんだ」って言って、ホントに探し回ってたようだけど、知ってる限り全部わたしが潰したから。多分、まだ処女よ」
わたしは「どうしてそんなことを?それは彼女の自由じゃないの?」
「そうね。確かにその通りかもしれない」とミミ姉は答えて、秘密の薬を口に銜えると、それをキャンドルの炎で発火させては幾たびも超現実を吸い込んでいた。
わたしはミミ姉から「やめなよ」と言って、吸いかけの煙草を奪うと、それをワインが半分残っているグラスに放り投げた。すると突如、真っ白な炎をだして小さく燃えだした。
「あなたは親父と同じじゃないか」
ミミ姉は燃え続ける炎を見ながら、
「あの子には清純でいてほしかったから」
「どーして?それは自分を否定してるのか?」
ミミ姉は掛け時計を見て午前1時29分になるのを確認すると、
「どーだろ。わたしもよくわかんないのよ」
その時、ガラス張りの向こうに広がった舗道で、アストン・マーチンの白いオープンカーが突如現れては即座に停車するのを見かけた。そして、しばらくもしないうちに一人の男がスーツ姿でこのバーにやってきた。それは昨夜、ミミ姉を宥めたバーテンダーだった。
ミミ姉もその男に気がつくと、
「こっち。こっち」と手を振っては小男をこちらに来させた。彼は背丈が160センチミーターもないため、背の高いミミと比べればスタイル上からも見劣りは確実だった。
ミミ姉は席を立つと、
腕時計を指し示して「すっごい。ちょうど、ピッタシ」と小男に言った。
小男は「ミミさん、全部買ってきました」と言った。
「ありがと。じゃ、行く?」とミミ姉。
「そーしましょう。ところでオレの名前は―――」
すると突然、ミミ姉は怒って、
「ダメ!約束でしょ。わたしは名前なんて興味ない。わかった?」
情けない様子で「はい」と応えた小男。
その会話で疑念が沸いたわたしは、
「ミミ、まさか…」
ミミ姉はわたしの瞳を見つめながら、
「そう。そのまさか。わたしファムファタルだから」
と言うと、小男の首筋に手を回して大胆にもキッス(キス)した。
その公然猥褻にもわたしは不思議と魅惑されてしまうのだった。
柔らかいモノをしまい込んだミミ姉は、
「じゃっ、わたしはこれで失礼するわ」
と、言うと、赤ら顔の小男とともに店を出た。その先にはエンジンを吹かして待っているオープンカーに颯爽と飛び乗る女の艶姿が見えた。それはとても四十路超えとは思えないほどの芸術性で、僅かながらも小男に嫉妬していた自分がいた。
ミミ姉のお出かけを見届けたわたしをじっと睨み付けている女がいた。
それは忘れかけていたアリスだった。わたしは再び彼女をカウンター席に呼び戻した。
アリスはジュースを飲みながら、「多く話してたんだね」とイヤミにも言った。
わたしは「ああ。だって、姉弟だからね」
と切り札を使うと、アリスはとても驚いた様子で、
「じゃあ、やっぱりホントなの?」
まあ、俺も最近知ったんだけれどもと思いながらも、
「えっ?君、知らなかったの?」
「お姉ちゃん、綺麗だけどハーフ入ってなさそうだから、ずっと不思議だったんだ。昔、お父さんに訊いたの。「ねえ、お姉ちゃんってホントにお父さんの子?」って。そしたら、「わたしが育てた以上、わたしの子だ」って言っただけ。それ以来、そーゆー話してないから、わかんないんだけど、やっぱりそーだったんだ。でも、あたしにはお姉ちゃんに変わりないよ。ただフリーセックスのとこがヤだけど」
とアリスは言うと、軽く笑ってみせた。
その後、わたしはバーボンを時折呷りながら、アリスと会話を楽しんだ。
アリスはオレンジジュースをまた注文し、
「そういえばコレ」と言ってバッグから一通の封書を取りだすと、それをわたしのもとに置いた。見ると、小さな紫色の封筒で、中は既に開封済みだった。封筒の表には〝愛娘へ〟と記されていた。
「これもしかして―――」
興味本位から封筒を裏返したが、そこにはOUR promiseではなく、1 AM と記されていた。
「お母さんからの手紙。ヨーは持ってる?」
「あるが、家に」
「そっかあ。ねえ、でもここに何が書かれているか覚えてるでしょ?」
と言うと、アリスは大きく瞬きしてみせた。
わたしは「ここ?」と訊いた。
アリスは頷くと、「大文字で書かれてた部分だけでいいから」と言って、メモ帳から一枚紙を切り抜くと、それとペンをわたしに手渡した。
わたしは紙の中央にOURと綴って、「オー、ユー、アール。OURだ。これがどーした?」 と、言うと、その紙を封筒の上に載せた。
アリスは笑みを浮かべながら、
「ちょっといい?」と言って「OUR」の文字が右端に来るようにズラした。
そこにはAMOURとあった。
「これが何?」
アリスはわたしの暇な片手に自分の両手を被せると、わたしの瞳を見つめながら「AMOUR.」とフランス語のようなイントネーションで言った。
「なんて意味?」
アリスは自分の親指と親指を、人差し指と人差し指を、それぞれ先端で繋げて、ハートを形作ると、そのワッカを自身の胸元へと立体的なワッペンのようにくっつけると、わたしを可憐な瞳で見つめ出した。
そして可愛らしい声で、
「英語にするとLOVE。愛。素敵でしょ」
‐完‐