10:黙認
「……どうして、また泣いてる?」
振り返った先のその姿に驚いて一瞬声が詰まり、それから俺は言った。
傘を持っていないせいなのか、髪がしっとりと濡れている。しかし、瞳は溢れる涙をぽろりと零した。彼女は少しの間呆けていたけれど――ゆっくりと頭を振る。それから桜の天井を見上げた。
細かな雨粒が溜まって、水滴になる。重そうに桜の花はその粒を抱えて抱えて抱えて――抱えきれなくなった時に、ぽろりとそれを取りこぼす。まるで、さっきの彼女の涙みたいだ。
涙を一粒零した彼女は、何も言わずに見上げている。その横顔を見つめているうち、はっと思い当たって俺は歩み寄り、薄汚れた透明な傘を差しかけた。
彼女はその視界に急に入ってきた異質物に驚いたように瞬きを繰り返し、そして俺を見る。
「ありがと」
瞳はまだ濡れていたけれど、涙は半分乾いていた。視線をもう一度、今度は灰色越しのピンクに投げやると、ぽつりと言った。
「居ると思わなかった」
「……俺も」
「そう?」
「ああ。来ると思わなかった」
彼女との会話にしては至極一般的でスムーズな会話だった。俺にしてみればそっちの方がなんだか違和感がある。彼女は可笑しそうにくすりと笑う。
「なんか、変」
「……だな」
「そう思う?」
「ああ」
「変な人」
「……」
「ありがとう」
「何が?」
ぽつぽつと続いた会話が、急にそこで途切れた。ちらりと彼女に目をやるけれど、視線は合わなかった。
「わかる、って言ってくれて。嘘でも、嬉しかった」
彼女の口元は微笑んでいた。視線はピンクの天井。そしてそれを見つめる瞳からは――涙がもう一粒、零れた。
嘘じゃなかった、という科白がどうしても出てこなかった。どうしてだかわからない。彼女がそれを望んでいると俺は感じ取ったのに――言えなかった。
黙っていることで俺は、彼女の言葉を肯定したと同じだった。