34:涙粒
聞き違い……じゃない。嫌じゃなかった、と彼女は言った。俺はそう認識すると彼女の背中にそっと腕を回す。
いいのか? 抱きしめちまって――いいのか?
「……本当に?」
我ながら馬鹿な質問だった。しかも声は震えていた。俺が何を恐れているのか、彼女には伝わっているだろう。俺の腕の中で小さく頷いた彼女の答えに、胸の奥がつんと痛んだ。
その痛みは――何を意味するのか、俺はわかる。言葉で説明は出来ないけれど、きっと彼女もわかってくれる。こみ上げる痛みと一緒に、彼女の背にまわした腕に力を込めた。
「本当に……?」
まるで夢みたいだと自問自答していた俺の問いはつい言葉に出てしまっていたらしい。零れた声を彼女は受け止め、今度はさっきより強く、頷いた。
現実感と幸福感がわきあがって、俺は彼女を抱きしめた。きちんと両腕に力を込めて、彼女を腕いっぱいに感じられるよう抱きしめた。温かい体温が、心臓の鼓動が、伝わってくる。
ひとときの激情がゆっくりと静まり始めて、俺は腕の力を緩める。しかし離すまいと彼女の両腕をそっと掴んで、ゆっくりと彼女の顔を覗き込んだ。
喉のところまで何かがびっしりと詰まったような感じがして、なかなか声が出なかった。それでも俺は言葉を、声を何とか捕まえる。
「俺――あんたのこと」
「待って」
彼女が俺の言葉を押し留め、俺を見上げる。俺は真っすぐに彼女を見つめた。
たとえば以前彼女を抱きしめたときに感じた欲情は――今俺の中にはなかった。それよりも彼女がここにいることの方が今の俺には大事だったからだ。そしてこの気持ちを言葉にすることが。彼女に伝えることが、大事だった。
彼女は俺をじっと見つめた後ゆっくりと自分の右手で左胸――心を指し、そしてその手を俺の心にそっと重ねた。その仕草で、彼女の言いたいことは伝わってくる。
「わかってる」
「……うん」
俺は真面目に頷いた。言葉で共有しなくてもわかることがあるという事実を、俺も彼女も痛いくらいにわかっていた。たぶん、感じ合うことの方がより正確に感情を伝えることが出来るだろう。
気持ちを言葉へ変換するときに微妙にずれが生じ、相手に伝わった言葉の印象がそこでまたずれを生じ、そして相手が言葉から感情に置き換えるときに差異が出る。――それは仕方のないことだ。