31:苦渋
彼女、だった。ただそれだけが嬉しくて、ごくりと喉が鳴ったのを俺は必死に押さえ込む。
「――桜」
「え」
眼を逸らしたのは、気付かれたくなかったから。声は掠れなかっただろうか。彼女の声は細くて、小さい。
「もう、散っちゃうな」
「―――うん」
俺は彼女の様子が気になっていた。どことなく、儚げに見える。まるで泣き出しそうになるのを我慢しているように。
ゆっくりと視線をおろして、見上げている横顔を見つめる。
「苦しく、ない?」
思いのほか自分の声が柔らかく聞こえた。保科を気にするのとは全然違うこんな気持ち。昨日あの人に聞かれたときはつい『好きだ』って言っちゃったけど……それはやっぱりそう、なんだろう。
「苦しく――?」
「そう。いつも、苦しそうだったから」
彼女が答える。泣きそうな表情。俺はそれが――彼女が哀しそうなのがやけに苦しくて、それだけ言うと桜の木から、離れる。
大股に彼女に歩み寄ると何も聞かず、ただいきなり彼女を抱きしめた。
「泣くな」
それだけしか、俺には言えない。泣かないで欲しい。彼女には泣いて欲しくない。俺が何か出来るのなら――彼女が泣かないように何か出来るのならいいのに、と、切に、思う。
彼女は俺の腕の中で微動だにしない。拒まれないのをいいことに、俺は腕に力を込めた。……そっちは、半分以上欲情かもしれなかった。彼女の短い髪が頬をくすぐる。
ああ、そういえば――と、俺は思い出していた。前回ここで会ったときはいきなりキスして、そして彼女が逃げたんだった。そうだ、俺、そのことすら謝らないでこんなこと。
僅かに逡巡する。それとほぼ同時に、彼女が俺の腕の中で微かに声を上げた。
「――待っ……て」
掠れたような声は酷く怯えているように聞こえて、俺はびくりと腕を振るわせる。
そうだ、当たり前だ。きちんと謝りもせずにただ俺は、自分の欲情ばかりを彼女に押し付けている――胸に覚えた後悔の念が顔に出ないように出来る限り努力して、俺は彼女を解放した。掠れてしまいそうになる声を意識的に張って、それでも少し、震える。
「……ごめん」
「―――違う」
彼女が首を振って、何かを否定した。それが何なのか――俺に下される言葉が何なのか、次の声が待ち遠しい。